真空

「エイルって、攻撃魔法は使わないのね」
 グレシェの言葉にエイルは軽い笑みを浮かべた。ごまかすような態度に、グレシェは少しむっとして続けた。
「回復はものすごくできるじゃない? 魔法全部が不得意なわけじゃないのに、どうして」
「……俺の攻撃魔法は未熟だから」
 エイルはそう言って俯いた。
 グレシェは眉間に皺を寄せる。エイルの態度から、何か隠したいことがあるのだろう――そう勘づいたのだ。エイルはいつだって真っ正面から言葉を受け止め、飾らない言葉を返してくれる。今回に限って、それがなかった。
 思い返してみれば、エイルは旅の当初から攻撃魔法を使っていなかった。これまでそれに気付かなかったのは、エイルが回復に専念できる程度に余裕を持った戦い方をしてきたため、彼に攻撃の補助を頼むという局面が生じなかったためだ。しかし近ごろは、戦闘で多くの敵に囲まれることが増えていた。今後、旅が進むにつれてその頻度は上がるだろう。
 ――もし、自分が倒れたりしたら。
 グレシェが戦えない状態になったり、魔法を封じられたりしたら、当然のことながら攻撃魔法はエイルに頼ることになる。グレシェはそれが気がかりだった。
「私一人でできることにも限りがあるの。もちろん努力は惜しまないけど。エイルは賢者になりたいんでしょう? 賢者って魔法使いの呪文も使いこなせないといけないのよ。今のあなたじゃ」
「言いたいことはよく分かる。でも、できないんだ。誰かを傷つけてしまいそうで。……いざ魔法を撃とうすると、手が震えて、目の前が暗くなって――」
 エイルは下を向いたまま、革の手袋に包まれた手をぐっと握った。固めた拳は、やがて何事もなかったかのように開かれる。行き場をなくした勢いは、音もなく空中に散った。
「私は私を守るために戦ってるわ。私はこれまでたくさんの人を傷つけてきたかもしれないけれど、私が生きていれば、それ以上にたくさんの大事なものを守ることができるもの。どこかで立ち止まってるなら、飛び越えなくちゃ進まないわよ」
「俺は」
 青ざめた顔のエイルに、グレシェはやりすぎた、と思った。
 『誰かを傷つけてしまいそうで』。
 エイルもまた、大事な人を傷つけたり、失ったりした過去があるのだろうかと、グレシェはエイルの様子を見て考えた。グレシェが思っていたよりもよほど根深い何かが、エイルの心の中を支配しているらしかった。
「もちろん、俺が強かったらたくさんの人を守れるって思うこともある。でも、大きな力を使うってことは、その逆も考えないと」
「私が言うことではないと思うけど。……そろそろ心を決めないと」
「賢者を目指して旅を続けるか、諦めるかってことか」
 グレシェは頷いた。もしエイルがこれ以上伸びないとするならば、彼をここで切らなくてはならない。攻撃魔法を使える僧侶を新たに仲間に加える、それが最善の策なのだ。旅の目的を考えれば仕方がない。グレシェ本人もカルムも、そしてもちろんセアだって、決してそんなことは望んではいないのだけれど。
「さっきからひどいことばかり言ってるけど、私、あなたを外したいわけじゃないわよ」
「分かってるよ。悪ぃな、心配ばっかかけて」
「私のことなんか気にしないでよ。苦しいのはあなたでしょう? 立ち直るのをぎりぎりまで待ってる」
「あのさ」
 エイルは、遠慮がちにグレシェの顔を覗き込んだ。普段の彼からは想像も付かない、頼りなげな眼差しだった。
「ちょっと、聞いて欲しいことが。……グレシェなら、いい助言をくれるかもしれない」
「私でいいの。昔の話ならセアの方が――」
 適任じゃないの、と言おうとして、グレシェは口をつぐんだ。エイルが、なんだかとても悲しげな顔をしていたからだ。
 ――魔法が使えなくなったのは、もしやセア絡みなのか。
 グレシェは静かに頷き、エイルの話を待った。


 ――もうずいぶん昔のことだ、とエイルは切り出した。

 エイルが、旅立ちの頃のセアよりもまだ幼い頃。
 エイルは、まだあどけない少年でありながら、アリアハン随一の実力を持つ僧侶となっていた。とくに魔法は誰からも一目置かれるほどの腕前で、回復も攻撃もこなす魔力と技術を持ち合わせていた。
 オルテガの遺志を継いでいずれは旅立つ勇者・セアの供として、真っ先に名が挙がるほどの存在。それはエイルにとって、とても誇らしい肩書きだった。

