囚人

「あら?」
 宿屋のベッドの上で、ミラは思わず指差した。
 目の前には、こちらに背を向けて胸元のサラシをきつく巻き直すスバル。その肩だった。
「何だ?」
「その傷、新しいわね」
 よく鍛えられた筋肉を包む肌はきめが細かく、つややかに光る。その白を裂くように、引きつれた傷痕が残っていた。火傷だろうか。
 癒しの術が使える者として、仲間の状態には気を使っていたはず――とりわけ、スバルは女の子なのに生傷が絶えないから――なのだが、見落としていたらしい。
 ミラは、スバルを手招きした。
「来て。治せるかどうか見たいから」
「これは、このままでいい」
「でも」
「残しておきたいんだ」
「大事なの? 傷、なのに」
 スバルは頷き、肩にそっと触れた。手では隠しきれないくらいに大きな傷。最近、こんなにひどい火傷を負うような闘いをしただろうかと、ミラは考え込む。火を吐く魔物は多いけれど、ここまでの怪我となると――。
 ミラの心中を見透かすように、スバルは呟いた。
「……おろち、だ」
「あっ――」
 やまたのおろちは、東方の国ジパングを恐怖で支配していたドラゴン。スバルの友人で女王のヒミコを喰い殺し、彼女に成り代わっていたのだった。その事実を突きつけられたスバルは、おろちとの闘いのさなかだというのにすっかり心を囚われてしまった。
 ミラはレグルスとともに最前線にいたから、そのあたりのことは曖昧だ。
 しかし、よくよく思い返してみれば、おろちの炎がリゲル、そしてスバルを襲ったという記憶はある。リゲルは自分の受けた火傷を自ら治療したと言っていたが、スバルの怪我はどうだったろう。
 考えても分からないのは、スバルが心を取り戻して戦闘に戻ってきたときにはすでに治療済みだったからか。では、彼女に回復魔法をかけたのはリゲルということになるが――。
「ごめんなさい。あたし、傷のこと知らなくて」
「ミラは悪くない。黙っていたのは私の我が儘だ」
「リゲルは? 治したがったんじゃない?」
「怒られたよ。『あなただって女性でしょう。自ら進んで傷物でいるなど、けしからぬこと』と」
 傷物という表現が正しいかはともかくとして、言葉に詰まりながら言うリゲルの姿が容易に目に浮かぶ。そういうことに慣れていない彼が懸命に気持ちを伝えようとするのは、いいことだ。
 しかし、ミラだってリゲルと同じ気持ちではある。スバルの決意は固いようだが、それならせめてその理由くらいは聞いておきたい。
「スバルがそう言うなら止めてもムダよねえ。でも、どうして?」
「……ミラにも無いかい? 辛い思い出と優しい思い出、両方が詰まった、忘れ難い傷痕が」
「……どういうこと?」
「おろちを前にしたときの無様な自分の姿は、とても忘れられるものじゃない。しかし、ヒミコと一緒に過ごした日々の延長にこの傷がある。それに、怯える私をジパングに導き、励まし、救ってくれたミラやレグルス、リゲル――皆の想いも、この傷には籠もっている気がする」
 だから消したくないのだ、とスバルは淡々と言った。
 過去も今も詰まっている、忘れ難い傷。もちろんミラにだって、それはある。
 故郷のテドンでの楽しかった日々。そして村を滅ぼされた日の絶望。魔物への、深く昏い怒り。こうして思い出すだけでも、頭の中が真っ白になってしまいそうになる。
 ミラの心こそ、あの日からもうずっと歩みを止めたまま、囚われているのだった。
「あたしにも傷はある。あたしも、スバルみたいにちゃんと向き合わないとって、思うわ。……自信、ないけど」
「私は情け無いことに狼狽えて、心を閉ざして仕舞いそうになった。決して手本にはなれない、が」
 声が近いと思ったら、背を向けていたはずのスバルはいつの間にか身支度を終え、真っ直ぐにミラを見つめていた。それはとても自信にあふれた魅力的な瞳で、ジパングでの一件まではずっと自分を抑制してきた彼女が、明らかに何かを吹っ切ったらしいことが見て取れた。
 スバルが、傷を隠していた手を何気なく下ろす。引きつれて色が変わった皮膚は、リゲルやミラの魔法をもってしてももう治らないだろう。この傷とともに生きていくと、彼女は決めたのだ。
 自分もいつか、乗り越えられるだろうか。心の傷をさらけ出して笑える日が来るのだろうか。
 つい出てしまった溜め息を、スバルは聞き逃さなかった。辛気くさい顔はするな、とミラの背中を叩き、「私にも、ミラにも」と切り出した。
「幸いなことに、傷ごと受け入れてくれる仲間がいるんだ。あんたもみっともなく足掻いても構わないよ。その時は、皆で呼び戻してやる」
「ありがと。……ぜひ、大声で呼んでよね」
「頬を引っぱたいて起こしてやろう。結構効くものだ 」
「何なの、それ」
 スバルは答えず、にっと口角を上げると唇に人差し指を当てた。

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