「カルム、後ろだ!」
 隣で戦っていたセアは大声で叫んだが、間に合わなかった。
 化け物熊の爪が、振り向いたカルムの腹を無慈悲に切り裂く。水っぽい音と同時に、生ぬるい血しぶきがセアの顔に飛び散った。その赤の量から、かなりの深手だと知れた。
「ちょっと――大丈夫!?」
 がっくりと膝をついたカルムは、グレシェの声には答えなかった。ただ、唇が、わずかに動いたのが見えた。どうやら、油断したぜ、と言ったようだ。
 ――こんな時まで、斜に構えていなくてもいいのに!
 しかしセアがそう思えたのも一瞬だった。カルムを襲った魔物が、今度はセアに狙いを定めている。
「エイル、頼む!」
「おう!」
 すかさず、エイルが敵の攻撃をかいくぐってカルムの元へ走ってきた。回復魔法ならエイルに任せておけば心配ないだろうと、セアとグレシェは残った敵の掃討に専念した。


 戦闘が終わり、セアとグレシェは横たわるカルムへと駆け寄った。
 カルムは、土の上で静かな寝息を立てていた。手当てをしていたエイルはびっしょりと汗をかいており、治療の代償――術者への負担が大きいこと、つまりはカルムの怪我が酷いということが一目で見て取れた。
「お疲れさま。……だいぶ酷いみたいね」
 グレシェがエイルとカルムの様子を見比べ、眉を寄せる。
「止血はしたぜ。ただ、俺の体力が限界。……こいつ、『治るまでちょっと時間かかる』って言ったら、『じゃあ寝て待つ。ラリホー頼むぜ』、だとさ」
「余計な体力を消耗しないようにってこと、だよね」
「……理に適ってはいるわね」
 カルムらしい、とセアとグレシェはため息をついた。
 カルムが着込んでいたのは破れにくいと評判の武闘着だったが、無惨にも爪痕に沿って裂けており、その上、治療のために前がはだけられていた。剥き出しとなった腹は赤黒く染まっていたが、傷は確かに塞がっているらしく、出血は止まっていた。
 分厚い筋肉に守られて、内臓は無事だ、とエイルは言った。
「まったく、人間離れした逞しさだよな。ま、そのおかげで命拾いしたわけだけど」
「……なんだか、古傷もたくさんあるね」
「結構、跡が残ってるな。昔から無茶ばっかしてきたんじゃないのか?」
 セアは、眠るカルムと、肩で息をしているエイルとを見比べる。
 ――すぐには発てないだろうな。
 グレシェも、しばらくはここから動けないと判断したらしい。肩から自らの着ていたマントを外し、カルムに掛けてやりながら、グレシェはエイルに尋ねた。
「復活するのにどれくらいかかるわけ?」
「俺は昼まで休めばいける。それで、カルムに回復魔法をかけて傷が治れば、こいつもいけるだろ」
「そんなもんでいいの?」
「多分な」
「……ほんと丈夫ねえ、あんたたちって」
「俺は人並み。すごいのはカルムの方だ」
「私からしてみれば、どっちも同じよ」
 そう言って、グレシェは再びため息をついた。呆れたような、少しだけ尊敬も混じっているような、複雑な口調だった。


 昼になり、元気を取り戻したエイルがベホイミを唱えても、カルムはまだ寝ていた。
 自然に目覚めるまでカルムを寝かせておくことにして、グレシェとエイルは傷に効く薬草を探しに。看病兼護衛に適任だと留守番を任されたセアは、眠るカルムの横で彼を見守っていた。
 弱い魔物程度なら、睨みつけただけで動けなくなるほどに鋭い、カルムの瞳。それも今は固く閉じられている。高すぎず低すぎず、すっと通った鼻筋。いつも軽口ばかりを紡ぐ唇は、薄いがよく整っていた。いつもは目の光の強さに気を取られてしまって、こんなにじっくりとカルムの顔を見つめられないのだが――。
 ――こんなにじろじろ見たら、カルムに悪いな。
 ばつが悪くなって目を逸らしたものの、視線のやり場に困り、彼の肩のあたりをぼんやり眺める。
「……ん?」
 服を思い切りはだけているため、グレシェの掛けたマントからはみ出た肩は裸だ。その、肩から首筋に至る肌の様子が、何かおかしい――気がした。
 半裸の男性をじろじろ眺めるのは気が引けたが、違和感の元を突き止めようと、セアはカルムの首元に顔を近づけてみた。
 太い首から、逞しく盛り上がる肩への筋肉へのライン。そして、その表面をうっすらと覆う、青く光る何か。

