むなしい山彦

 燃え残った薪が燻り、紅く光っている。その僅かな火ですら明るく見えるほどの闇夜だった。
 グレシェは目を擦りながら身を起こす。隣にはセアが、焚き火を挟んで反対側にはエイルが静かに寝息を立てているが、エイルの横にいたはずのカルムの姿は無かった。置きっ放しの荷、そして寝床の跡も残っているから、そう長く留守にしているわけではないようだが。
 ――どこかで独り、敵に囲まれていたりしたら。
 冷や汗と共に、眠気は一気に吹き飛んだ。
 先日、カルムは魔物との戦闘で酷い傷を負った。グレシェも、他のメンバーも、カルムの強さを少し過信しすぎていたようなのだ。いくら強くても、万が一ということがある――カルムの怪我は、グレシェにこの旅の厳しさを改めて知らしめたのだった。
 カルムを探しに出ようと最低限の身支度を調え、グレシェは立ち上がった。迷ったが、セアとエイルは起こさないことにした。いざというときには、魔法で大きな音を立てれば居場所を知らせることが出来るだろう。
 とはいえ、月のない夜だ。
 視界が悪い中、どうやってカルムを見つけようかとグレシェが途方に暮れていると、物音がした――ような気がした。慌てて息を殺し、耳を澄ましてみる。
 ――鳥の声。ううん、笛?
 風のざわめきや虫の声に混じり、細く静かに奏でられる笛の音が、確かに聞こえてくる。覚えのあるその音色は、グレシェ達が最近手に入れた『やまびこの笛』――宝物のありかを教えてくれる不思議な笛――に違いなかった。
 ――カルムが吹いているのだろうか。
 しかしグレシェは、カルムが笛を操る姿など見たことは無かったし、ましてや彼が楽器を奏でている姿などは想像できなかった。いや、思いつかなかった、と言い換えてもいいかもしれない。カルムと笛が、グレシェの頭の中では結びつかなかったのだ。
 それとも、別の誰かが吹いているのかもしれない。誰が吹いているのかはともかく、それならば、カルムが側で聞いている、という可能性はある。
 『別の誰か』が魔物の類などということもあり得るだろう。もし、魔物がカルムから笛を奪って吹いているならば――。
 どうも、後ろ向きな想像ばかりが膨らんでいく。
 とにかく、この笛の音の出所を確かめなくては――グレシェは覚悟を決めて、歩き出した。


 笛の音に導かれて川べりに出ると、ぼんやりと誰かのシルエットが見えた。星明かりの中で目を凝らせば、それは紛れもなく探していた背中だった。
 カルムは河原の大きな岩に腰掛け、一心に笛を吹いていた。
 あるときは寂しげに、次は急ぎ足で軽快に、次はさらに速いテンポで情熱的にと曲は移り変わるけれど、カルムはひとつも音を間違えることなく奏でてゆく。
 ――なんてきれいな音。でも、なんて――哀しそうな音なの。
 グレシェは、自分の心の澱が音に溶けて、夜の中へと流れ出していくような感覚にとらわれた。聞いていると、気持ちが楽になっていく。はじめは『筋肉の塊のくせにずいぶん繊細な音ね』などと言ってやろうかと考えていたのだが、そんな気もすっかり失せて、ただ聞き入っていた。
 しばらくして笛の音が途切れると、カルムはグレシェのいる方に声を投げてきた。
「グレシェ、だな」
「探しに来てあげたのよ。寝床にいなかったから。……また、この前みたいなことになってるかも、って」

 答えながら、グレシェは思い出していた。
 エイルの懸命な治療で命を取り留めたカルムの顔色は、まるで紙のように白かった。本当に生きているのかと疑いたくなるほどの出血で、呼吸のたび僅かに上下する腹をこの目で確認するまでは、最悪の事態も想定していたのだ。
 そしてグレシェは、目覚めたカルムに駆け寄った自分に驚く、という希有な体験もした。人を寄せ付けず、敢えて孤独を選んできた自分。それが、仲間の心配をするという、ごく当たり前の行為が出来るようになった――それはとても感慨深いものがあった。