 セアがいなくなった、という知らせがきたのは、夕暮れが迫る頃だった。詳しい事情は分からないが、街から独りで出て行った――ということだけは確からしい。
 エイルがもしやと思って向かったのは、幼い頃にセアと二人で遊んだ草原だった。枝を広く張った木が影を落としており、駆けっこや木登りに疲れるとその根元で休む。まだ魔王の足音はそう近くなく、無邪気に遊ぶことができた――そんな時代の話だ。
 セアは、大木の幹に寄りかかり膝を抱えていた。辺りはすでに暗くなり始めていたが、エイルは輪郭だけで彼女と分かる。
「……セア」
 セアはびくりと体を震わせると、ゆっくりと立ち上がった。目元を拭い、エイルを睨むように見つめる。
「迎えに来た。帰ろうぜ」
「こっちにこないで。……ほっといてよ!」
 セアはそう言い捨てて、早足で逃げる。エイルは彼女ほど足が速くないからついていくのがやっとだ。
 ほっとけるわけがない、と言いかけてエイルは口をつぐんだ。今言うべき言葉ではないし、とてもではないがしゃべっている余裕などない。荒い息を整える暇すらなく、エイルはセアを追いかける。
 気付けば、二人は森の奥深くへと入り込んでしまっていた。エイルが育ての親――教会の神父から、ここから先は子どもだけで行ってはいけないと言われていた目印の札は、さっき通り過ぎた。それでもなお、セアは走り続けている。
 エイルはついに立ち止まった。力任せに大きく息を吸い、叫ぶ。
「ここは駄目だ、セア。もう、戻ろう!」
 セアも足を止めたが、エイルのように酷い呼吸ではない。吐き出されたのは小さな声だった。
「……いやだ」
「周り見てみろ。この森、魔物が出るから入るなって言われただろ」
「帰りたくない!」
 駄々っ子はそう言ってかぶりを振った。その間にエイルは彼女との距離を詰める。目の前にあるのは小さな背中。少女らしい華奢な躰が震えている。
「何があった。……教えてくれよ」
 エイルはようやくセアの前に回り、その顔を見た。涙は止まっていたが、眉間の皺は寄ったまま。
 セアは、そばに寄ったエイルがやっと聞き取れるくらいの声で呟いた。
「私が勇者でいいの?」
「なに?」
「……女が勇者って、おかしいんでしょ」
「おかしくはないだろ」
 エイルはそう返事をしたものの、それはアリアハンではもうずっと前から噂になっている話だった。
 ただ、エイルをはじめ、セアの周囲の人間は、彼女の耳に入らぬように気を配っていた。セアが知らなくてもおかしくはない。
 ――いや。もう、セアが聞いてしまった後では、耳に入るのが遅れた程度――と言うべきか。
「でも、みんなそういってるんでしょう。私のいないところで、こっそり」
 セアは唇を噛んで俯いた。
 多くの人が、女だというだけで彼女を白い目で見ている。少なくともセアはそう思っている――そんな中で、俺一人が勇者・セアを望んでいると言って彼女の心がどれほど温もるのか。エイルがそう考えているとセアに告げたところで果たして彼女は救われるだろうかと、躊躇してしまうのだ。
 しかし、泣き腫らした目に気付いてしまったら、それでも言わずにはいられなかった。
「周りのことなんか知らねえよ。俺はお前と一緒に行きたいんだ」
 セアはまだ下を向いている。
「男だって女だって関係ない。『セア』は、お前しかいないだろ。……誰に何と言われようと、お前は旅に出る。お前はそういうやつだって、俺は知ってる。だから、当然俺も一緒に行く」
 エイルは女勇者が悪いなどとは毛ほども思っていない。エイルにとって勇者はオルテガの子であるセアしかいない。旅立つのがセアだからこそ、彼女と共にあるためだけに修行を積んできた。
 エイルにとっては当たり前のことだったが、面と向かってセアに伝えたのは初めてだった。
 セアは俯いたまま「ふっ」と息を漏らした。こちらからは額しか見えないが、どうやら微かにだが笑ったようだった。
 顔を上げたセアは、照れくさそうに微笑んで口を開いた。
「じゃあ、私はエイルのために勇者になりた――」
 最後まで言い切ることはできなかった。
 何かが矢のように走ってきて、セアに激しくぶつかった。
 エイルは、幼なじみが吹っ飛ぶのを見た。その瞬間の目を見開いた表情は、エイルの心に強烈に焼き付いた。わけが分からない、という顔で、セアは宙を飛んでいった。地面に打ちつけられ、大きく弾んで再び地に落ちる。
「セア!」
 返事の代わりにうめき声が聞こえた。意識はあるらしい。
 エイルは駆け寄ろうとするが、その行く手を阻むものがあった。
 見たことがない魔物だった。後足だけで立ち上がる大きな身体は厚い毛皮に覆われ、前脚には巨大な鈎爪が付いている。細い口吻から長い舌がはみ出し、ちろちろと動いていた。
 ――こいつがセアを吹っ飛ばしたのか。
 エイルの頭に、かっと熱が上った。
 エイルの両親は魔物に命を奪われた。その光景を幼いエイルはなすすべもなく見ていた。以来、魔物と対峙すると怒りが湧いてくる。魔物への、そして弱くて何もできなかった自分への怒りは、少しの冷静さと引き替えに、大きな力をエイルに与えるのだ。
 エイルを救ったのは、通りすがったオルテガだった。魔物の群れを殲滅した姿に、この人のようになりたいと心の底から強く願ったものだ。そして今、エイルはオルテガに一番近い少女と共にある。
 もう無力な子どもではない、という思いが、エイルを奮い立たせる。
 エイルとセアの間に化け物がいる。セアはまだ倒れたまま、それでも何とか起きあがろうとして地面を掴んでいた。
 回復より攻撃、とエイルは心の中で呟く。
 セアのもとへ行き、怪我を治してやるには魔物が邪魔だ。それならば、魔物を屠ってからゆっくり治療をした方がいい。初めての相手だが、自分の力ならきっと倒すことができる――そう、判断した。
 敵の胴を真っ二つにしてやろうと決め、逆立つ心をどうにか落ち着かせようと呪文を唱え始める。
「真空の刃、十重二十重の鎌鼬。……神の怒りよ、嵐になりて邪悪なるものに裁きを」
 後は撃つだけ、敵に当てるだけなのに、どうしても狙いが定まらなかった。
 思い出すのは力なく崩れ落ちた両親の姿。それがセアと重なり、赤く染まる。
 いつもとは違い、嫌な予感しかしなかった。
「――駄目だ!」
 そう叫んだ瞬間、魔力の塊はエイルの手から離れていった。それは、風を捲きながら、地を滑るように一直線に魔物目がけて突き進んでいく。真空系の攻撃呪文、バギだ。
 風の刃は魔物の目前で地面すれすれから僅かに浮揚した。魔物の下腹当たりに食い込み、装甲代わりともいえる毛皮をたやすく切り裂いて、血しぶきが飛んだ。魔物は湿った音とともに、文字通りその場に崩れて落ちた。
「止まってくれ!」
 エイルの声はむなしく森に谺した。
 手から離れた刃は、すでにエイルの制御の及ぶところではなかった。かまいたちは魔物の身体を貫通した後も勢いを失うことなく、まだ立てずにいる少女までも巻き込んでいった。セアの身体は軽々と飛ばされ宙に舞う。
 風が、無惨にも林の若い木々を折る。樹皮がめくれ上がった幹に叩き付けられて、セアはようやく地面に落下し、止まった。
 しばらく呆然と見ていたような気もしたし、ほんの一瞬だった気もしていた。
「セア!」
 我に返ったエイルは、一直線にセアのもとへ駆けた。魔物の血の臭いが漂う横を走り抜け、セアの隣にしゃがみ込んで、エイルは言葉を失った。
 先ほどまでは無かった傷が増えているのだ。
 細かな擦り傷に混じって、ところどころに深い裂傷。足に、腕に、そして――顔に。セアの白い頬はざっくりと裂け、体温と共に赤いものが流れ出ていた。
 明らかに、エイルのバギで負ったものだった。
「ごめん。ごめんな、セア。俺の魔法――俺のせいで――」
「大丈夫。……ありがと」
「お前馬鹿かよ。こんなになって、礼なんか言うな! 今――治すから」
「さすがエイル。あんな強そうなのを、一人で」
 言葉とは裏腹に、血に塗れた顔は引きつっている。
「馬鹿! もう喋るな。傷が開くだろ!」
 『馬鹿』はエイル自身に向けた言葉だった。
 馬鹿馬鹿と言いながら回復魔法を施したところまでは記憶にある。言えば言うほど情けなくなって、最後には何も言えなくなったことも。
 その後、駆けつけた大人たちに抱えられて森を脱出したらしいが、それはよく覚えていなかった。


