夜の町

 飛び込むように街への門をくぐったミラが「なつかしーい!」と歓声を上げた。
 アッサラームに到着したのは夕闇が降りる頃。妖しい篝火が灯りつつある街は人々が行き交い、活気に満ちていた。ミラのバニーガールの衣装も、この街では浮くことなく溶け込んでいる。
 嬉しそうに周囲を見回すミラにつられて、レグルスもつい笑顔になった。
「ミラはアッサラームから来たんだったね」
「そうよ。ねぇ、お世話になってた人に挨拶してきたいわ。……あたし、抜けてもい〜い?」
 いてもたってもいられないといった様子のミラ。次に訪れるのはいつになるかも分からないのだし、つもる話も山ほどあるだろうとレグルスは思った。
「ひさびさのふるさとだもんね。じゃ、宿を取ったら今晩は自由に過ごそうか。それでいい?」
 レグルスはミラ以外の二人、スバルとリゲルを振り返った。スバルはクールに頷く。リゲルは見るからに不機嫌そうな顔をしてはいたが、否定はしなかった。
 ありがと、とミラはレグルスに抱きついた。いつものことだ、とレグルスは苦笑いしつつミラを引き剥がす。
「宿はあたしに任せてよね。えっとぉ、サービス満点のところと、静かに寝られるところ、どっちがいい?」
 ミラが意味深に笑う。
 スバルが珍しく、ふっと鼻で笑った。彼女もそれなりにこの街の雰囲気、この状況を楽しんでいるらしいとレグルスは思った。
「私はどこでも寝られるからどちらでも。『サービス』が必要なのは男どもだろう」
 まあね、とミラはレグルス、そしてリゲルを見た。
「リゲル、どう?」
「な、なにがですか」
「どんな子が好み? 金髪で巻き毛か、それとも……リゲルはストレートの黒髪が好みよね」
 ミラは、意味ありげにスバルとリゲルを見比べた。ミラは金、スバルは黒髪。
「わ、私にはそんなサービスなど、必要ありませんよ!」
「ミラ、あまりいじめてやるな」
 リゲルをからかうミラに、見かねたスバルが声をかける。ストレートの黒髪、と言われたことなど歯牙にもかけていない。
「じゃ、スバルは? 女の子向けもあるのよ?」
「私も、遠慮する」
「それなら、普通のマッサージのいいお店を紹介するわ。今日は体を休めたら?」
「そうか。では、それは頼む」
 ミラとスバルの話がまとまったと見て、レグルスが口を挟む。
「宿も静かに寝られる方でお願いするよ」
 ミラは、あら残念、とたいして残念そうでもなく答えた。

 宿は、ミラが言ったとおり、賑やかな通りからは少し離れた場所にあった。宿屋の女将はミラの顔を見るなり「お帰り」と満面の笑みを浮かべた。
「ただいま、ママ」
「よく帰ってきたね。心配してたんだよ」
「元気にやってるわよ。……ねぇ、この人たち、私の知り合いなの。今晩泊めてもらえるかしら?」
「あんたの頼みを断るわけがないだろう?」
「ありがと」
「ありがとうございます」
 レグルスがミラに続いて頭を下げると、女将は「お代はいいから、好きなだけ泊まっていきな」と優しく言った。
「ミラはどうなんだい。あんたの部屋、まだそのままにしてあるよ。……すぐに、また行っちゃうのかい?」
「ごめんね」
 ミラがそっと唇に人差し指を当てたのを、レグルスは見た。何かを口止めしたのだろうと思い至ったものの、追求はしないことにした。誰にだって、話したくない過去はあるのだから。
「じゃあ、今晩は解散。みんな、朝までには戻っておいて」
 レグルスはほかの三人の顔を均等に見た。
 スバルはかすかに笑い、ミラは「はぁい」と間延びした返事。リゲルだけが顔をしかめていた。