 グレシェの感傷など知るよしもなく、カルムはにやりと笑って言った。
「残念ながらピンピンしてるぜ」
「そのようね」
 カルムは演奏を終え、笛を磨いているところだった。セアやエイルが手入れのため武器を磨き上げるのはよく見るが、拳で戦うカルムが隅々まで何かを磨く、というのは珍しい。無骨な手に似合わず、細かいところまで丁寧に仕事をしているようだ。
 作業の邪魔かとためらったものの、グレシェはカルムに話しかけた。
「笛、上手いじゃない」
「そいつはどうも」
「習ってたの?」
「ねぇよ。自己流だ」
「そう? ……それにしては上手すぎるけど」
「練習する時間だけはたくさんあったんだよ」
 カルムは目を伏せて呟いた。彼には珍しく澱んだ口調に、グレシェは何か引っかかるものを感じ、首を傾げる。
「昔から練習してたの? 夜中に、こんな風にひとりで」
 返事はなかったが、彼の作業の手が止まったことで図星と知れた。
 ――触れてはいけないこと――だったのだろうか。
 誰にでも、禁忌ということはあるものだ。グレシェだって、少なからず秘密を持っているから、わかる。
「聞いちゃいけなかったみたいね」
「んなこたぁねぇよ」
 カルムと目が合う。いつもの軽薄な笑いでもなく、射竦めるような鋭さもなく、やけに真剣で、寂しげな瞳だった。この表情は以前のカルムにはなかった、とグレシェは気づく。ごく最近、はっきり言えばあの大怪我を境に、たまに現れるようになった顔だ。
「昔は、独りが好きだった――違うな。人が嫌いで、独りを選んでた。こんな夜に、よく吹いてたもんだ。その繰り返しのうちに、いつの間にか上達してた。それだけだ」
 彼が独りを選んでいた、その理由は何なのだろう――考えて、グレシェは目を見開き、すぐに俯いた。

 カルムが大怪我をした際、グレシェは自分のマントを彼にかけてやった。間近で見たカルムの身体に残っていた、無数の傷跡。グレシェは今の今まで、あれはカルムが魔物に無謀な戦いを仕掛けた名残だと思っていたのだが。
 もし、あれが人間によるものだとしたら。人が嫌いになった原因なのだとしたら。

 気軽には言えない過去、そして独りの夜の積み重ねが詰まった、もの哀しい音色。
 そう気付いてしまったら何も言えなくなり、グレシェはただ呟いた。
「ふうん」
「聞いたのはそっちだろうがよ。なんだ、その反応は」
「……確かに、って納得しただけよ。悪い?」
 期せずしてカルムの意外な一面を手に入れてしまったわけだが、それがいいことだったのか、知らない方が良かったのか、グレシェにはわからなかった。ただ、グレシェの中で、この荒くれ者の見方が少しだけ変わったことは確かだ。
「少し寂しそうな、切ないような音で、すごく綺麗だったじゃない? カルムにもそんなデリケートなところ、あるんだと思って」
「そっくりお前に返すぜ、その言葉」
「え?」
「お前も、独りを選んでた類だろう。……そんな細腕で、いつまで背負ってるつもりだ?」
 尋ねておきながら、しかしカルムはそれ以上は何も言わなかった。
 彼は、最後に笛を柔らかい布で包み、そっと懐にしまった。服の上から笛が納まったのを確認すると、「戻ろうぜ」とグレシェを促した。
 

 カルムは最後に、グレシェが心の荷を降ろすチャンスをくれていたのだ――大きな背中を追って闇夜を漕ぎながら、グレシェは今さらになって気付く。
 いや、カルムの気遣いはありがたかったが、言えない。
 気持ちの準備もまだできていない。
 みんなとの心の距離も、まだ少し遠い――私自身が遠ざけているだけかも、しれないけれど。
 ――本当のことを告げる。ただそれだけのことが、こんなに恐いものだとは。
 それでも。
 それでも、いまは虚しく響く自分の心の音も、いつか誰かに聞いて欲しい。グレシェは、そう願わずにはいられなかった。

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