格闘家

「勇者さま! 勇者、カイさま、ですね!」
 ルイーダの酒場を出たカイ、メルツ、そしてフィース。三人の前に飛び出してきたのは、一人の少女だった。
 まだあどけないといっていい顔つきに、旅装束と使い込まれた荷を背負った姿がアンバランスだ。腰に下げた得物は金属製のナックルと爪。そして、年頃の娘には有り得ないほどに使い込まれた拳。
「わたしは、リンと申します。武の道を究めんと修行の旅の途中にある者です。これまでのカイさまのご活躍、よく存じております!」
 ぺこりと頭を下げると、二つにまとめた黒い髪が一緒に跳ねる。希望に満ちた眼差しで、リンと名乗った少女はカイを見つめた。
 これはまずい、とフィースは内心焦った。
 カイは、勇者というより、勇者に倒される悪役が似合う男だ。しかし、世のほぼ全ての人間は、その複雑な内面を知らない。恐らく、彼の家族でさえも。
 何の疑いもなく『勇者様』に憧れ、一方的に期待をし――そして、カイにその夢を砕かれた人々を、フィースは沢山見てきたのだった。
 案の定、カイは彼女を一瞥し、その後フィースをちらりと見ると、そのまま彼女の前を通り過ぎた。俺に向けられた目線を解読するなら、『面倒だからフィースに任せる』、そんなところだろうか。彼らしい反応だ。
「あの、カイさま。……カイ、待って」
 ペースを変えずに歩き続けるカイを引き止めようと、メルツがその後を追う。それくらいのことで立ち止まるような奴じゃないのに、とフィースは苦笑いした。先が思いやられる。あの箱入り僧侶さん、きっとこれから苦難の連続だろう。
 その場には、きょとんとしてカイの背中を目で追っている少女が残された。面食らうのも当然だろう。
「えっと、リンさん? 俺たち、これからすぐに魔王討伐に出るんだ。もう用がないなら、これでお引き取り願っても?」
 彼女の心の傷が最低限のもので済むよう、フィースはそう言って退くように促した。しかし、彼女は食い下がる。
「いえ、その魔王討伐ですが」
「ん?」
「ぜひ、わたしをお連れください! きっとお役に立って見せます!」
 きらきらと輝く瞳で、リンはフィースを見上げていた。
 それは予想外だ。まったくの想定外だ。
 どう答えるか迷ったものの、結局フィースは自分の本音を彼女に告げることにした。それが、この場では一番効果的のような気がしたからだ。
「……やめた方がいいよ」
「どうしてですか? わたし、勇者さまのお力になりたいと思って、辛い修行をここまで耐えてきました。どんなことがあっても倒れない自信はありますし、それなりの武力もあると自負しています。決して足手まといにはなりません。どうぞ、お願いします」
「君がいくら強くても、カイとの相性ってものがある。あいつ、すごく気難しい奴でさ。俺は幼なじみの腐れ縁だからあいつの扱いには慣れてるけど、他の人間をまったく寄せ付けないんだ。僧侶の姉ちゃんは国王の命で同行するけど、すでに気疲れしてるし」
 リンは相変わらず丸い目でフィースを見上げていたが、すぐににっこり笑った。
「大丈夫です。……ええっと、あなたは」
「おれ? フィースです」
「フィースさんは、カイさまのご友人なんですよね?」
「ま、そうなるね」
「それでは、フィースさんのようにカイさまと心を通わせられるよう、努力しますから! 問題ありません!」
「……そう来たか」
 リンは小さい胸を張って自信満々にそう答えるので、フィースは思わず吹き出した。
 ものすごくポジティブなのか、空気が読めないのか。
 もしかすると、これくらいの勢いと無垢な心の持ち主なら、カイを覆う闇に食い込んでくれるかもしれない。カイを、勇者ではなく、ごく普通の『少年』にしてやりたい――フィースが何年も掛けて挑んできたその望みを、託すことができるかもしれない。
「君、強いの?」
「え? あ、はい。人並み以上には」
 そもそも、この危険な旅に志願するなんて、腕に覚えが無くてはできない。無駄のない身のこなしや、鍛えられた拳の様子を見る限り、恐らく実力は見た目以上にあるのだろう。
「俺は構わないんだけどなあ。カイさえよければ」
 フィースが困惑して頭を掻いていると、カイを捕まえたメルツがようやく戻ってきた。
「どうしました? フィースさん」
「ああ。俺たちと一緒に行きたいって言う子なんだけど」
「あら」
 メルツはおっとりとした仕草で頬に手を当てると、リンを見つめた。
「はじめまして。私はメルツ・ターウェルと申します。……武闘家さんですのね?」
「はい! お役に立ちたいんです。私を、連れて行ってはくれませんか」
「くだらないな。……先を急ぎたい。行くぞ」
 カイはやはり何の興味もない、といった顔で踵を返した。その背を、リンの声が追う。
「お待ち下さい!」
「話だけでも聞いてやってくれよ、カイ」
「時間の無駄だ。……俺は、俺が認めた人間としかつるまない。諦めろ」
 振り返りもせずに、淡々とそれだけを言い残し、カイは去っていく。
 ぷちん、という何かの音を、フィースは聞いたような気がした。次いで、リンの気合いが入った叫び声。
「……認めさせてやろうじゃない!」
 次の瞬間、フィースとメルツの前に風が吹いた。リンが空気を切り、恐ろしいほどの速さで駆け抜けるとカイを蹴り上げた――らしい。実際にフィースが見ることができたのは、両腕を交差してリンの蹴りを受け止めたカイの姿のみ。彼女の速さについて行けたのは、この場ではカイだけだったのだ。
