様子を見ている

 リゲルは前を歩く武闘家の少女の表情を伺っていた。いつもなら闘志をみなぎらせて駆けていくスバル。今日は歩みも鈍く、顔色も悪い。
 勇者の一行は、ジパングの洞窟に足を踏み入れていた。燃えたぎる溶岩が流れる洞窟の中は。暗く、熱い。そして時折、何とも形容しがたい叫びがこだまする。
「これ、オロチの鳴き声かしら?」
 ミラが、装備する杖を握りしめて言った。まだ転職したての魔法使いのミラだが、その破壊力は抜群。彼女のこれまでの努力が、秘められた素質と結びつき、ようやく開花しつつある。おかげで近頃は、回復や戦闘の補助役に徹することができるリゲルである。
 レグルスが、ミラの言葉を受けた。
「おそらくね。声からすると、ずいぶん大物みたいだ。……スバル、大丈夫?」
「……心配ない」
「顔色が悪いですよ。休んだ方がいいのでは?」
 リゲルの問いに、スバルは微かに口角を上げた。
 スバルはジパング出身。国を治める、ヒミコの親友だったのだ、と本人は言う。あるときから別人のように変わってしまったヒミコと向き合えなくなり、国を出たのだ――と、リゲルはここまでの道すがら聞いていた。そして、さきほどそのヒミコと会見してから、スバルは明らかにおかしい。
「大丈夫だ。それに、オロチの討伐と私の問題とは別だろう」
「……無理はしなくていいからね。辛いときは、言って」
 レグルスはスバルの肩を軽く叩くと、先頭を行った。ミラ、スバルがそれに続き、しんがりはリゲルが務める。
 奥の方からは、相変わらず何者かの咆哮が轟いていた。

