神に選ばれし者

「リゲル!」
「……どうしたのですか、ミラさん」
 息せき切って駆けてきたミラは、宿屋のロビーでくつろいでいたリゲルを見つけると、「ちょっと来て!」と叫んだ。
 ミラに手を引っ張られたリゲルは、座っていたソファーから無理やりに引きはがされた。そしてそのまま、半ば引きずられるように宿の外へと拉致された。

 人目に付かぬ街の外れまで連れて来られたところで、ここまで我慢していたリゲルもさすがにミラの手を振り払った。何か事情があるのだろうが、あまりにも強引すぎる。
「ミラさん!」
「ちょっと黙って見てて!」
 しかしリゲルの抗議は、ミラの声にかき消された。ミラは無言でふところからナイフを出すと、やにわに自らの指先を傷つけた。流れ出した血の玉がぷっくりと膨れ、地面に滴る。
「何してるんですか!」
 慌てたリゲルはミラの手からナイフをたたき落とし、回復魔法を使おうとした。そのリゲルよりも早く、ミラが呪文を口にする。
「癒しの光、……ホイミ」
「え?」
 リゲルの口から、呪文になりそこねた息とともに、疑問の声が漏れる。
 ミラは紆余曲折を経て遊び人から魔法使いに転職し、現在も修行の身。攻撃魔法は日々めきめきと上達しているものの、回復魔法の心得は今のところまったくない。回復の呪文を唱えたところで、何も起きないはずだ。
「ミラさん、それより私が」
「見てって言ってるじゃない。……ほら」
 自らの傷口にかざしたミラの手がほのかに光る。僧侶であるリゲルが使う回復魔法と何ら変わらぬ、あたたかな光。
 やがて光がおさまったのち、リゲルはミラの手にぐっと顔を近付けてみる。さっき、リゲルの目の前で付けられたはずの傷は、もう跡形もない。それは、まさしく呪文が発動した証拠だった。
「ね! おかしいでしょ? 回復魔法が使えるの! どういうことだと思う?」
「それを聞きたいのはこちらの方です」
 リゲルは額に手を当てながら、ため息混じりにそう言った。


「あたし、たまにひとりで闘いに行くでしょ」
 ミラは魔法使いの技を磨くため、弱い魔物相手に独りで特訓をすることがあった。それはミラがまだ踊り子――と、パーティーの皆が思っていた頃――の時分から続いている日課のようなもので、魔法使いとなった後も、決して無理をしないこと、という条件付きで黙認されていた。
「無理はしてなくても、小さなケガくらいはするじゃない? そんなときに、回復魔法も使えればもっとみんなの役に立つのになって、冗談のつもりで何気なく唱えたのよ。そしたら――」
「使えるようになっていた、と?」
「回復だけじゃないの。かまいたちとか、毒消しとか、催眠とか、そういうのまで」
「ということは、僧侶が修行して身につける呪文を、なぜか使える」
 ミラは大きく頷いた。
 攻撃も回復も一人でこなせるようになれば、確かにこれからの旅には多大に貢献できるだろう。リゲルはそのために賢者を目指し、目下、『悟りの書』を解読中なのだ――遅々として進んではいないが。
 と、そこでリゲルははたと気付いた。

 ――魔法使いも僧侶もこなす、それはすなわち『賢者』ではないか!