「……引きずってるってのは分かる。今も、攻撃魔法を使おうとして思い出すのはあの日のことばかりだ。いくら俺だって焦ってるさ。周りが思ってるよりもな。でも、どうしたら前の状態に戻れるのか――」
 過去を吐き出したエイルは、一回り小さくなったようにグレシェには思えた。それでも、肩の荷が下りたのか顔色は少し良くなっている。
 どうしたら、どうすればというテクニックで乗り切れるような種類のつまづきではない。きっとこれは彼の心の問題で、辛い思い出さえ克服すればまた歩き出すことができるはずだ。
 ――止まった足をどう動かすか、ね。
 グレシェは、自分の境遇がエイルに似ていると感じていた。故郷を侵され、家族を失い、心に傷を負ったグレシェは、守れなかった家族やふるさとを思い浮かべ、悔しさをバネにして強くなった。意地と反骨心だけで痛みを乗り越えてきた。
 しかし、エイルにはその方法は向いていない気がする。
 エイルは元来気の優しい青年だ。回復魔法には術者の気質が大きく反映されるから、彼の普段の闘いぶりを見ていればそれは分かる。そして、恐らくはその内に秘めた魔力をもってすれば、今のグレシェをしのぐほどの攻撃魔法の使い手にもなれるということも。
 しかし、彼に必要な力は『壊して倒す』ではない。『労り守る』、それがエイルの強さの本質であり、彼に求められている力だ――グレシェは、そう思っていた。優しさを強さに転換できたら、彼は大化けするだろう、と。
「あなたは、殺すための魔法を使うべきじゃない人よ」
「でも、それだけじゃ駄目なんだろ? 俺は攻撃魔法を使いたいんだ。このパーティーにいて、旅を続けるために」
「エイルは何を守りたいの? 世界の何を、誰を守りたいの?」
「世界を、魔王から」
「本当に?」
「いや――」
 グレシェの再度の問いかけに、エイルはやや首を傾げた。彼の考え事はなかなか終わらなかったが、グレシェは何も言わずにひたすら待った。何かを掴みかけている、そんな表情に見えたからだ。
 エイルが守りたいものなんて、一つしかない。一人しかいない。グレシェにしてみれば――きっとカルムもそうだろうが――そんなことはもうずっと前から分かり切っていた。グレシェは答えの方向に少しだけ背中を押しただけ。
 ――押せた――のだろうか。

