恋人たち

「愛の思い出、かあ」
 岬で舟の行く手を妨げる、オリビアという女性宛ての届け物。幽霊船の亡霊から預かったそれを、レグルスは持て余すように抱え、甲板に立っていた。
「どうかしましたか」
 ため息混じりのレグルスの声が気になって、リゲルは思わず問うていた。
「愛なんてもの、僕にはよく分からないよ。ただ、僕たちが八つ当たりのとばっちりを食うのはちょっと気に入らないかな」
 分からない、と言いつつも、レグルスは首を捻るわけでも無く、いつものように穏やかに言った。しかしリゲルには、それがかえって凄みを帯びて聞こえた。
 ――愛が分からない、などと。
 そんなはずはない、とリゲルは眉を寄せた。彼がミラを憎からず思っていることは、いくら男女の心の機微に疎いリゲルにでも分かる。この旅路の中で、いついかなるときも密かにミラの背を守っているレグルス。それは『愛』ではないとでもいうのか。それとも単に、本当に自覚がないだけなのだろうか。
 ――おかしい。何かが、少しずつずれている。
 思えば、リゲルがルイーダの酒場で初めてレグルスと出会ったときにも、何ともいえない違和感があったものだ。
 レグルスの中には、何の変哲もない少年を装う、別のレグルスがいるのではないか――その疑念は今もリゲルの頭から離れない。年相応の素直な子どものように振る舞っているかと思えば、突然醒めた瞳をすることもあるからだ。
 ならば、目の前のレグルスは『別の』レグルスなのだろうか。それとも、『本物』のレグルスだろうか。
 ――いや、どちらのレグルスでもいい。彼の心の奥に語りかける、いまこの瞬間を逃してはいけない――リゲルは本能的にそう感じた。
「確かに八つ当たりは迷惑な話ですが。愛なんて、とは寂しい言いぐさですね。……誰にでも、魂が引き合う相手が世界のどこかにいると言いますよ」
「それ、神の教え?」
「おおむね」
 概ね、とは答えたものの、リゲルの持論も多分に含まれていた。レグルスもそう思ったのだろう、からかうように芝居がかった口調で言う。
「リゲルはロマンチストだよねえ」
「分からないというから説明しているんです。真面目に聞いてください」
「悪気はなかったんだ」
 レグルスは「ごめん」と素直に謝ると、少し困ったような表情で続けた。
「誰かが誰かと幸せそうにしているのは、見てて楽しい。でも、愛をこれ見よがしに押し付けるようなのは苦手なんだ」
「それには同意ですがね」
 教えを説くときには、相手が求めているであろう言葉を、よりわかりやすく伝えるようにしていた。
 レグルスが分からないこと。レグルスが欲しいものは、いったい何だ。

 ――『愛』か。

 この少年は、愛に飢えているのだ。狂おしいほどに他人の愛を求めているのに、彼の周りには愛が溢れているというのに、本人にその自覚は無いなんて――。
 リゲルの胸が、どくり、と痛んだ。まるで、本当に胸の奥に刃をねじ込まれたように鋭く熱い痛みだった。
「……愛とは、いついかなる時でも、迷えるひとの隣に寄り添っているもの。その温もりに気づく機会があるかどうか。そして、いつ気付くのか。それが、人により多少異なる――そういうものです」
 胸の苦しさを堪えながら、リゲルはゆっくりと、リゲル自身の言葉で語りかける。
「レグルスの隣にも、愛はあるのでしょう。それに気付くのに、遅いも早いもありません。来るべくしていつか来るその時を待つのも、楽しいとは思いませんか」
「生まれたときからずっと? 今もあるの? 僕が、まだ気付いてないだけ?」
 畳みかけるように、レグルスは尋ねる。まるで幼子のような問いかけは、リゲルの心を突いた。
 リゲルが一呼吸おいた後に深く深く頷くと、レグルスは微笑みながら肩をすくめてみせた。
「もっと早く聞けたらよかった」
 やがてレグルスは、荷の重みが堪えるなどと、およそ彼らしくないことを言いながら船室へと去っていった。その後ろ姿は小さく萎んでしまったように、リゲルには見えた。

 迷える無垢な魂に、どうか救いがありますよう。
 リゲルは、そう願わずにはいられなかった。

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