「……お願いが、あるの」
 グレシェは立ち止まり、振り返ると唐突にそう言った。
「これより先に進む前に、お願いがございます」
 こんどは仰々しく敬語で言って、セアの前に進み出ると帽子を取る。グレシェは膝を折って座ると、その赤い髪が地につくほどに頭を下げた。
 グレシェは誇り高い魔女だ。いつもは決して他人にひれ伏すことなどしない。ただ一度だけ――初めてセアと出会った日、グレシェは額に砂をつけながら『一緒に連れて行って欲しい』と懇願したのだった。ちょうど、今のように。
 だから、セアは即答した。
「私、グレシェのお願いなら何でも聞いちゃうよ」
「何を頼まれるか分からないのに?」
「うん。だから、立って」
「セアって――お人好しの馬鹿よ。ほんとに底なしの馬鹿だわ」
「自覚してる」
「だから、好きなのよね。……だから――巻き込んでいいのか迷うの。でも――」
 怯えたように引きつった顔を少しだけ上げて、グレシェは絞り出すように言った。
「頼っても、いいのね?」
「何度も言わせないの。……異議のある人は?」
「いねぇだろ」
「異議なーし」
 まずカルム、そしてエイルが声を上げる。セアが見たところでは、異議なしどころか全面的に協力、といった面持ちの二人。
「いつものように上から言ったらいいだろうが。言うとおりにしなさい、ってな」
 カルムが皮肉混じりに、しかしずいぶんと優しげな声で言った。
 普段はぶつかってばかりのカルムとグレシェだったけれど、心の一番奥では許し合う仲となっている。それはセアも直感的には分かっていたが、こうして言葉を交わし合うのを見ると、こんなときなのについ笑みがこぼれる。ふと視線をずらせばエイルも同じように緩んだ顔をしていた。
 目を丸くするグレシェに、カルムは頭を掻きながらもう一言告げた。
「……お前にゃ地べたは似合わねえよ」 
「顔上げて。俺たち、何をしたらいい?」
 エイルはそう言ってグレシェに帽子を手渡し、カルムが手を差し伸べた。
「ね。分かってたと思うけど、みんな底なしの馬鹿なんだ」
 セアがそう微笑むと、グレシェはその場で泣き崩れた。