 やがて、エイルはにっこりと笑った。何かを納得したような、すっきりした表情だった。
「思い出したよ。俺が守りたかったのは」
 もの言いたげなエイルを制して、グレシェは人差し指を自分の口に当てた。エイルはそれを見て、ぐっという妙な声と共に黙る。
「それは口に出す必要はないわ。私も、いちばん深いところは秘密にしてるし、誰かに教える気もないから。……それさえ見失わずにいれば――守りたいもののために戦うって忘れなければ、今日までと少し違う明日になるはずよ」
「グレシェも、そうなのか?」
「ええ」
 迷わずに答える。
 グレシェ自身の過去のことは、まだほとんど仲間達には話していない。偉そうにアドバイスしている自分自身も、いつか笑って話せる日が来ることを信じて、明日へ向かう毎日なのだ。
「じゃ、全部終わったら、みんなで反省会だな。誰にも言えなかった恥ずかしい告白大会でも、しようぜ」
「……それもいいわね」
 屈託無く笑うエイル。
 恐らく、彼が守りたい人は、世界で一番強い女の子だ。
 ――セアを守るなんて、並大抵の努力じゃ無理よ。
 それでもエイルはやってくれると、グレシェは信じている。セアと背中合わせに立って戦うエイルの姿が見られる日も、そう遠くはないのだろうと。

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