 視界に収まりきらないほど大きな蛇――いや、ドラゴン、竜と言ってもいいだろう。いくつもの頭を持つ竜が、鎌首をすべてこちらに向けていた。
 ああ、ともおお、ともつかない叫びが、オロチから発せられる。鼓膜がびりびりと震え、足がすくむ。リゲルは、敵に圧倒されそうになる自分を奮い立たせた。
 ふとスバルを見ると、彼女はただ立っていた。オロチの様子をうかがうような素振りはあるが、特に構えることもなく、何かを見ている。
「しっかりして、スバル!」
「スバル、どうした?」
「スバル」
 皆の問いかけに、スバルは抑揚なく言った。
「オロチの足下に、翡翠の玉(ぎょく)が」
 リゲルは目を凝らす。足下に、とスバルは言うが、リゲルには白い塊があるようにしか見えない。
 ――あれは――骨、か。
 動物の骨。もしかしたら、人間の骨かもしれない。オロチが食べたものだろうか。
 スバルはパーティの誰よりも目が利く。おそらくその中に、他の三人には見えない何かを見たのだろう。レグルスが優しく問いかけた。
「僕には、よく見えないけど。……あるんだね」
「あれは――あれは、私が」
 珍しく、スバルは言葉を詰まらせた。いや、言おうとはしているのだが、口を開け閉めするばかりで声にならないのだ。何かが、彼女の心を絡め取っている。
 レグルスがミラを見た。目が合って、ミラは頷く。
「ここはリゲルに任せる。絶対に、スバルを呼び戻して。それまでは僕たちが何とかしてみる」
「わかりました」
「スバルをお願いね、リゲル」
 そしてすぐに、彼らは共にオロチの方へと身を翻した。
 スバルがこんな状態の中、オロチの攻撃をしのぐことができるのはレグルスだけ。それも長くは持たないだろう。早くスバルを戦える状態にして加勢してもらわないと、おそらくは――。
 ――言葉を失うほど心に衝撃を受けた少女を、すぐにでも戦わせなくてはならないとは。
 ひどい役回りだ。しかし、他に選ぶ道はなかった。自分がやらなくてはならないのだ。
 それに、こんな姿はもう見てはいられない。彼女をこのままにしてはおけない――それは、戦況以前の問題だった。
 リゲルは、声を上げた。
「絞り出してしまいなさい。そうしなければ、あなたはずっと囚われたままだ」
 普段の険のある声ではない、優しくも稟とした強さのある響きで、リゲルは語り始めた。ふるさとにいた頃に、教会で神の教えを説いていたことがある。人を惹きつける声の出し方は承知しているつもりだ。だが、いつもは犬猿の仲の自分の声など、惚けているスバルに、果たして届くのだろうか。
 ――だろうか、でははい。届くと信じろ。
 首から下げたロザリオを握りしめ、スバルを見つめる。いつもは服の中へとしまい込んでいる銀の十字が暗闇の中で鈍く光り、手のひらに固い感触を返してくる。
 ――神を――いや、自分を信じろ。
「辛いのなら泣けばいい。怒りたいなら罵ればいい。とにかく、吐き出すことです」
「……奴の足下に、首飾りが落ちている」
 ゆっくりと、スバルは囁くように言った。リゲルも先ほどのようにオロチの方に目を向ける。今度は、かすかに光るものが見えたような気がした。
 オロチの吐く炎は凄まじく、レグルスとミラはすでにその攻撃を防ぎきれなくなっていた。二人が作る防御のラインが、リゲルたちの方へじりじりと後退しつつある。
「何か、あるようには見えます。……それが?」
「あれは、私がヒミコにやったんだ。緑の玉のついた、首飾り」
「はい」
「それが、オロチの食い散らした骨の中に落ちているんだ」
「……はい」
「……どうしてそんなところにあるのか、わけが分からない」
 ――私には、わかった。
 突然変わってしまった友人。そのころから求められるようになった生け贄の娘。そして、骨と首飾り。
 これだけの条件が揃えば、ふつうは繋げて考える。いや、もちろん推測でしかないが、考えないまでも繋がるものだ。それができないほど、スバルは参っているのだろう。
「分かっているはずだ」
 スバルの怯えた視線が、リゲルを掠めてオロチへと飛んだ。
「分からない」
「いいかげんに目を覚ましなさい! ヒミコさんは、おそらくもういないんだ。人が変わったようになったと言っていましたね。そのときにはもう――」
「……嫌だ。嫌だ! そんなはずがない!」
「リゲル! ごめん、さばききれなかった! 後ろに!」
 スバルの声に被さって、ミラの絶叫が聞こえた。同時に、ものすごい熱の塊がリゲルの背に迫っていた。
 リゲルは、スバルを抱いて地面に倒れ込む。避けきれなかった炎の固まりがリゲルの背中を焼いた。
「……く、うっ」
 熱いとは思わなかった。ただ、強烈な痛みに、食いしばった口から声が漏れた。
 リゲルの背からこぼれた火が、スバルの肩のあたりを焦がす。肩口の布が焼け、健康的に日焼けした腕と、不釣り合いに白い胸元が露わになった。表情は相変わらず弛緩して、上目遣いにリゲルを眺めている。まるで幼い少女のような、無垢な瞳だった。
 女の子、なのだ。
 しかし、彼女は男である自分よりも強い。力ではレグルスだってかなわないほどの腕っ節だ。
 スバルが正気に戻らないと、おそらく自分たちは助からない。世界の希望はここで潰えることになるだろう。そして、スバルが奮起しなければ、スバル自身もここで終わる。彼女を救うことと世界を救うことは、矛盾しない。
 そこまで考えたところで、ぎりぎりとリゲルの噛みしめた歯が鳴る。理屈はそうだろう。自分は理屈ではないところで納得がいっていないのだ。
 だが、納得しようがしまいが、ここでは死ねない。スバルも、レグルスもミラも、死なせることはできない。
 ――現実に呼び戻しますよ。許してくださいね。
 リゲルは心の中でただ一言、謝った。
 そして、転がったままのスバルの上に馬乗りになると、右手を小さく振りかぶる。
 次の瞬間、肌と肌が激しく当たる音がした。リゲルがスバルの頬を思い切り張ったのだ。スバルは、驚きの表情を浮かべて打たれた頬にそっと手を添えた。
 ――いい傾向だ。
 リゲルの口からは、堰を切ったように言葉が溢れ出る。
「私が考えるには、あれはヒミコさんを食い殺した上、その姿を奪ってヒミコさんに成り代わった化け物です。奴はまた、あなたの友人たちを食らおうとしている。立ち向かってくるレグルスとミラを貪り食うために、牙を剥いている。あなたはそれを許せるのですか。あなたも、奴の足下に骨を晒す気なのですか! ……私は、許せない。しかし、私にはオロチを倒す拳はない。だから、あなたに立ち上がってもらわなくては困るんです」
「わたしは――」
「だから、お願いします。辛くても戻ってきてください。私は、まだまだあなたと共に旅がしたいと、思っています――」
 スバルの驚きの色がいっそう濃くなったが、それも一瞬だった。光を無くしかけていた彼女の瞳に、生気が宿る。
「私も、誰も死なせたくはない」
 スバルはリゲルの体を押し返し、ゆっくりと起き上がった。彼女はもう、いつもの凛々しい武闘家に戻っていた。
「レグルスもミラも、リゲルも、私は――大好き、だ。だから、戦うよ」
「……はい」
 何とか返事はしたものの、リゲルは複雑な思いを消化しきれてはいなかった。これでほんとうに良かったのだろうか、と自問しても、答えは自分の中にない。ただ、スバルがいつものスバルに戻ったことだけは、とても幸せだと思えた。
 スバルは焦げて破れた服の布を結び直してなんとか形にすると、立てずにいるリゲルの方へ手を伸ばした。スバルの手を借りて、リゲルもどうにか立ち上がる。背中のやけどが思いのほか酷く、うまく動けないのだ。
 大丈夫か、と尋ねるスバルに、リゲルはしかし強がって見せた。
「これくらい、自分で治せます」
「悪かったな。……謝るべきことは、あとで謝るつもりだ。今はただ、敵を討つ。援護を頼みたい」
「頼まなくては心配ですか?」
 スバルはリゲルの軽口に「何なら、リゲルが奴を殴ってくれてもいい」と返した。
「私が?」
「なかなか痛かったからな」
 頬を押さえて、スバルは笑った。ジパングに来て以来聞くことのなかった、明るい声で。
 レグルスとミラが炎をしのぎつつ、こちらを振り向いた。スバルの姿に、二人ともはじけるような笑顔を見せる。
「さあ、行きましょう」
「ああ」
 スバルとリゲルも、戦いの場へと駆けていく。オロチの恐ろしい叫びも、今のリゲルには聞こえない。ただ、スバルの力強い足音だけが耳を満たしていた。

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