「この山を抜けると、私の生まれた国よ」
 山道を往きながら、グレシェの話はそんな言葉から始まった。エイルが相槌を打つ。
「サマンオサか」 
「ええ」
 サマンオサ王国は、アリアハンやロマリアに肩を並べるほどの大国だ。現在、セア一行がいる険しい山岳地帯が自然の要塞となり、不落と評される城を擁する。当代の国王は聡明で、民に優しいよい統治を行っているとの評判であった。しかし――。
「サマンオサ王っていやあ、ほこらで神父が何か言ってたな」
 ――そう。
 カルムと同様のことを、セアも、そして恐らくエイルも思っていただろう。サマンオサ大陸へと繋がる旅のほこらで聞いたのは、『サマンオサの王が人変わりしたらしい』という噂だったから。
「でも私、サマンオサは賢王が治める暮らしやすい国だって聞いたような気がするんだけど」
「そんなの、昔の話よ。今は残忍で狡猾な――そうね、言ってみれば『魔王』かしら」
 抑揚のない声に反して、グレシェの切れ長の目はきつい光を放っていた。静かに怒っているのだ。
 セアはグレシェをなだめるように尋ねる。
「何があったの? 何が起きてるの、サマンオサで」
「世界が裏返ったの。……賢王は魔王になり、恐怖で人々を支配するようになったわ。王に不都合なことはすべて罪。国外に追いやられたり――処刑されたり。ほんの些細な愚痴ですら王はどこからか聞きつけてね。政治に異議を唱える大人だって沢山いたけど、その芽は育つ前に摘まれてしまった。みんな、だんだん口数が少なくなっていって、街にあるのは重苦しい沈黙ばかり」
 グレシェは相変わらず淡々と話を続けるが、その表情はやはり険しいまま。
 寄る者を鋭く切り裂くような強い視線は、出会った当初はよく見たものだ、とセアは思い返していた。時が経ってグレシェもだいぶ丸くなったように思っていたけれど、それは激しさを隠すのが上手くなっただけだったのかもしれない。
「そんな中で立ち上がったのが、私の父よ。腕っ節自慢で、街の人にも何かと頼られるような、面倒見のいい人だった。早くに母を亡くした私を、男手一つでここまで大きくしてくれてね。優しくて厳しくて――大好きだったわ。……曲がったことが嫌いだったから、自分みたいに王に不満を持つ人たちをまとめて、圧制に真っ向から立ち向かって」
 そこから先は聞きたくない、とセアは耳を塞ぎたい思いに駆られた。
 ――『魔王』に立ち向かった父と、その娘。
 それではまるで自分のようだと、セアは思った。ならば、グレシェの話の続きは知っている。魔王に刃向かえばどうなるのか。そのとき、娘はどうするのか。グレシェがセアと同じように旅に出たのなら、彼女の父親がどうなったかなんて聞くまでもなかった。導き出される答えはひとつしかないのだ。
「反乱の首謀者として、処刑されてしまった。……殺されたのよ、王に」
「うん」
 グレシェが紡いだのは、まさに答え通りの台詞。頷いたセアの声に、エイルとカルムが息をのんだのが分かる。
「だから、グレシェは国を出たんでしょう。お父さんの無念を晴らすために。腕を磨くために」
 ――わたしも、同じだから。
 そう言いかけて、セアは口をつぐんだ。グレシェの物語に、自分が口出ししてはいけないと感じたから。
「そうよ。父を失ったときの私はまだ魔法もろくに使えなかった。どうしても一矢報いたかったけど敵わないのは明白だったから、時間がかかっても強くなろうと思ってね。その途中で、セアの噂を聞いたのよ」
「じゃあ、僅か数年の修行でここまで実力を付けたってことか?」
 ええ、とごく当たり前のように肯定するグレシェを見て、エイルが思わず息を吐いた。
「頑張ったのよ。反逆者の家族だと言ってサマンオサから追っ手が来たら――そんな最悪の事態まで考えて、脅えて逃げながら。……強くなるしかなかったし、強くなりたかったから、相応の努力はしたわ」
 グレシェの自己評価は、過大でもないし卑下もない。
 エイルがため息を漏らすのも無理はなかった。初めて出会った日のグレシェの印象――魔物達を一掃した魔法が、あまりに鮮やかだったから。あれだけの力をたった数年でものにしたのなら、その裏に文字通り血の滲むような努力があったことは想像に難くない。
「セアのことを知って、最初は――魔王に刃向かう、そんな馬鹿がいるなんてって呆れたわ。でも、同時に思った。そんなに馬鹿なら、私の国も救ってくれるかもしれないって。父の敵を討ちたいっていう馬鹿な私といっしょに『サマンオサの魔王』も、倒してくれるかもしれないって!」
 先を行くグレシェの声が乱れ、足が止まった。おのずと、後に続くセア達も立ち止まる。グレシェの背中は小さく震えていた。
「有象無象が束になったって、『魔王』に歯が立たないってことはもう知ってるわ。腕自慢だった父だって敵わなかった。私には強い味方が必要なの。だから――」
 グレシェが振り向いて、目深に被っていた帽子を取った。普段ならこちらが気圧されるほど強い眼差しは、今は影を潜めている。
 今にも溢れそうな涙を堪えながら、グレシェは再度嘆願した。

「お願い、みんな。……私の国を助けてください」

「その『魔王』とやらを、ぶっ殺せばいいんだな」

 セアよりも先に口を開いたのは、カルムだった。
「やられたらやり返してやりゃあいい。……問題ねえよ。俺たちは強い。負けねえ。もちろん、お前だって強いんだろ?」
「あ――当たり前でしょう」
 グレシェが泣き笑いの表情で頷いた。雫が零れ、山道の乾いた土に吸われていく。
 日ごろ手も口も早いカルムがここまでずっと黙っていたことに、セアは初めて気付いた。カルムは彼にしては珍しく、静かに怒っているようだった。凶悪とも言っていいくらいの凄みを纏いながらも、それを内に押さえ込んでいる。
 ――大丈夫。
 グレシェとカルムが持つ、静かに燃える炎の赤。それを束ねたら、きっと『魔王』なんか灼き尽くしてしまうくらいの力になるだろう。
 セアは根拠ある自信とともに、ふたたび歩き出した。グレシェに代わって先頭を行きながら、後ろの三人に話しかける。
「じゃあ、まずは王様に会ってみようか」
「話し合いで解決できる相手ではなさそうだぜ?」
 エイルが挑戦的な口調で尋ねるのに、グレシェが答えた。
「会わないことには、殴れないわ」
 ようやく調子を取り戻してきたグレシェの姿に、セアの顔にも自然と笑みが浮かぶ。
 ふと見下ろすと、大きな城と城下町。グレシェのふるさと、サマンオサ王国はもう目前だった。

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