王様(女王様)

 夜のイシス宮殿は驚くほどに静かで、昼に訪れたのとは違う国にいるかのようだった。開放的な作りの建物の窓という窓から、月明かりが差し込んでいる。日が高かった頃にはぬるく感じた石造りの廊下が、ゆらめく篝火と月の光に冷たく照らし出されていた。
 窓から見上げると、月に負けぬほどの光でさえざえと煌めく満点の星空。それすらもなぜか寒々しく思えて、セアは身震いした。砂漠の夜は冷えるのだ。
『また、夜に』
 昼にみんなで謁見した際、イシス王は確かにそう言った。セアにしか聞こえぬほどの囁きで。
 いったい何の用だろうと考えるより、会って問うた方が早い。
 門や扉をいくつか抜けてきたけれど、見張りは皆セアを見て見ぬふりをしていた。こうして誰にも咎め立てされることなく城に入り込めたのは、恐らくは女王自身がセアに会いたいと願っているからだ。
 夜気を遮断すべくマントでしっかりと体を隠し、セアは早足で廊下を歩いていく。

 遅い時間だというのに、女王は昼と同じ凛々しさでセアを待っていた。ただし、寝室でベッドに腰掛けて。
 夜闇よりも黒い髪の毛はしっとりとまとまって揺れる。高い鼻に切れ長の目。美しい女王はセアの姿を認めるとかすかに微笑んだ。
「お一人で?」
「仲間は宿で寝てます。休ませてあげたいし」
 ここのところずっと強行軍だったからだろう、同室のグレシェはベッドに倒れ込むように眠りに落ちていた。抱き上げて布団に入れてやっても身動き一つせず、気を失っているかのようだった。
 出掛けに通りすがった男性陣の部屋も静かなものだった。恐らく、エイルやカルムもグレシェとそう変わりはないだろう。
「あなたは大丈夫ですか」
「平気です」
「それは頼もしいですね。……ああ」
 女王はぱっと目を見開き、すぐに細める。何かいたずらを思いついた少女の顔だった。
「人目を忍んで私に会いに来てくれたことを、嬉しく思いますわ。何もしてあげられませぬが、贈り物を差し上げましょう。私の周りを調べてみなさい」
「周り?」
 セアは言われたとおりにベッドの周りを凝視する。しかし、特に変わったものは見当たらない。
「ここに」
 女王は枕を示した。枕を動かすと、その下から小さな箱が現れる。
 開けてみると、指輪が収められていた。シンプルなデザインだが、しかし高貴な雰囲気を漂わせる、美しいリングだった。
「差し上げます。きっとあなたのお役に立ちますわ」
「ありがとう」
 指輪を大事に懐にしまう。指輪自体には重みはないけれど、女王の思いがふわりとセアの心に積もった。
 その女王の顔を曇らせる言葉を、セアは伝えなければならなかった。
「さっき、城の中で魔王の使いを見ました。私への呪いを吐いて消えましたが」
 ――お前たちは無惨な最期を遂げるだろうぜ。
 厭な声だった。
 かわいらしい子猫は、そう喋ったあと血を吐いて倒れ、動かなくなった。魔物に憑かれ、用が済んだため捨てられたのだ。猫はオアシスの一角に葬ってやった。
 勇者がどこにいてもを見逃すつもりはないと、わざわざ言いに来たのだろう。もっとも、そんなことで怖じ気づくほどセアも皆もやわではない。人間の反撃の芽を摘みたいというのなら、直接手を出してくるだろう。魔王にとって、セアらの一行はまだその程度の存在にすぎない。
「この国にも、魔王の手は伸びています。……お恥ずかしいことですが、王家の墓も今では魔物の住み処。ごらんになりましたか?」
 セアが頷くと、女王は目を伏せ、深くため息を吐いた。
 ピラミッドと呼ばれる大きな四角錐の建物は、イシスの王族たちが眠る墓なのだという。その中には魔法の鍵――どんな扉も開くという万能の鍵だ――が隠されていると聞き、セアたちはイシスにたどり着く前に少しだけ覗いてきた。
 中は荒れ果てていた。どうやら相当数の魔物たちが住み着いているらしいと見て、先にイシスで探索の準備を整えようということになったのだった。
 しかし、女王が気に病むことは何もない。憎むべきは魔王なのだから。
「この世界に魔王の手が及ばない場所など、もはやありません。旅をしていると分かります。……そんななかで私は足掻こうとしてるんだなって、ちょっと怖いけど」
 仲間にはなかなか言い出せない愚痴だった。