 群青と言うにはやや薄い。空の色よりは少し深い、青。瑠璃色の――鱗だ。

「綺麗……」
 それが、セアの正直な、しかし真っ先に口をついて出た感想だった。
 しかし、少し冷静になったセアの頭には、疑問符ばかりが浮かぶ。
 人間に鱗があるわけがないのだ。
 ましてや、ここまで一緒に旅をしてきたカルムのこと。今の今まで、少なくとも昼までは青い輝きなど目にした覚えはないと、セアは断言できた。突然に、鱗が生えた――そうとしか考えられない。
 ――でも、なぜ?
 ――どうして、今?
 改めて青い鱗を見る。ごく自然に、セアの手はカルムの肩に触れていた。そっとなぞった指に、ごつごつとした硬い感触が返ってきた。まるで、人間ではないものの肌――そう、例えるなら魔物の皮膚。
 ――これはいったい、何?
 ようやくそこまで考えが行き着くと、セアはカルムの傍らで呆然と座り込んだ。
 ちょうどそのタイミングで、カルムが身じろぎした。彼は片目だけをうっすらと開くと、「……おいおい、勇者サマ」と呟いた。
「タダで触りやがったな」
「お、起きてたの?」
「起こしたのはそっちだろうが。無防備に近づきやがって。添い寝でもしてくれるかと思って待ってたんだが、期待外れだぜ」
 カルムは上体を起こして、いつも通りにニヤリと笑って悪態を付いてみせた。怪我で弱っていることを除けば、普段と何ら変わらぬカルム、なのだが――。
 何度瞬きをしても、目をこすってみても、彼の首筋には美しい鱗が見える。
「何か言いたそうだな」
「まあ、ね」
「お気持ちはお察しするぜ。……そうだな、俺に身を委ねるって言うんなら、質問に答えてやってもいい」
「一つだけ、聞きたいけど――」
「先払いだ」
 セアが反論を言い終えないうちに、カルムはおよそ怪我人に似つかわしくない素早さでセアに手を伸ばし、たちまち抱きすくめた。そのまま、セアの首筋に顔を埋める。セアが思わず身を硬くすると、カルムは「怖いか?」と笑った。
「震えてるぜ」
 怖いか、と聞かれれば、ちょっとだけ怖い。でもそれは、鱗が生えているカルムが怖いのではなく、男性にこんなにも密着されたことがかつてなかったからという、単にセアの経験不足からくるもので――。
 それに、セアには、カルムが自分に助けを求めているのではないかと――抱きしめられているというよりは、すがりつかれているように思えたのだ。
 これを突き放してしまったら、もう二度とカルムとは会えなくなってしまうのではないか。そんな気がしたので、セアは乞われるままに腕の中に収まっていた。
「何を、聞きたいんだ?」
 低い声で、首に息がかかるほどの距離で呟かれる。混乱する頭の中をいろいろなことが巡ったが、尋ねたいことはただ一つだけだった。
「カルムは、この先も私たちと一緒に来てくれるよね?」
「はぁ?」
「ここでさよなら、なんてことはないよね」
「……嘘でも『私のこと、好きなの?』って、言うもんだぜ」
「不真面目だなあ」
「大真面目だぜ。……怖えからな」
 何があっても、皮肉を言いながら、力業で乗り越えていく強さを持つカルム。しかし、深刻な悩みだからこそ、深く触れることを敢えて避けている、そんな風にも受け取れる。飄々としている反面、真剣になりきれない――カルムには平素からそんなところがあった。
 ――怖い、だなんて。
 さっきだって、魔物の爪に切り裂かれてもなお、笑いを浮かべていたカルム。こんなに強いカルムが、いったい何を怖がるというのか。
「震えてるのは、カルムだよ」
「……そうかもな」
 細かく震えるカルムの腕に、力がこもった。
「私はカルムが何だって構わないよ。綺麗な鱗があったって、カルムはカルム。……私が怖いのは、カルムが私を恐れて、私の見方を変えちゃうことだよ」
「……俺が、お前を恐れる、だと?」
「『こんな姿の俺を、こいつはどう思うだろうか。これまでと同じように接してくれるんだろうか』って――信じられなくなってないかなって。怖がってないかな、って」
「……」
「カルムは、女勇者でいい評判が無かった私と、何も言わずにここまで一緒に戦ってくれた。私がカルムに思うこともきっと同じだよ。何があっても、何も変わらずに、カルムを信じる。だからカルムもいつもみたいに、強くてかっこよくて、笑ってて……ひゃっ」
 突然、首に柔らかな感触があり、セアは思わず声を上げた。
 押し当てられていたのは、カルムの唇だった。羞恥と緊張とで動けなくなってしまったセアの首を舐め、耳を甘く噛み、項に何度か優しく触れた後、彼はようやくセアを解き放ってくれた。
「危うく、惚れそうになるところだった」
「なにを――!」
 真っ赤になって抗議するセアのことなど気にもせず、カルムはいたって真面目な口調で言った。
「旨かったぜ。まだ誰にも食わせてなかったんだろ? ……おおくちばしに蹴られちまうと困るからな。この程度にしといてやる」
 人の恋路を邪魔する者はおおくちばしに蹴られる、セアもそんな言葉を聞いたことがあった。いったいカルムが誰の邪魔をしているというのか、このときのセアには分からなかったけれど――。
「聞かれないと、かえって喋りたくなるもんだな」
 カルムの体の震えはとうに止まっていたが、声は僅かに震えていた。天を仰いでいたかと思うと、ふと俯いて顎を撫でる。
 そうしてしばらく悩んでいたカルムは、不意にセアに向かって微笑んだ。何かを吹っ切ったような邪気のないカルムの表情を、セアは初めて見た。
「誰にも言うつもりは無かったが、お前には、喋っておきたくなった。……しばらく、嫌でも聞いてろ」
 ぽつりぽつりと、カルムは話し出した。