「あの女将と、親子なのか」
 案内された部屋で、スバルはミラに尋ねた。
 ミラはベッドに腰掛けて、荷物をまとめ直している。彼女の雑な性格のわりにはきれいに整理された荷だな、とスバルは思う。
 ミラは女将をママと呼んでいたが、親子だとしたらどうにも似ていない。それにスバルには、親子というよりは祖母と孫くらい歳が離れているようにも思えたのだ。
「違うわ」
「……そうか」
 ミラの言葉にほんの少しの拒絶を見て、スバルは深くは聞かなかった。すると、今度は少し甘い声でミラが言う。
「聞かないの?」
「言いたいのか?」
 「スバルにだけね」と、ミラは荷物を放るとスバルのベッドへと跳んできた。猫のようにしなやかな身のこなしだった。ギシギシとベッドが鳴る。
 ぐっと顔を近づけ、小声でミラは言う。
「……ほんとのママじゃないわ。でも、この町のママなの。あたし、旅に出るまではここに住んでたの」
「部屋というのは、そういうことか」
 この宿にはミラの自室があるということだったのだ。ミラは笑顔で頷いた。
「ここのママとは、ほんとのママと同じくらい、一緒にいたのよ。……あたし、孤児だから」
「悪かった」
 言いにくいことを聞くもんじゃない、とスバルは後悔した。しかし、ミラはすっきりした顔でやはり笑っている。
「あたしが勝手に言ったのよ? ……でも、男のコたちには秘密にしてね、お願い」
 首を傾げるような格好で、ミラがスバルの顔をのぞき込んだ。金の巻き毛がゆるく揺れて、かわいらしい。
 スバルはいつの間にか、この遊び人が嫌いではなくなっていた。旅を始めた頃は毛嫌いしていたはずなのに、と自分で自分がおかしくなる。
「女の約束、だな」
 スバルは頷いた。
 いったい彼女が何を背負っているのか知らないが、いつかまた『内緒ね』と言いつつも打ち明けてくれるときが来るだろうから。

「リゲルはどうする?」
 一方の男部屋。レグルスは、リゲルに尋ねた。
「さっきの話だとミラとスバルは一緒に街に出るだろうし、僕も武器や雑貨なんかを見て回ろうと思ってるんだ。一緒にいく?」
「ここにいます」
 リゲルは肩をすくめた。
「楽しそうだよ?」
「荷物番も必要でしょう」
「金の髪の子も、黒い髪の子も選べるし」
「興味がありません」
「夜の街っていっても、いかがわしいことばかりじゃないと思うんだけどな」
「どうして皆さんは、私にそんなに構うんですか。私の反応が、そんなに面白いですか? ……私はずっとここにいますから、あとはご自由にどうぞ」
 ことさら強硬に、リゲルは突っぱねた。
「そっか。じゃあ、自由にしようかな。……リゲルは、本当にずっとこの部屋にいるんだね」
「ええ」
「わかった。僕、今日は朝まで帰らないつもりだから、留守番をごゆっくり」
 レグルスはなぜかニヤリと笑って、部屋を後にした。
 