 それを、ほぼ初対面の女王につい本音を漏らしてしまい、セアは慌てて口を押さえた。さっきは平気だと言ったが、抑制を忘れるくらいには疲れているのかもしれない。
「……ごめんなさい。あの、今のは聞かなかったことに」
「ええ、わかりました。……弱さなどないと言い切る人間は、どこかに嘘を隠しています。私は――その弱さも含めて――人間が好きですよ」
 弱音なんか吐いてと苦笑するセアに、女王は真摯に応えてくれた。それがかえって申し訳ない気がして、セアは唇を噛む。
 後悔しているわけではない。旅立つ前にだって、やめようと思えばいつだってやめられたのだから。
「そうは言ったけど、自分が選んだ苦労ですから」
「誰にもさだめはあるもの。あなたのさだめも、あなたにしかなしえない使命なのでしょう。あなただけの思いも、きっと数え切れないほどあることでしょう。……私も、この国を治めるという星に導かれています。私は強い拳もよく切れる剣も持たない。だから私は、せめてこの国と民を守り抜きたいのです」
 女王はベッドから立ち上がっていた。
 黒目がちの瞳は、セアに縋るかのように濡れて光っている。神秘的な美しさが影を潜めると、女王は意外にも幼く見えた。そう、セアとほとんど変わらないの歳なのではないかと思うくらいに。
「それでも、歯がゆいのです。闇に立ち向かう戦士に、限られた助力しかできないことが!」
 泣き出しそうな顔で、女王は叫んだ。
 昼に見た冷たささえ感じる美貌が歪み、それがセアの胸を衝いた。
 セアは一歩踏み出して女王の顔を覗き込んだ。丸い目をますます丸くして、彼女はセアの顔を見返してきた。その顔が目に入ったら、なぜか自然に手が伸びていた。
 セアの手はそっと女王に触れ、その頭を撫でる。彼女は、ただされるがままになっていた。
 駄々っ子をなだめるように、セアは優しく語りかけた。
「私もそうですよ。力が足りないんです。世界のすべての人を守ろうなんて、そんなおこがましいことは考えてないし、今の私じゃまだまだできそうにない。だからまずは、会った人のことを思うんです。……いちばん身近なのは、一緒に旅する仲間。彼らを死なせないことが、私の最初の目標。そして、女王様も。私は今日のこと、絶対に忘れません。あす私が魔物と闘うときには、きっとあなたを守ろうと思うことでしょう」
「素敵。……勇者さまは、今日とは違う明日を見ているのですね。私も、明日は」
 女王は窓から星を見て、首を傾げた。
「日付が変わってしまいました。……今日からは、明日を見たいですわ」
 女王はふわりとベッドに腰を落とすと、涙を溜めた目でセアに笑う。心の芯をじわりと溶かすような笑顔は、溜まりに溜まった旅の疲れを散らしてしまうほどの威力があった。
 女王につられて、セアも微笑む。
「そういう顔を、もっと増やしたいんです、私」
 どんな魔法よりも、人を癒すのは人自身なのだとセアは常々思っている。そして自分が守りたいものも、きっと人なのだろうと最近は思えるようになってきたところだ。
 何より、彼女に泣き顔は似合わないし、笑っていて欲しい。それが、セアの望みのすべてだ。
 女王はセアを手招きすると、小さな声で耳打ちしてくれた。
「これは、噂です。……砂漠のオアシスの国の地下の宝物庫には、『星降る腕輪』という宝があるらしいですわ。その国の王は、心優しい勇者に持ち去って欲しいと望んでいるそうです。そうして、微力ながらお役に立ちたいと」
 国の宝をセアに譲ると、そう言いたいのに言えないのだ。彼女なりの、精一杯の心遣いだろう。
「それはいいことを聞きました。ありがとうございます。このご恩は――世界に安らぎを取り戻すことで、お返しします。……必ず」
「さあ。……もう、お行きなさい。そしてゆっくりとお休みください。明日のために」
 きっと女王はもとの凛々しい美しさで朝を迎えるだろう。この国を守るには、そうしなくてはならないから。
 彼女を撫でた手は、砂漠の夜に負けず温もっている。その熱が消える前に帰ろうと、セアはマントの襟元を寄せ、帰途を急いだ。
 最も守りたいと願う仲間たちが休む宿へ。

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