 カルムの生まれは、アリアハンからそう遠くない小さな村だったそうだ。村人が自給自足できる程度の畑を作っている、そんな慎ましやかな暮らしをしている土地らしかった。
 そういえば、カルムの昔の話は今まで聞いたことがなかったと、セアは思い返して納得した。話したくない事情があったのだと、今になれば分かる。
「あるとき、村の若者が、村の外の女と夫婦になったんだ。……女は、人のなりをまねて化けてはいたが――魔物だった。男に恋い焦がれて、人として生きたいと願ったんだ。男も女を受け入れて、全て承知の上で娶った」
「もしかして――」
「二人の子が、俺だ。俺には、魔物の血が半分流れてる」
 ――人間離れしている、ではなく、実際に半分は人間ではなかったわけだ。道理で――強いはずだ。
 やがて、隠していた母親の素性がついに村人に知れた。父親がいくら説得しても村人たちは耳を貸さず、家族を――魔物の血を引くカルムと、その母を追い出すと言って聞かなかった。
 そしてある日、それは、暴力的に実行された。狂気の嵐の中、カルムの母親は息子を庇い、命を落とした。
「俺もずいぶん酷い怪我をしたらしいが、よく覚えてねえ。……気を失ったまま父親に助け出されて、次に目覚めたときには遠くの街にいたからな」
 カルムは父親に連れられ、土地を転々としながら育った。魔物の子だとばれないように、ひとところには長く居ないように。
 そして、何があっても自分の身は自分で守れるように、腕を磨きながら。
 体に残る古傷は、カルムの無茶のせいでついたものはなかった。恐らくはヒトよりも強靱な体をもっていただろうカルムの母。彼女が身を挺しても庇いきれなかったほどの攻撃が、カルムの身体、そして心にも傷を残したのだ。
 種族という壁を乗り越えて結ばれた絆を、穏やかに暮らしていた家族を、最悪の形で引き離す。人間とは、なんと愚かな生き物であることか――セアは唇を噛んだ。
 カルムは強くならざるを得なかった。そうでないと生き残ることができないから。それが、母の最後の教えだったから。
「じゃあ、その鱗はお母さんの――形見なんだね」
「ああ」
 やや誇らしげに、カルムは答えた。
「人に気付かれると面倒だからな、普段は気合いで隠してんだ」
「気合いで何とかなるの?」
「俺の母親だって、素性を隠すために人の姿になってたらしいからな。俺にだってそれくらいはできる。……ただ、さっきみてぇに弱り切ってると、そこまで気が回らねえらしい。これを誰かに見られた――見せたのは、初めてだ」
 カルムは何気なく自らの首筋に触れた。瑠璃色の鱗は相変わらず煌めいていて、やはり、とても綺麗だった。
「綺麗な青だね」
「だろ?」
 カルムは素直に、真っ直ぐにセアの目を見つめた。悪戯っぽさはなりを潜めた、真剣そのものの眼差しで。
 彼は、人への、そして自分の運命への恐怖から逃げるのをやめたのだと、セアは思った。
「お前なら――俺の命を、預けられる。魔王討伐、最後まで付き合うぜ。だからお前も、俺のこと、最後まで連れてけよ」


 戻ってきたエイルとグレシェは、カルムの姿を見ると駆け寄ってきた。グレシェが、「具合はどう?」と言いながらカルムの傍らに座った。エイルも笑顔で尋ねる。
「傷は俺が塞いでやったぜ。……気分は悪くないか?」
「だいぶいいぜ。セアが、献身的に手取り足取り看病してくれたからな」
「してない! 普通の看病しかしてないよ!」
 セアの突然の大声に、エイルとグレシェが首を傾げている。
 セアはカルムを睨んだが、あれこれと慣れないことをされた後だ。どうしても頬が赤くなって、しまらない。
 カルムは相変わらず厚い胸板を晒したままだったが、青い鱗はすでに『気合いで』隠され、見えなくなっていた。エイルやグレシェには余計なことは教えたくないとカルムは言った。セアは、それが逃げや恐れからではなく、ただ仲間を思う心からの気持ちだと信じ、カルムと共に秘密を守ることを決めたのだ。
「何だか怪しいな」
「セアに変なことしたんじゃないでしょうね?」
 訝しがるエイル、目をつり上げたグレシェがカルムの顔を覗き込む。カルムはいつものように、ふざけた様子で言い返した。
「……秘密だ」
「誤解されるようなこと言わないで!」
 セアはカルムを睨み付けた。彼はセアに目配せしつつ、皮肉っぽい笑みを浮かべて見せた。
 いつものカルム。でも、いつもと違うカルムだということを、セアだけが知っている。

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