勇気ある者

「さっきから何度も呼んでるでしょ」
 肩を掴まれて、カイは不機嫌そうに足を止めた。半ば力ずくでカイを引き留めたのは、リン。
「ちょっと待って、って言ってるの。後ろ、見て」
「ゆっくり来いと伝えてくれ」
「メルツの遅れは、カイのケガを治したこともあるんだよ」
 リンは言いながら、背後をちらりと気にした。はるか後方に豆粒のように見えるのはメルツと、それを気遣うように寄り添うフィース。先ほど魔物と戦闘をした辺りから、動けずにいるのだ。
 闘いは辛勝と言ってよく、みな傷だらけだった。特に最前線で剣を振るったカイのケガは酷く、地面に血溜まりができるほどの出血だった。カイがそこまでの傷を負うのは珍しく、だからこそリンは彼を止めるべく呼び止めたのだが、とりつく島もない。
「俺は、血さえ止まればもう平気だ」
「表面上の傷は回復魔法で治せるけど、削られた体力は休まなきゃ元には戻らないんだから」
「しかし、こうして何事もなく動けている」
 事実、そう言ったカイは微塵の疲れも見せてはおらず、放っておけば独りで先に進んでしまいそうだった。もしかしたら、本当にカイの言うとおり、何の問題もないのか。彼のことだから、体力は多少の疲弊があったところでようやく人並みという程度なのかもしれない。
 ――ううん、違う。
 今話したいのは、伝えるべきは、こんなことじゃない。いくらカイが丈夫だからといっても、それは彼が自分を大事にしない理由にはならないのだ。
 カイからの返答は、冷たい反論か、はたまた無視か。リンは自らにはね返るダメージを予測しながら、言い返す。
「カイは無理してないのかもしれないし、大丈夫なのかもしれないけど。心配くらい、させてよ」  
「……勇者は」
 カイは何故か言葉を切った。若干俯いてそのまま黙り込む。彼には珍しいことだ。
「俺は、人間離れした人間だ。人の皮を被った化け物のようなものだ。化け物に情けなどかけるな」
 カイは、光の宿らぬ瞳で地面に視線を投げたまま、言った。
 戦闘に関する面だけを見れば、確かにそうなのかもしれない。驚異的な破壊力、耐久力、速さ、魔力はどれを取っても通常の『人』の力を凌駕している。
 ――でも。
 下を向いて呟く、まだ低くなりきらない声。
 北の村で水鉄砲に触れたときの儚い笑み。
 ふと覗き込んだ、いとけない寝顔。
 照れたときに、少しだけ尖る唇。
 リンが思い浮かべるカイの表情は、そんなものばかりだ。決して化け物の仕草じゃない。ちょっとだけひねくれた、でもありふれた少年のそれなのに。カイ自身は気付いていないのだろうか。
「……カイは化け物じゃない。人間だよ。どこにでもいる、男の子だよ」
 リンの言葉に、カイはすぐには答えなかった。
 沈黙の中、ぎゅっと何かが軋むような音。彼の革手袋が擦れて、発したものだった。
 拳を握りしめ、カイはやっと唇を開いた。

「五月蠅い!」

 カイが、怒鳴った。
 出会ったときから今まで、冷酷とも取れる落ち着き払った態度しか見せてこなかったカイが、声を荒げて。
 何か言い返そうと思ったが、喉が潰されたかのように苦しく、声が出ない。リンは言葉を無くし、ただ呆気にとられカイを眺めていた。
「お前はどうしていつも俺を迷わせる! お前に――いったい何が――解る!」
 いつもより上擦った声で、カイは叫ぶ。初めて見る、カイの取り乱した姿。悲痛な声がリンの胸を刺す。
「……わかんないよ!」
 しかし、ようやく出たリンの声は売り言葉に買い言葉――喧嘩腰だった。せっかく聞けたカイの本心なのに、ちゃんと受け止めて応えたいのに。そんな心とは裏腹に、乱暴な言葉が口をついて出て、止まらない。
「だってカイは全然教えてくれないんだもん! もっともっとたくさん、教えてくれなきゃわかんない。カイが何考えてんのか、何を思ってんのか、知りたいのに!」
「教えたところで何になる!」
「これからいっぱい考えようと思ってるとこなのに、そんなの無駄みたいな言い方、しないでよ! カイがそんなこと考えてたなんて、今初めて知ったんだもん!」
 カイと口喧嘩ができるのはある意味嬉しくもあるのだけれど、この調子ではリンの思いはカイに伝わらない。これではまるで 、子供の言い合いだ。
「勇者なんてものに、 化け物になるのは俺だけでいい」
 リンは俯くカイを見つめた。
 逃げを知らないが故に勇者という道を選ばざるを得ず、それでも人間離れしていくことに焦っているカイ。普段は尊大といえるほど自信に満ちあふれた彼が、こちらと目を合わせようともしない。まるで、魔物に怯える子供のように。
 『勇者』という分厚い殻は、今ここにきてひびが入っている。いろいろなものを諦めてねじ曲がってしまった生身の『カイ』は、その隙間からこちらを恐る恐る垣間見ているのだ。意地や虚勢や、とにかくいろいろな負の感情で凝り固まった中に、本来の『カイ』がいる。
 殻を断ち割るべきなのか、カイが自ら出てくるのを待つべきか。
 リンが選ぶのは、後者だった。
「カイが背負ってるもの、分けて」
「やめ――」
 カイの手を取って引き寄せる。彼は触れた瞬間こそ弱々しく振り払おうとしたものの、黙って従った。リンはいくらか声を抑え、ゆっくりと言った。
「旅を始めたときからずっと、待ってるの。わたし、そのためにここまで一緒に旅して来たんだもん」
「そんなことをしても、今さら人間になど、戻れない」
「戻ってこれるよ。わたしたちが絶対に引き留めるから、カイは化け物にはならない」
 緊張のためか、カイの手は硬直していた。リンはその指先までも暖めるかのように、そっと包み込んだ。カイはリンに手を委ねることはせず、頑なに握りしめている。
 幾分落ち着きを取り戻したカイは、いまだ俯いたまま呟いた。
「お前も、フィースもメルツも――眩しすぎる。強すぎる光の中に行けば、闇は濃くなる」
「本当にそう思う? ちょっと、立ち止まって試してみたら?」
 そう言って一歩脇へ避けたリンの背後には、フィースとメルツ。多少覚束ない足取りではあるものの、ようやく追い付いたところだった。
「待っててくれたんだな、カイ」
「遅れて申し訳ありませんでした。さあ、行きましょう」
「……待ってなど、いない」
 二人の声に、カイは小声で言い残すと、こちらにくるりと背を向けた。いつもより広い歩幅で、先へ行く。
 リンは、その後ろ姿を複雑な思いで見送った。フィースとメルツが何か尋ねていたが、リンの耳にはカイの言葉だけが響いていた。
 化け物になるのは俺だけでいい、と。

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