あれがオルテガさまの息子、勇者さまだよ、という人々のささやきに、決してあこがれではない眼差しがついて回る。それは、まるで陰口だとフィースは思った。
 フィースは、深く被ったフードを少しだけ上げた。
 ちょうど、少年が一人、アリアハンの城から出てきたところだった。跳ね橋の上で付き添いらしい兵士と別れ、勇者は城下町の大通りから細く入り組んだ路地へと歩いていく。しなやかな身のこなしでありながら、足音だけはなぜか高く響いていた。わざと音を立てて歩いているのか、それともそういった歩き方が身に付いてしまっているのか。
 興味を引かれ、フィースは人混みに紛れて彼に近づくと、その後を追った。
 彼は、人々が想像する『勇者像』とはずいぶん異なる雰囲気をまとっていた。勇者が変わり者だとは人の噂でしか知らなかったが、ここまでとは、とフィースは思った。
 噂で聞いた話によると、勇者の少年はフィースよりも二つか三つ年下であるはずだから、十代前半のはずだ。
 しかし目の前の少年は、少年らしい溌剌さなど、どこかに忘れてきたようだった。荒んだ雰囲気が漂う。瞳は、感情が宿っていないように見える漆黒。そして、これも黒く見えるほどに深い紫紺のマントを着込んだ体は取り立てて大柄ではないが、鍛えられていると一目で分かった。
 とにかく暗く、黒いのだ。おそらくは外見だけでなく、心も。
「勇者よりは、魔王だな」
 フィースがそうひとりごちた、次の瞬間。
 前を歩く勇者が振り返ったかと思うと、軽々と跳躍した。いつの間にか抜かれていた剣がフィースのフードを突き上げて、隠していた顔が露わになる。
 一方のフィースもダガーを構え、勇者の顔に突きつけていた。応戦するのがあと一呼吸遅かったらどうなっていたか、とフィースはぞっとした。とても、少年とは思えないほどの手練れだ。
「何者だ」
 勇者は剣をそのままに、ただ一言フィースに尋ねる。冷たい声だった。
「通りすがりの旅人」
「嘘だろう。場数を踏んでいる奴の反応だ」
「……ただの盗賊だよ」
 フィースがそう言うと、勇者はようやく剣を納めた。
「さっさと失せろ」
「捕らえたり斬ったりはしないのか? 自称とはいえ、盗賊だぜ」
「興味がない」
「どうして」
「悪人を捕まえることは、俺には関係ない。……特に用がないのなら、もう行くが」
 徹底している。あまりに素っ気ない態度に、フィースは思わず苦笑いした。
 戦士オルテガの息子というからには、生まれてからこれまで、暖かい家庭で大事にされてきたのだろう。愛情を注がれ、食うにも困らず、十分すぎるほどの剣や魔法の教育を受けて。
 そのように育てば、きっと強さと慈愛を併せ持つ、立派な勇者ができあがるだろう――それが、フィースの持っていた『勇者像』だった。勇者は、きっとフィース自身の生い立ちとは真逆に生まれつき、真逆の人生を歩んできたはずだ、と。
 しかし、目の前の少年はそのイメージとはかけ離れていた。正反対と言ってもいい。暗く冷たく鋭い刃、それがフィースが見た勇者の印象だった。
「面白いな」
「……面白い?」
「勇者らしくないところが」
 勇者は眉間にわずかに皺を寄せた。初めてと言っていい表情の変化だったが、それも一瞬だった。彼はフィースを睨み、吐き捨てるように言った。
「では、常に清く正しく強くあり、誰にでもいい顔をしろと。何も考えず親の志を継げというのか。……反吐が出る」
「勇者、嫌なのか」
「奴の息子であることが、俺の最大の汚点だ」
 こいつは、たいした勇者さまだ。
 なぜだか、フィースはこのひねくれた少年が気に入ってしまっていた。勇者でありながら、そんなもの反吐が出るとはっきり言える。しかし、みんなが期待するものを跳ね除けたいと願い、陰で悪い噂を立てられようとも、それでもまだ勇者でいようとしているのだ。
「じゃあ、俺と盗賊になろうぜ」
 勇者の表情は動かない。
「ぴったりの通り名、付けてやるよ。お前なら――お前、名前はなんて?」
「カイ」
「カイか。カイなら『漆黒』だな。そうなったら、俺と組もうぜ」
「……それは――いい夢、だ。現実を叩きのめした後なら、それもいい」
 にこりともせずに、カイはそう答えた。自分の運命に打ち勝つのだという強い意志。別の人生を『夢』と言う――つまりは、今はまだ勇者でいることを選ぶ、そうフィースに伝えていた。
「……お前は、なんて名前なんだ」
「フィース。ほら、髪がこんなだから『白銀』って呼ばれてる」
「黒い勇者に、白い盗賊か」
「そういうのも、ありだろ」
 ふん、とカイは鼻で笑った。満面の笑みとはいかないけれど、フィースは彼の感情が揺れるのを確かに見た。とたんに、カイがどんな勇者になるのかが急に気になりだした。
「俺、カイが『現実を叩きのめす』日まで待つよ。手伝うからさ。俺も一緒に魔王を倒しに行ってやる」
「お前は――狂っているな」
 そうだな、とフィースも笑う。
「変わり者だから、同類が気になるのかもな。……また、来るよ」
「勝手にしろ」
 カイはフィースと別れ、歩き出した。その自然な歩みには、さっきまでの気を張った足音はもうない。
 フィースはその背中を見送ることもなく、街の喧噪の中へと戻って行った。

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