へそ
『たとえ一人でも闘う勇気が、お前にはあるか?』
たかが、一人で洞窟の奥へ行き、戻ってくるだけのこと。そのどこに困難があるのだ、とカイは思った。
――まったく退屈な道中。これだけ暇だと、考え事も増える。
カイは、神殿で聴いた神官の言葉を反芻していた。
生を受けた瞬間から使命を負い、たった一人の特別な存在として今まで生きてきた。はじめはちやほやしてくれていた周囲の人間たちは、旅立ちを迎えるころには誰もいなくなっていた。
思い返してみれば、自分はいつでも一人だ。今こうして一人で洞窟に潜っていることが闘いだというならば、これまでの人生――それは、闘いではなかったとでもいうのだろうか。
――闘いではないな。
口に出してみたところで誰が聞いているわけでもないが、カイは言葉を飲み込んだ。
孤独が当たり前だったのだから、それは闘いではなく日常というべきだ。魔王討伐の旅路にあることも、こうして一人歩いていることも、すべてが自分にとって当然のことなのだ。
だから、闘うための特別な勇気などは必要ない。いつも通りに歩き、敵を倒し、洞窟を抜ければいい。ただそれだけのことだ。
怪しい箱を開けると、中から奇声とともにミミックが飛び出してきた。この程度の魔物など、もう自分一人で難なく倒すことが出来る。まるで呼吸をするように、ごく自然な動きで敵を屠ることができるくらいの腕にはなっていた。
数度剣を振るうと、ミミックにやすやすととどめを刺し、カイは手慣れた仕草で剣を鞘に収めた。
――くだらない。
やはり声に出さずに鼻で笑い、カイは先を急いだ。
壁に埋め込まれた不気味なヒトの顔が、何か喋っている。たくさんの同じ顔が、みな同じ言葉を吐いていた。
『ひきかえせ』
――誰が引き返すものか。
喋る岩など、子供だましのトラップだ。ここに来るような猛者に効果があるのかはなはだ疑問だな、とカイは冷笑した。
地下迷宮の作りは単純で、身の危険を感じるほど入り組んだものではなかった。敵も、今のカイの手を煩わせるような強さではない。ならば、挑戦者をせめて心理的に追いつめてやろう――そういう魂胆なのだろう。
『引き返せ。引き返せ。引き返せ引き返せ引き返せ――』
顔の群れは、なおも喋り続けている。いっそすべて叩き割ってやろうかとも考えたが、時間と体力の無駄だと気付き、無視することにした。
引き返して何になる。このまま何も成さずに地上に戻ってどうする。せいぜい、パーティーのメンバーが待っているくらいのものだ――。
不意に、洞窟に潜る前、同道する三人との別れが浮かんできた。
「気をつけて行けよ、カイ」
「どうか、無事で」
「……信じてるからね」
笑顔で肩を叩いたフィース。信じる神へと祈りを捧げていたメルツ。まっすぐこちらを見つめていたリン。三者三様の、しかし彼ららしい反応だった。
――今、あいつらはどうしている?
不安を募らせながら俺を待っているのだろうか。それとも、心配などせずに笑顔で迎えてくれるのだろうか。もしかしたら俺のことなど待たず旅立っているだろうか。
いつの間にか歩みが止まっているのに気付いたのは、三人の顔を思い浮かべた直後だった。
なぜ足が止まったのか。一人でいることに恐くなり、怖じ気づいたからだろうか。俺は弱くなったのか――と自分に問いかけてみたが、答えが出ることはなかった。
神殿から洞窟へと通じる狭い通路の真ん中で、リンが待っていた。カイを認めるが早いか、立ち入りを許されたぎりぎりのところまで駆け寄ってきた。
リンの後ろからは、フィースとメルツも走ってくる。
「カイ、お帰り! 大丈夫? 怪我してない? 恐くなかった?」
リンの黒い瞳には、いっぱいに涙が浮かんでいた。しかし、顔は満面の笑みで満たされている。
「……ただいま」
そうするのがごく当たり前のように、カイはぼそぼそと呟いた。
口ごもったその声を聞いて、リンは驚いたのか大きな瞬きを一つしたあと、再び笑顔を見せた。その目尻から零れた涙を見て、カイの肩に入っていた力がふっと抜けた。
――俺は、いつでも一人だったか?
いや、違う。
この旅をしている間は、たとえ何があってもパーティーの三人が側にいた。カイが望むにしろ望まないにしろ誰かが傍らにいた。
足が止まったのは、引き返したかったんじゃない。ここに居場所を見つけつつあったから――皆の間にいることに惹かれたから、帰るのが当然だと思ったのだ。
そんなことなど知るよしもないリンは、無邪気に首を傾げて尋ねる。
「『勇気を試される』って何だったの?」
「そんなものは無かった。……ただ、早く見せてやりたい――と、思って、帰ってきた」
今度は、我知らず口に出していた。何を、と目を輝かせて急かすリンの声が、妙に懐かしかった。
カイの懐の中には、洞窟の一番奥で手に入れた宝珠『ブルーオーブ』が、大事にしまい込まれている。暗い洞窟の闇の中、青く透き通る光に照らされ、カイは柄にもなく思ったものだ。
闇は自分、光は仲間だ――と。
暗く冷たい心は綻び始め、ほのかな光が射し込んでいた。慣れない感覚に戸惑いながらも、カイはそれが昔ほど嫌だとは思わなくなっていた。