 ならば。
 ミラが賢者だとして、何かそれを確かめる術はないものか。実際にリゲルの目の前で魔法を使って貰うという手もあるが、それでいたずらに精神力をすり減らすのはもったいない。何かほかの手は無いものかと、リゲルは思案し、やがて閃いた。
 ――『悟りの書』がある。
 世界中、どんなに探し求めてもこの一冊しか見つからなかった貴重な本。それは、たっての願いでリゲルが譲り受けていた。
 これを自在に読みこなせるようになれば、どんな魔法も思いのままだという。この書を制圧した者だけが『悟り』の境地に達し、賢者として覚醒するらしい。しかし、実際はこれを読まずとも賢者となった先人もいると聞く。
 リゲルはまだほんの僅かしか読み進められていないものだが、ミラは果たしてどうだろうか。もし、ミラがこれをすらすらと読めるようであれば――。
 リゲルは意を決して、ミラに問いかけた。
「もしかしたら、あなたは『悟った』のではないですか。魔法使いも僧侶も――ということは、『賢者』として覚醒したのではないですか」
「……あっ!」
 ミラはやにわに大声を上げた。リゲルに指摘されて初めてその可能性に気付いたようだった。
 普段の彼女は元が遊び人とは思えぬほどに頭の回転が早く、人生経験だってリゲルとは比べものにならないほど豊富なのだが、こんな風にどこか抜けているところもあるのが面白い。
 ――いいや。面白がっている場合ではないのだ。
 リゲルは背負っていた荷――宿から連れ出される際、咄嗟に持ってきていたもの――を解くと、古びた書物を取り出した。
「ミラさん。これを、見てください」
「悟りの書?」
 リゲルが頷くと、ミラは「無理よ!」と叫んだ。
「リゲルがダメなもの、あたしなんかに読めるはずないわ」
「やってみないと分からないでしょう」
「やらなくても分かるわよ!」
 押し問答になり、リゲルはなぜか必要以上に拒むミラをなだめるために随分と骨を折らなくてはならなかった。やがてリゲルは、悟りの書を押し付けるようにしてミラに手渡した。
「ともかく、試してみてほしいんです。……もしあなたが賢者ならば、こんなに嬉しいことはないのですから」
「……嬉しい?」
 ミラは、目を丸くしてリゲルを見つめた。余計なことを言った、と後悔しながら、リゲルは再度頼み込む。
「読んでみてください」
 促されて、ついにミラは悟りの書を恐る恐る捲った。1ページ、また1ページと、ゆっくり確かめていく。ミラの目が文字を追っていくのが、横で見守るリゲルにも分かる。
「……読めるわ。全部じゃ、ないけど」
 その声に、リゲルの体は震えた。
 喜びなのか、悔しさなのか、怒りなのか、それとも一種の武者震いだったのか。自分でも分類できない感情がリゲルの中を駆け巡っていた。
 一方のミラはリゲルとは対照的に、憂いの表情で悟りの書を閉じ、深く息を吐いた。
「悟りの書無しでも賢者になれるってこと、あるのね」
「人に依るようですがね。ミラさんは、適性があったのかもしれません」
「なんか、すっごくフクザツな気持ち。リゲルより先にはなりたくなかったのよね、賢者に。……きっと、あたしよりリゲルの方が、賢者になりたいって、強く思ってるから」
 恐らく、それはミラが考えているとおりだ。
 旅の初期から賢者を目指していた自分。そもそも、ミラが自らの過去を語り、旅を辞めたいと言い出したときに『一緒に賢者になろう』と引き留めたのはリゲルだ。
 追い抜かれたことが悔しくないと言ったら、嘘になる。しかしそれは、今の自分に足りない何かをミラが持っていた――それだけのことだ。精進が足りない自分に、他人を羨んだり妬んだりなどできない。
 そして、ミラもリゲルのそんな性格を知っているから、先を越したことに多少の罪悪感はあっても、『ごめんね』などとは決して言わないのだ。
 リゲルは、微笑んで答える。
「私に気を使う必要など、まったくありませんよ」
 ミラは「リゲルはそういう人だもんね?」と、やはり微笑んで言った。
「リゲルが『嬉しい』って言ってくれたから、私も嬉しいって思うことにするわ」
 ミラの言葉に、リゲルには思うものがあった。
 ミラが持っていて、自分には無いもの。それは、人生経験と、柔軟で大きな器だ。
「……私はこれでも、私なりに、あなたを――尊敬、しているのですよ。知らなかったでしょう」
「尊敬? ……知らなかった――っていうか――どうして私なんかを?」
「乗り越えるべき過去を越えて、今を生きているからですよ」
「……?」
「私は、人の生き方は、魔法にも表れると思っています。そしてミラさんの魔法には、私とは比べものにならない深さを感じるときがあります。そこが、私にはまだ足りないのではないか、とも。辛い試練を突破したから、強い魔法が放てるようになった――そして、それが賢者としての開眼に繋がった。そういうことでは、ないでしょうか。……ですから、ミラさんが賢者ならば嬉しいと言ったのです。私が――認めた人ですから」
「なんか、照れるわ」
 本当に照れたのか、火照った頬をもてあましながら、ミラは言った。
「リゲルが、私だけ『さん』づけで呼ぶのってそういう理由?」
「前述の通りです」
「照れてる?」
「照れてません」
 リゲルもきっと紅くなっているが、自分ではよく分からなかった。ただ、旅の始めの頃からずっと心に溜めていたことはすべて吐き出したように思えた。すがすがしい気分で、リゲルは悟りの書を再び荷の中に収めた。
「私が乗り越えなくてはいけないのは、まずはこの本を読むことですね。……あなたに教えられなくても、読んでみせますよ」
「教えようとしたって断るくせに」
 ミラは朗らかに言うと、リゲルの脇腹を小突いた。くすぐったい感覚に、リゲルの表情はつい緩んでしまう。例え賢者となっても、ミラの本質は何も変わらない。それが、リゲルには嬉しかった。
「さて。みなさんにも報告しなくてはいけませんね。きっと、喜ぶ」
「戻るわ。……みんなにも自慢しなくちゃ!」
 駆け出すミラを、リゲルも追いかける。追いつき、追い越してみせると心に決めて。

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