○○を唱えた!

 セアは足を止め、耳をそばだてた。ずるずると、林の奥の方で何かを引きずるような音がする。
 これは足を持たず藪を潰しながら進む、不定型の魔物の足音――足はないのだが、便宜上そう表現するしかない――だと、セアは判断した。
「……二十歩くらい先。バブルスライムっぽいかな。数匹の群れだと思う」
「見逃すか?」
 カルムが、やる気が感じられない声で尋ねてきた。腕を磨くにはバブルスライムでは不満なのだろう、あまり興味がないらしい。エイルもグレシェも同意見らしく、声を出さずに頷く。
 そうだねと相槌を打とうとして、セアは異常に気づき、再び耳を澄ます。敵の気配に胸が騒ぐのは、これまで積んできた経験があればこそ。わずかな音を頼りに記憶を手繰り、魔物の正体を暴くのだ。この耳は、剣や魔法とともに小さな頃から鍛えてきた力の一つだった。
「ちょっと、待って。……ただのスライムじゃないかもしれない」
 目を閉じて集中する。よく聞くと、バブルスライムらしき魔物が小枝を踏むとき、ほんの少しだが金属音が混じることがあった。カァンとか、カキンとか、とにかくそんなような音だ。
「踏んだ枝が折れるときに、甲高い音がするんだよね。金属っぽい――」
 セアは自分の言葉にはっとした。グレシェが目を見開いて聞き返す。
「バブルスライムに似てて、金属?」
「はぐれメタルか」
 エイルが小声で言った。
 はぐれメタル。スライムのくせに金属の装甲に包まれており、守りはすさまじく堅いが攻めはぬるい。いまの仲間たちの力なら、あちらからの攻撃など軽く流すことができるだろう。闘いにくいが、それだけに勝利した後に得るものも大きい相手だ。
「先手必勝、一網打尽といこうぜ」
 カルムが舌なめずりでもしそうな勢いで拳を突き出している。さっきとはえらい違いだ、とセアは苦笑した。ただ、はぐれメタルとの遭遇で気持ちが逸るのはセアも、ほかの仲間も一緒だろう。
「セア、指示を」
 エイルが静かにセアを促す。声は落ち着いているものの、その表情はやはりカルムと同様に明るい。
 エイルが賢者の道を歩み始めてからしばらく経つが、普段の彼の振る舞いは僧侶であった時代と変わらなかった。以前と変わらずやんちゃなムードメーカーであるのに加え、悟りを開いた者としての深みも併せ持つ、パーティの要。それが今のエイルだ。
 ――今日のエイルは賢者の顔か。
 セアはエイルに頷き、それぞれの顔を順に見て作戦を伝える。
「カルムはクリティカル狙いで。グレシェは毒針を準備しておいて」
「任せろ」
「分かったわ」
 最後に三人目、エイルに尋ねる。
「エイルは――ドラゴラム、できる?」
「余裕」
 力強い返事に、セアは「じゃ、行くよ!」と立ち上がり、走り出した。
 ほどなく、灌木の茂みの向こうに魔物の群れが姿を現した。読み通り、はぐれメタルたち。五匹ほどだろうか。
 カルムが先陣を切って群れの進行方向へと回り込み、足止めする。グレシェが毒針を逆手に構えてそれに続く。
 そして、セア。さらにセアの後方ではエイルが呪文の詠唱を始めている。セアはその声を背中に聞きながら、自らも剣を構えた。
 エイルの詠唱が終わろうとする、まさにその時。
「竜の力を我に映し我が力とせん! ドラゴ――」
 エイルはなぜかそこで言葉を切った。いくら待っても続きは聞こえてこない。
 不審に思ったセアが振り返ると、目に飛び込んできたのはとんでもない光景――なぜだか半裸になっているエイルだった。
「やだ――な、なに?」
 驚いて何か叫んだらしかったが、セア自身はよく覚えていない。後からエイルに聞いたところ、そんなことを言っていたらしい。
 腰布だけのエイルの姿など、本当に小さい頃の思い出にしかない。今は頼れる賢者となって傍らにいるものの、昔通りの彼だとばかり思っていたのだ。それが、いつの間にか逞しくなって――。
 目のやり場に困りながら、セアはやっとのことで尋ねる。
「……何、してるんだ?」
「竜になる前に脱いでおこうと思ってさ。……こっち見ないでくれよ」
 エイルはやはり力強く答えた――最後の一枚に手を掛けながら。
 前方を見れば、カルムとグレシェが苦戦している様子。加勢を求める声もしているようなのだが、こちらはそれどころではない。
 セアは重ねて尋ねた。
「いや、そうじゃなくて。……なんで?」
「竜の姿になると服が破れるのを思い出して。呪文を唱える前に脱いでおこうと思ったわけ」
「ああ――」
 真っ赤な顔を持て余しつつ、セアは剣を構え直した。それなら仕方がない、と自分に言い聞かせ、くるりと前に向き直る。
「じゃ、じゃあどうぞ、ごゆっくり」
「ごゆっくり、じゃねえだろ?」
 カルムの声だった。はっとして見ると、苦虫を噛み潰したような顔のカルムと、眉間に皺を寄せたグレシェがこちらへ駆けてきていた。はぐれメタルたちの姿はすでに無い。
「お前ら――おいエイル、いったい何やってんだ?」
 カルムは言いながら、エイルの鳩尾に肘を入れた。エイルはなす術もなく膝から崩れ落ちる。
「真っ昼間から盛ってんのか、俺たちが見てないと思って」
「ち、ちが――」
 エイルは肘鉄をまともに受け、腹を押さえてげほげほと咳き込んでいる。並の肘ではなく、カルムの肘だ。立ち直るにはしばらくかかるだろう。
 話せないエイルに代わって、セアが尋ねた。
「はぐれメタルは?」
「あなたたちがよろしくやっているうちに、逃げちゃったわよ」
「よろしく――?」
 ――えらく誤解をされている。
 いや、実際はからかわれているのだとは分かってはいる。カルムもグレシェも、おそらくは本気で怒ってなどいないだろう。それでもセアは抗議せずにはいられなかった。自分のためにというよりは、エイルの名誉のために。
「違うんだよ! エイルのこれは、魔法の下準備で」
 案の定、カルムはセアの言い分などまるで無視して「はいはい」と笑った。そして、セアの肩をぽんと叩く。
「今度からはもう少し目立たないとこでやれよ」
 カルムはセアとエイルの横を通り過ぎ、置きっぱなしにしていた荷の方へと去っていく。一方のグレシェは、未だ服を着ていないエイルを上から下まで眺めると、ため息をついた。
「そういうのは時と場をわきまえてやって頂戴」
 グレシェはすれ違いざま、エイルの耳元で「見せびらかしたいくらいの体かしら?」と低い声で囁いて行った。暗に、そうでもないわよね、と言いたげな瞳で再度エイルを睨みながら。

 残されたセアとエイルは、どちらともなく視線を合わせた。とりあえず何か着て、というセアの頼みに、エイルはのろのろと脱いだばかりのものを身につける。結局は魔法は使わなかったから、エイルはただ服を脱ぎ着しただけになった。
 いつもの服装に戻ったエイルは、表情のない顔で呟いた。
「……グレシェの方が地味にキツいな」
「怖かったよね。カルムみたいに笑ってなかった」
「俺、ドラゴラムはしばらく使わないことにする」
「私も、それがいいと思う」

 この一件以来、セアたち四人の間には、『はぐれメタルは地道に叩く』という暗黙の掟ができたとか、できないとか――。

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