券を一枚

 彼女は、思い詰めた顔で俺に声をかけてきた。
「フィースさん。ちょっと、よろしいでしょうか」
「構わないけど、何? 急ぎの用?」
「できれば、今すぐ」
 フィースは、おや、と思った。メルツが人を急かしたりすることは滅多にないからだ。

 キャンプを張った場所から少し離れ、メルツとフィースは向かい合って腰を下ろした。メルツの表情はいつもより相当固く、フィースは何か重大な話があるのだと察した。
 やがてメルツは、意を決したかのようにぐっと膝を乗り出してきた。
「実は、フィースさんにお願いがあるのです」
「お願い――って、何?」
「これを、貰っていただきたいのですが」
 そう言って彼女がフィースに差し出したのは、古びた本だった。
「悟りの書じゃないか」
「はい」
 蒼白な顔で、メルツは頷いた。
「これは、私よりもフィースさんにふさわしいものではないかと思いまして」
 悟りの書は世界でもっとも難解な本として知られ、また稀覯本としても有名で、フィースも盗賊稼業の中で噂は聞いていた。
 それを読み解いた者は、様々な魔法を自由自在に操れるようになる――『賢者』と呼ばれる人間になれるという。まだまだ続く旅の中で、強大な攻撃魔法を操り、かつ回復もこなせる『賢者』は、カイたちにとっては喉から手がでるほど欲しい存在だった。
 そして、一冊だけ手に入った悟りの書――たった一枚の賢者へのチケット――は、メルツに託されていた。旅の面子を見るに、読みこなせる可能性があるのは彼女くらいだったからだ。
 その貴重な本を、メルツはフィースに譲ろうとしている。
「待て待て、ちょっと待て。どうしてそう思ったのか、理由を教えてくれないか」
「この先、カイの旅を助けるには、『賢者になる』ことが一番かと思いますので。賢者になるのは私でなくてもいい。私は――もし私以外の誰かというならば、フィースさんに託したい、と思いました」
「賢者にならなくたって旅に貢献はできるだろ」
「私には、カイの前から去ることが、貢献だとは思えません」
「なにを言って――」
「知っているんです」
 フィースの言葉をメルツが遮った。メルツは、彼女らしくない鋭いまなざしをフィースに向けていた。
「見ていますもの。……私だって、そこまで鈍くはありません。気付きますわ」
「何がだよ」
「……昏い過去を持つ自分は、カイにふさわしくない」
 メルツのいつになく迫力を帯びた口調に不意を突かれ、フィースは少しだけたじろいだ。
「フィースさんは、他のだれよりも、カイの役に立ちたいと思っている。だからこそ、汚れた――少なくともフィースさんは自分のことをそう評価している――自分がカイの側にいてはいけないと考えている」
 メルツの声は揺らがない。一方のフィースは動揺している。しかし、悟られないよう、精一杯淡々と返答してみせる。
「そんなこと、思ってないさ」
「カイは、この旅にフィースさんがいてくれて良かったと思っている。これからもずっと隣にいてくれると信じてはいるけれど、その気持ちがフィースさんを苦しめていることも知っている。……でも、カイはそれでも、『あなたに抜けて欲しい』とは思っていませんよ。フィースさんは、自分の気持ちとカイの想い、どちらを大切にしますか?」
 凛とした声と、真っ直ぐに見つめてくる澄んだ目が、フィースを苛む。何もかも見透かすような瞳。これが、迷える子羊を導く職の資質なのかもしれない。そういえば、彼女は意外に押しが強いのだ、といつかの夜に思ったのだっけ――。
 改めてメルツを見る。視線が交錯すると、彼女は僅かに眼を細めた。
 ――ああ。
 ――押しが強いんじゃない。信じているのか。俺が、カイを優先するに決まっていると、そう信じて疑わないのか。
 フィースは、白旗をあげた。
「今日の君には、勝てる気がしないな」
「す、すみません」
「謝らないでくれ。……わかった。もう迷わない。俺は最後まで、カイの元を離れないよ。賢者の修行もする」
 悟りの書を受け取ったフィースを見て、メルツは何も言わず、ただにっこりと微笑んだ。

 野宿していた場所へ戻る途中、フィースは気に掛かっていたことをメルツに確かめた。
「ところで、君の方はどうなんだ。賢者にはなりたくないのかよ」
「なりたいです」
 即答だった。しかし、その表情は明るい。
「……我慢しなくたっていいんだぜ」
「していませんよ」
 またもや即答だった。メルツは当たり前のように言った。
「そんなことは、とても些細なことです」
 ――尋ねなくても、知っていた。
 我慢を我慢と思わないのがメルツの凄いところだ。成すべきことを決めたら、どんな困難も受け止め、ただ静かに受け入れる。自分が正しいと信じることを貫き通す強さが、メルツにはある。
 カイを助け、ともに旅することの重みに比べたら、悟りの書も――そして、フィースの過去なども、彼女にとっては些事になるのだ。その考えが頑固に思えるときもあるが、それ以上に、フィースの目には好ましく映っていた。
 メルツは先ほど、フィースに迫ったときの表情とは一転して、穏やかに笑った。
「私が賢者になることより、あなたを繋ぎ止めることの方が大事だと思いましたから。その方法が、他に思い付かなかったので。……私が賢者を目指すのは、フィースさんが賢者になったあとでいい。旅が終わってからだって、賢者にはなれますよ」
「ほんと、君には敵わないよ」
 フィースは、ややおどけた調子で切り出した。
「俺さあ。……この旅が終わったら、カイと盗賊やる約束をしてるんだ」
「と、とうぞく?」
 メルツが目を丸くする。しばらくきょとんとしてフィースを見ていたが、やがて、堪えきれないという様子で吹き出した。
「勇者と賢者が、盗賊になるなんて――面白いです」
「楽しそうだろ。だから目指してるんだ。……トレジャーハンターになって、もし悟りの書が見つかったら、絶対君に渡す。だから、待っててくれ」
「はい! お待ちしています、いつまでも」
 ――また、信じている。俺がずっとカイの側にいると。きっと悟りの書が見つかるのだと。俺とカイが盗賊になるのだと。そして――皆、無事で旅が終わると。
 ――それなら俺は、その思いを『現実』にしてみせよう。
 腕に抱えた悟りの書の重み、そして隣を歩くメルツの思いを感じながら、フィースは決意を新たにした。

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