清き川

 人さらいの一件を無事解決し、つかの間の休息だった。
 澄んだ水が目の前を流れてゆく。バハラタの町のシンボルでもある川だが、これまではじっくり眺める余裕などなかったのだ。
 のぞき込んでみれば、滔々と水を湛えているとは到底思えないほどに川底が近い。水の中に引き込まれそうになり、メルツは岸から後ずさりした。見れば見るほど美しい流れは綺麗すぎて、メルツには少し怖くも思えたのだ。
「ね、すごいね、メルツ!」
 リンが無邪気に喜んでいる。怯えている自分が恥ずかしく、メルツはリンに悟られぬように苦笑いした。気を取り直して、再び川面をのぞき込む。
「透き通っていて、まるで水がないみたいですわね」
「聖なる川なんて大げさって思ってたけど、ほんとに神様がいそうだよね。でも、きれいすぎて神様も隠れる場所ないかも」
「私も、そう思いました」
 リンが、ふときょろきょろと辺りを見回した。不思議そうに首を傾げ、メルツに尋ねる。
「みんな、水を持って帰ってるのは何で?」
「この川の水で身を清めたら、若いままでいられると聞きました。だからではないですか?」
「そうなんだ」
 リンは「あたしも浴びておこう!」と靴を脱ぎだした。リンにはそんな必要はないはずだが、何でもまずやってみるのがリンのいいところだ。ざぶざぶと浅瀬に入ってゆく、その様子を眺めるのも楽しそうだと、メルツは岸辺に腰を下ろす。
 水浴びをする人、水を瓶に汲む人、水辺で語らう人々。みな、川に集って思い思いに過ごしている。聖なる川と言うよりは、人々の憩いの場になっているようだった。
 ――うちのパーティーも、たまにはのんびりと水遊びでもしたらいいのに。
 だいぶ打ち解けてきたとはいえ、パーティーの中、特にカイとリンの間にはまだ溝がある。子供に返って水遊びでもしたら、もう少し意志の疎通も図れるようになるだろうか。
「ここにいたんだ」
 頭の上から聞き慣れた声が降ってきた。見上げると、声の主――フィースと、その後ろにカイが立っていた。 
「リンは?」
「若さを求めて水浴び中ですわ」
「なに、それ」
 フィースが困惑の表情を浮かべる。
「この川の水を浴びると、若さが保たれるのだそうです」
「ああ、それで」
 フィースは合点がいったという顔で頷く。メルツは笑いながらリンに手を振った。
 手を振り返したリンはといえば、服を捲り上げて膝まで流れに浸っていた。まるで水遊びをする子供のような――まあ、実際そうなのだが――屈託ない笑顔。
「心までさっぱりする感じだよ!」
 そんなことを言いながら、リンは岸辺へと引き上げてきた。足を水に浸したまま、「御利益あるといいな」とつぶやく。
「リンがこれ以上若くなったらどうなっちゃうんだよ」
「いいじゃない、いくらだって若い方が。……あ、フィースはもしかして年上のおねーさんの方が好き?」
「い、いや、そんなことはないんだけどさ」
「ほんとかな?」
 なぜかしどろもどろになるフィースをリンがからかっている。
 メルツがふと振り向くと、カイは少し離れたところからこちらの様子を眺めていた。強い日差しの中、マント姿のカイ。不思議と汗一つかいていないのは、修行のなせる技なのだろうか。
 その黒い瞳からは何の表情も読みとれない。しかし、いつものような侮蔑や呆れをこめた視線ではないことに、メルツは気づいた。プラスではないが、マイナスではない――それは、カイには珍しいことだった。
 メルツは、思い切ってカイを誘ってみた。
「カイも、こちらに来ませんか。涼しいですよ」
「……俺はいい」
 案の定、といった返事に、フィースが食い下がった。
「お前こそ若返るべきだ、カイ。じじむさい性格も、この川の水で少しは少年らしくなるかもしれないぞ」
「くだらないな」
「くだらなくない。肩の力を抜いておく時間もないと。張り詰めっぱなしじゃ、いつか参っちまう」
「俺はそんな柔じゃ――」
 言葉が途中で途切れたのは、フィースがカイに素早く近寄ったからだ。フィースはそのまま、カイの体を持ち上げてしまった。
「離せ」
「俺を何だと思ってる? 人一人運ぶのなんか朝飯前さ」
 フィースがまるで人さらいのような言葉を吐き、メルツははっとしてフィースを見つめた。そういえば彼は盗賊を生業としていたのだ、と今更思い出す。まさか、本当に人をさらったことがあるのだろうか――ないと思いたいけれど。
 フィースはもがくカイの抵抗をうまく抑えながら、リンのいる浅瀬まで運んできた。
「リン、いくぞ!」
「え? え?」
「おい、やめろ!」
 驚くリン、珍しく大声で叫ぶカイ。メルツも慌てて尋ねる。
「まさか、本当に投げてしまうのですか?」
 フィースの返事はなかった。
 代わりに、一瞬の後、大きな水音がした。水飛沫に、メルツは思わず目を瞑る。
「きゃあっ!」
「この――馬鹿野郎」
 リンの悲鳴。カイの恨み言。そして、フィースの笑い声。
 メルツが恐る恐る目を開けると、だいたい予想通りの光景が広がっていた。
 川に落とされたカイは、リンの体の上に折り重なるように倒れていた。ずぶ濡れの二人を、フィースがしてやったりといった顔で見下ろす。
 カイが恨めしそうに名を呼んだ。
「……笑うな、フィース」
「笑うよ。楽しいんだからさ。……たまにはこうやって一緒に――遊んでもいいんじゃないか。また明日からは戦いの旅なんだ。せめて今日くらいは、いいだろ?」
 フィースは言いながらカイの肩を抱いた。カイは相変わらずの硬い表情で顔を背ける。しかし、メルツはその横顔に、どこか照れたような、あるいは拗ねたような色をわずかに見て取った。
 リンも何か感じたのか、メルツに目配せして見せた。そして、いたずらっぽく微笑んだかと思うと、フィースにいきなり足払いをかけた。
「なにをっ……!」
 最後まで言い切ることなく、今度はフィースが水飛沫とともに川に落ちていった。
「言い出しっぺなんだから、一緒に遊ばなきゃ。ね、フィース、カイ」
 リンは、笑顔で二人に水をかける。フィースは、やったな、とそれに応戦。カイはやはりそれを眺めていた――かと思うと、水を吸ったマントを外し、岸に投げてきた。それはメルツの横に、どさりと重そうな音を立てて落ちた。
 カイは一瞬だけメルツと視線をあわせ、すぐに逸らした。
 濡れて乱れた髪の毛が額に張り付いている。いつもは不機嫌そうに歪められている眉が隠れて、まるで少年のようだった。いや、カイは本来少年なのだが、普段は感じないか弱さのようなものを、メルツは確かに見た。
 やがて、カイはためらいがちに呟いた。
「……お前は、来ないのか」
「行きます!」
 メルツは嬉しくなって即答する。ブーツを脱ぎ、足下をたくし上げるのも忘れて川へ踏み込むと、カイの手を取った。
 この年の男の子には似つかわしくない、剣の握りだこだらけの固い手の平。メルツはそれを自分のことのように――自分のこと以上に誇らしく、愛おしく思った。
 今日だけは年相応にはしゃぐことを許してほしい。明日からはきっと、元の勇者一行に戻るから。私はこの少年を――勇者を、護っていくから。

-Powered by HTML DWARF-