 ベッドに横になって本を読んでいたリゲルがまどろみかけた頃、控えめなノックの音が聞こえた。
 ずいぶんと夜も更けていたが、レグルスは宣言通り戻ってきていなかった。隣の空っぽのベッドを一瞥し、不良勇者だ、とリゲルは呆れた。
 だとしたら、今のノックはレグルスだろうか。ようやく回り始めた頭を振りながら、多少乱れた夜着を直しつつドアを開ける。
「夜遊びはほどほどに――」
 レグルスに話しかけたつもりだったリゲルは、そこで言葉を切った。立っていたのはレグルスではなく、女性だった。
 ――スバル。……いや、違う。
 一瞬スバルと勘違いしたのは、彼女が黒い髪、黒い瞳の持ち主だったからだ。しかし、スバルでもなかった。そして、ミラでもない。
「お呼びいただいて、ありがとうございます」
「お呼び……?」
 もちろん、呼んだ記憶などない。
 見ず知らずの女性が自分たちの部屋を訪れる理由など、リゲルには思いつかなかった。いや、女性というには、少し歳が足りない。ちょうど、リゲルと同じくらいの年齢だろうか。闇夜のように黒いのに、輝いて見える瞳だった。
「私は呼んではいませんが」
「いいえ。……この宿のこの部屋ということで承っております」
「な、何かの間違いでは」
「いいえ、リゲルさま」
 なぜ自分の名前を知っているのだろう。
 少女はすっと部屋の中に進み出ると、後ろ手にドアを閉め、器用に内鍵をかけた。やけに手慣れた、一連の動作だった。
 少女はリゲルを見上げると、にっこりと微笑んで言った。
「今宵は私、スバル、という名です」
「え?」
「まだまだ至らぬところもございますが、精一杯つとめさせていただきます。どうぞ、よろしくお願いいたしますね」
 ――それは、つまり、そういうことか!
 理解したところで頭は混乱したままなのだが、ようやく合点がいった。謀られたのだ、と。
 リゲルが思い出したのは、レグルスの出しなの笑いだった。宿にリゲル一人という状況に気付いて、企んだのだろう。わざわざスバルの名まで指定して――。
「どうか、されました?」
 少女は不思議そうにリゲルの顔をのぞき込んだ。
 彼女は、開放的なこの街には似つかわしくないほどに服を着込んでいる。変わった作りの、どこかの民族衣装――幅の広い布を前で合わせて何枚も着込み、太い紐をベルト代わりに締めて、押さえる。そう、これは確か、ジパングの。
 そういえば、スバルのふるさとはジパングだった。企んだ誰かさんの徹底ぶりが伺える。
「あの、実は――手違いで」
「そんな。今から帰れなんて、おっしゃらないで」
「しかし、私にはそんな気はないんです」
 少女はリゲルをうまく制し、部屋の奥へと進んでゆく。
 押し戻そうと『スバル』ともみ合っているうちに、リゲルは仄かな香りを吸い込んだ。彼女の――『スバル』の服に焚きしめられた香か何かの匂いだ。
 ――頭がくらくらする。風邪でも引いたときのように体が熱い。目の前も、なんだか霞んでいる。
 少女が、ふらついたリゲルを抱き締める。妖艶な笑みを浮かべ、リゲルの顔を見上げた。
「いい香りでしょう? よく効くんですよ」
 リゲルはバランスを崩し、少女もろともベッドに倒れ込む。
 あれだけ着込んでいた服を脱ぎ捨てて、リゲルの上に乗った少女は、いつの間にか白い薄手の布一枚を残すのみになっていた。密着している場所から、柔らかい感触が十分すぎるくらいにリゲルに伝わってくる。
「さあ、名前を呼んで」
「……スバル」
「リゲル」
 眼前の少女が、美しく微笑む。きれいな黒髪が肩を滑って、リゲルの胸にさらりとかかる。
 『スバル』の唇がリゲルに落とされようとする、ちょうどその時、リゲルは彼女を押し止めた。
「待ってください。駄目ですよ」
「……何?」
「スバルはもっとがさつです。背は、あなたのように私を見上げるような可愛さじゃない。言ってしまえば、大女ですよ。ジパングの出だから黒髪の持ち主ですが、ろくに手入れもされずに、いつもはねて絡まっています。……違うんですよ。私にはあなたを『スバル』とは呼べません。『そんな気』も、もうありません」
 スバルと口に出す度に、リゲルの鼓動はなぜだか早くなった。『スバル』とスバルが、リゲルの心を波立たせる。湧きあがる違和感と、もてあましそうになる甘やかな気持ち。
 『スバル』は目を丸くして聞いていたが、やがてはじけるように笑いだした。芝居がかった『スバル』の仮面は、すっかり剥がれてしまっていた。
「こんな状況になったらね、普通は――名前なんかどうでもいいから、ものにしてやろうって思うわよ? あたし、そんなに魅力がないかしら?」
「いいえ。とても――素敵だと思いますよ。私が、普通ではないのでしょう。それに、あなたは」
「本当のスバルではありません、って? 面白い人ね」
「面白い、は初めてですね。面白くないやつだとは言われ慣れていますが。……もし今晩帰れないというなら、泊まっていってください。私は何もしませんから」
 彼女はリゲルの上で心底おかしそうに笑った。
 きれいな少女だとは思う。さっきの香りのせいか、それとも自分の自制心が足りなかったのか、妙な気持ちにだってなりかけた。
 しかし、もうそういう問題ではないのだ。『スバル』とは正反対のスバルのことが、気になって仕方がなくなっていたから。


「おはよう、リゲル。いい朝だね。……気分は?」
「まあまあ良いですね。すっきりしています」
「『スバル』に惚れちゃ、駄目だよ」
「惚れませんよ」
 ――そっちにはね、と呑み込む。あなたのおかげで――いえ、あなたのせいで、未整理だった感情を一つ見つけてしまいましたよ。どうしてくれるんですか。
「どんな感じだった?」
 レグルスは自分の両頬に手を当てて柔らかく押してみせた。首を傾げていると、彼は「ぱふ、ってしてもらった?」とリゲルに尋ねた。何だかよく分からないが、多分レグルスの言う『いかがわしいもの』のだろうという気がして、リゲルは苦笑いした。
「……もう、お節介はやめてくださいね。知りたくないことまで無理強いするのは悪趣味です」
「悪かったよ」
 レグルスが、やはりニヤリと笑った。勘違いしていそうな表情だったが、訂正するのも面倒だったのでそのままにしておくことにした。
 やがてレグルスは、ミラとスバルのところに行くといって部屋を出た。何か楽しげな報告をしに行くのだろうと、その背中で分かる。ミラに、そしてスバルにあることないこと吹き込むつもりだろうか、とリゲルは深くため息をついた。
 何がお節介で、何が知りたくないことだったのか――レグルスは、リゲルの言葉の本当の意味に気付いていないだろう。
 ――私も、できればまだ知らずにおきたかったのに。

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