 腕と腕の間から覗いた目が、普段よりも少しだけ大きい。カイが驚く顔を、フィースは久しぶりに見た。
「何のつもりだ」
「認める認めないって、そう言うならチャンスくらいくれたっていいじゃない! この冷血勇者! 何様のつもりなのよ!」
 叫びながら、リンの拳と足は素早く動き続けていた。カイはそれをかわし、あるいは受け止めながら、リンの話を聞いている――いや、聞かされている。しかし、その表情は相変わらずクールだ。
「人には、もっと優しくしなよ! でないと、あんたには魔王を倒すことなんか! 世界を救うことなんか、できっこないっ!」
 リンの渾身の力を込めた拳が、カイの左頬を直撃した。初めてまともに入った一発に、リンは笑顔になる。
「やった――」
「嬉しそうだな」
 カイは、左頬を打ったリンの腕を掴む。リンの目が見開かれ、驚きで顔が歪んだ。
 フィースは、カイがリンを捉えるために、わざと左頬への一撃を受けたのだと気付く。あのラッシュの中、冷静にそれを判断し、実行するカイ。リンよりも何枚か上手だったと言っていい。
「いたっ――痛い!」
 握られたリンの手首がくびれ、徐々に色を失っていく。端から見ているフィースやメルツにも、それがどれほどの強さなのかが分かるほどの力だ。
 リンを十分に引き寄せてから、カイは彼女の耳元で何かを囁いた。リンは驚きとも悲しみとも見える、何とも言えない表情になり、眉を寄せる。何を言ったのかはフィースには聞こえてこない。
 やがて、カイはリンの腕を掴んだまま、彼女に向かって拳を振り上げた。狙いは、リンの左頬。
 ――まさか、やり返すつもりじゃないだろうな。
 あのカイが、かっとなって女の子の顔を殴る――なんてことが果たしてあり得るのだろうか。半信半疑ながら、フィースはカイの元へと駆け寄る。走りながら、カイを止めようと怒鳴った。
「カイ! 勝負は付いただろ!」
 フィースが、ダメだ間に合わない、と諦めた瞬間、ひゅ、と空気を切る音だけがした。
 カイの腕は、リンをわずかに逸れて空振っていた。
「目は閉じないのか」
「目をつぶったら、敵が見えません」
 しっかりとカイを見据えて、リンは言った。カイはその言葉に舌打ちすると、ようやくリンの腕を放す。
「勝手にしろ。……俺は酒場に戻るぞ」
 カイはそのまま酒場のドアを開け、中へととんぼ返りした。突き放されてよろめいたリンを、フィースは慌てて支える。
「見かけによらず、無茶するなあ。ケガはない?」
「……わたしに向かっては、一発も打ってきてないんです。ケガのしようがないわ」
 それでも、カイに握られていた手首には赤黒く痣が残っている。遅れて駆けつけたメルツが、リンの傷の手当てを始めた。
 リンはカイにまともに取り合ってもらえなかったことがよほど悔しかったのか、唇を噛み締めていた。彼女はああ言うが、フィースにとっては、逆にカイがリンに一撃を入れさせたことが驚きだった。
 確かにカイは強い。王宮の剣士が束になってかかっても敵わないほどの腕の持ち主だ。
 そのカイが、自分が傷つくのを承知でおとりの一撃を受けるなんて、めったにないことだ。この子、あいつを結構いいとこまで追いつめたんじゃないか?
 手首の治療がおわっても、リンはまだしょんぼりとしていた。カイに歯が立たなかったことをまだ引きずっているのかと、フィースは明るく話しかける。
「カイが勝手にしろって言ったってことは、付いてきてもいいってことだよ。あいつ、『勇者さま』になるまでにいろいろあって、屈折してて分かりづらくなっちゃったんだ。根は悪い奴じゃないんだけどね。……で、どうする? あんな勇者さまに、こんな頼りない仲間だけど、一緒に行く?」
「行きます。……連れて行ってください」
 フィースは、涙混じりの声に驚いた。
 顔を上げたリンは、ぼろぼろと涙をこぼして泣いていた。そんなに悔しかったのか、とフィースが尋ねると、リンは首を振る。
「わたしに言ったの。『世界なんか興味ない。俺は俺自身を救うためだけにしか戦わない』」
 そう言えば、さっきの手合わせの最中、確かにカイはリンの耳元で何ごとかを呟いていた。いつもの軽口だろうか。それとも、つい口をついて出た本音だろうか。カイが心の中を晒すような言葉を吐くのは、珍しい。
 リンは、手首の包帯で涙を拭いた。
「……何か、見えない敵と戦ってるみたい。あの人、救われたいのかな。あんなに強いのに、いったい、何から助けて欲しいのかな? わたしに、勇者さまを救うことはできますか?」
 この子は、カイのために泣いてくれる。腕っ節も頼りになるが、それだけではない子だ。この優しさ、純粋さは、きっとカイのために――ついでに、ひいては世界のために、きっと役立ってくれるだろう。
「一緒に頑張れば、何とかなるかもしれませんよ? 実は、私も今、頑張っているんです」
 メルツがリンの手を取って、カイが待つ酒場のドアへと導く。フィースも、リンの小さな背を押した。
「じゃ、もう一度初めからやり直しますか。……まずは、出会うところから」

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