父の形見

 真夜中、気配を感じ、リンは目を覚ました。部屋を見回すと、メルツは隣のベッドで静かな寝息を立てている。では、自分を起こした気配は部屋の外のものか。
 耳を澄ますと、廊下を誰かの足音が遠ざかっていくところだった。
 いくら忍んで歩いたとしても、リンには分かった。
 間違えようがない。あれは、何度も何度も、聞き飽きるほど聞いている、うちの勇者様の歩く音だ。
 リンが窓から外をのぞくと、案の定、カイが月に照らされた路地を通り過ぎて行くところだった。いつもなら『無駄な体力を消費したくない』と早々と身体を休める彼が、今夜は夜の散歩とは。
 ――カイ、こんな時間にどこに行くんだろう。
 北国だけあって、ムオルの夜は寒い。リンは毛皮のコートを羽織ると、メルツを起こさないように気をつけながら、カイを追って外へ飛び出した。

 街の中をカイを探しながら歩き回り、リンがたどり着いたのは町はずれの小川だった。月の光が淡く跳ね返る川面を眺め、カイは一人岸辺に佇んでいた。
「……カイ」
 カイはリンが遠慮がちに掛けた声に、静かに振り向いた。この寒い中、手袋も着けずにいる両手が、月明かりに白く光っている。その手に握られていたのは、今日の昼に村の子供からもらったもの。
「水鉄砲?」
「壊れていたんだ。直してみたが」
「直ったかどうか確かめにきたの?」
 カイは答えずに一歩踏み出してしゃがむと、水鉄砲を川の中へと沈めた。気泡がぷくぷくと浮かんでは消える。
 今日は、うるさい、帰れとは言わないらしい。門前払いを食わされるかとびくびくしていたリンも、カイが意外と素直に話に乗ってきてくれたことでいくらか気が楽になった。表情はいつもの彼となんら変わりはないが、カイがこうして自分のことを語ること自体が珍しい。今夜のカイとなら、少しは心を通わせられそうだ。
「よく直せたね」
「水鉄砲は俺の家にもあったからな。奴に遊んでもらった記憶はないが」
 『奴』とは偉大なる戦士、オルテガのことだろうか。
 ――もしかして、拗ねてるのかな?
 ムオルの子供が差し出した水鉄砲はカイの心に何らかの波紋を投げかけたようだった。
 実の息子の自分とではなく、旅先の他人と楽しく遊んでいたなんて――例えば、そんなかわいらしい嫉妬のような感情など、この一匹狼が抱くことがあるのだろうか。
 リンは正直に、自分の考えたことを口に出した。
「オルテガ様は、カイと遊べなかったからこそ、ムオルの子たちと遊んで寂しさを紛らわそうとしたんじゃないのかな」
「本人がたとえそう思っていたとしても、残るのは事実だけだ」
「思いの部分が大切なんだよ」
「伝わらない想いなど、意味がない。伝えようとしないなら、その程度の思い入れしかないということだ」
 リンは、カイのその言葉に息が詰まりそうになった。
 父の作った水鉄砲で、たったひとりで遊ぶ子供の姿が、リンには見えた。
 彼は、いろいろなことをこうして自分に言い聞かせて、切り捨てて、諦めてきたのか。『偉大なる戦士』の息子であることに苦しめられて、心を殺してきたんだろうか。
 じわりと涙が浮かんできたが、毛皮のコートの裾で慌てて拭った。カイに気付かれないように。
 普段の彼なら、涙がうっとうしいと立ち去ってもおかしくない。こんなことでカイを怒らせて、この夜を終わらせるのはもったいない気がした。彼と分かり合うチャンスかもしれないのに、みすみす逃すわけにはいかない。
 カイは充填の終わった水鉄砲を川へと向けた。ピストンを押すと、水が綺麗な放物線を描いて飛び出してくる。
「……直った」
 カイは満足げにそう言って、少しだけ目を細めた。
 リンは自分の目を疑った。カイはこれまでの旅で、どんな絶望的な戦闘に勝ったときだって、そんな満ち足りた顔はしなかった。それが――今、笑った、のだろうか。
 笑い方を知ってるんだ。ちゃんと笑えるんだ。そう思った途端、こらえていた涙が溢れ出した。
 ――ダメだ、泣いたらカイに怒られる。
 しかし、リンの予想に反して、カイは首を傾げてこちらを見つめていた。
「どうして、お前が泣くんだ。……よく泣く。しかも、他人のためにばかり」
「これは別に、カイのためじゃないよ」
「だったらいい。慰めなくて、すむ」
 次の瞬間、カイはリンに向かって何かを投げた。
 パシッ、と音を立ててリンが受け取ったのは、件の水鉄砲だった。よく見ると、シリンダーにあたる部分に目張りがしてある。カイが修理した跡だった。
「明日、持ち主に返してやってくれ」
「返しちゃうの? オルテガさまの水鉄砲なのに?」
「俺のはアリアハンにある。……俺はこの水鉄砲に思い出はないが、あの子にはきっとあるだろう。だったら、返した方がいい。違うか?」
 違わない、と答えると、カイは頷いた。勇者の父が作って、勇者が直してくれた水鉄砲。持ち主の少年にとっては、絶対に、素敵な思い出になるだろう。
 カイの耳のピアスが光ったかと思うと、彼は何の前触れもなくリンに背を向けた。振り返ったとき、月光の加減でピアスがきらめいたらしい。
「先に戻ってるぞ」
 素っ気なく言って、去っていく。カイの後ろ姿が、少しずつ遠ざかる。いつものマントを外し、剣を帯びていないからか、意外と小さい背中だった。
 カイはまだ十六歳。私よりも一つ年上の少年。
「私も帰る!」
 後に続くリンを、カイはもちろん待ってなどくれない。水鉄砲を握りしめて、リンは彼を追いかけた。もう少しで、彼に届きそうだ――そう、思いながら。

-Powered by HTML DWARF-