覚醒

 踏み出す足を焼く熱砂、無遠慮に降り注ぐ太陽の光、加えて地面からの照り返し。いつもと同様に行程を計算してはいけなかったのだ、とレグルスは自分の浅慮を悔いたが、もう遅い。目指すオアシスはすぐそこだというのに、四人は疲弊しきっていた。
 そこに、化け蟹の襲撃だ。
 リゲルはもうずいぶん前から熱に当てられてふらつきながら歩いていたし、スバルも蟹の甲羅で拳を痛めて満足に戦えない。戦力とは言い難いが、あとの一人、ミラは蟹のハサミに足を切られて倒れている。
 余力があるのは、どうやら自分だけ。彼らの命を預かっているのだと自身を叱咤して、レグルスはほとんど気力のみで敵に斬りかかろうと身体を引く。
 と、そこに鋭い声が飛んできた。
「レグ、伏せて!」
 レグルスは、あり得ない声に振り返らずにはいられなかった。
 そこにいたのはミラだった。遊び人の彼女がトレードマークのウサギの耳を捨て、傷ついた仲間たちを庇うように立ちはだかっている。自らの足も血に染まり、立つのがやっとだというのに。
 ミラは傷ついた足で一歩、また一歩とレグルスに近づき、やがて並ぶ。
「そいつには拳や剣は通じにくいの。あたしが、やる」
「危ないよ。君は下がってて」
「私が何とかするから。みんなを守るから!」
「何を言ってるんですか、ミラ。無理はいけませんよ」
「やめな。あんたまで怪我するよ!」
「嫌。ずっと考えてた。守ってもらうだけは、もう嫌よ! もう誰も、あたしの前で魔物なんかに殺させない!」
 リゲル、そしてスバルのその言葉を聞いてなお、ミラは敵と仲間との間に陣取っていた。じわじわと迫り来る化け蟹に向かい、傷ついた足を踏ん張って両の手のひらを構える。その瞳は鋭利な刃物のように冷たく的を捉えていた。いつもいい加減に振る舞うミラの端々に、魔物に対する異常なまでの怒りが浮かぶのにはレグルスも気付いていた。加えて、仲間を痛めつけられたことがミラを別の人間のようにさせているのだろう。
「レグなら分かるでしょ? あたしのこと、信じてくれる?」
 これは、あの日――旅立ちの前日に、林の中でとてつもない火球を放ったミラが見せた表情だと、レグルスだけは知っていた。彼女の魔法が再び見られる時がやってきたのだ。
「分かった、任せる。僕は後ろで」
 レグルスは言われたとおりに下がり、ミラの背中を守る。不思議と、精神力だけで支えられていた身体に力がみなぎってくるようだった。頬が熱い。
 その短い間にも、ミラの手を中心に、キンと冷えた空気がみるみるうちに凝縮していく。いつでも加勢できるようしっかりと彼女の様子を見据えていたレグルスの背に、ぞくりと寒気が走った。
「集まれ、そして砕け、氷雪の槍――」
 彼女は魔法使いが戦うときに見せる詠唱を小声で呟く。
「ヒャド!」
 次の瞬間、ミラの手元がまばゆい光を放った。渾身の力を込めた氷撃の威力は凄まじかった。敵の固い装甲は一瞬にして凍り付き、さらに加えられた第二撃で粉々に砕け散る。呆気にとられてミラを見つめる二人とレグルスに、彼女は「良かった、無事で」と言い残すと気を失い、その場に崩れ落ちた。


「あたしの故郷はテドンっていう小さな村だった」
 オアシスの宿屋のベッドの上で目覚めたミラは、ぽつりぽつりと自身の過去を話し出した。
「村のみんなが本当の家族みたいに仲が良くて、毎日幸せに過ごしてた。でもある日、魔物に襲われて全滅したわ。あたしだけが、父が死に際にとっさに掛けたルーラで村の外に飛ばされた。わけもわからずに歩き回って、たどり着いたのはアッサラーム。……そこで、村がひとつ消されたという噂を聞いたの。ああ、あれは悪夢じゃなくて現実だったんだなってわかったわ」
 テドンという村の名は、朧気ながらレグルスの記憶にあった。確かアリアハン城で剣の稽古をつけてもらっているとき、『テドン壊滅』を知らせる早馬が着いたのだ。それは、この大地のどこかで見知らぬ人たちが魔物たちに苦しめられていることを初めて自覚した瞬間だった。
 彼女の話はなおも続いている。追想に飲み込まれそうになったレグルスは、慌てて頭を軽く振るとミラを見つめた。
「幸いにも劇場のオーナーに拾われて、踊り子としてなんとか食べていけるようになったわ。それからは、何かと理由を付けて遊び人の暮らしに甘えてた――いえ、甘えようとしてた。でも、村を忘れることなんてあたしには許されないんだと悟ったわ。目を閉じるたびに、幸せだったころと最期の瞬間とが、交互に浮かぶのよ。……アッサラームの街は眩しくて素敵だったけど、誰とも知らない人たちに笑顔振りまいても虚ろだった。だらしない生活に溺れて楽しく過ごそうといくら頑張ってみても、ダメだったわ。そこからどうにか抜け出そうとして、思い切ってアリアハンに出掛けた旅の途中、レグルスに会った」
 いつも明るくて陽気な彼女の頬に、初めて見る涙が伝っている。ミラの悲しみの表情に、レグルスの胸はひどく痛んだ。
『あたしは、勇者になりたいけどな。……世界を救ってみたいの。化け物をバタバタ倒して、世の中を平和にしたいのよね』
 初めて会ったとき、ミラはそう言った。あの時、魔物を焼き尽くした彼女の表情をレグルスは今でも鮮明に思い出せる。あの怒りの顔の裏側には、村の仇という思いがあったのだ。思わず声をかける。
「ミラ、無理して話さなくてもいいんだよ」
「ありがと、レグ。でも、あたし、みんなに言わなきゃいけないことがあるの」
 そうは言いつつもしばしためらっていたミラは、沈黙の後にゆっくり口を開いた。「パーティから、抜けたいのよ」
「あたしね、本当は『勇者』に村の仇を取ってもらおうと思って近づいたの。だからレグに初めて会ったとき、これは運命だ、って思ったわ。自分だけじゃ何ともならなくて、みんなを利用しようとした。汚いでしょう?  ……でも、レグやリゲルやスバルに何度も助けられて、いつの間にかあたしはみんなのことが大好きになって、もうこれ以上騙して一緒にいたくはないって思った。旅するようになってから毎日大変だったけど、あたしをあたしだと認めてくれる人たちがいることがすごく嬉しかった。でも、みんなの役に立てる力なんてないし、足手まといになるのは耐えられないわ。あたしが抜ければ、もっとみんなの力になってくれる人が来てくれると思う。だから、ここでみんなと別れるのがいちばんいいんじゃないかって」
 一気に言い終えて、ミラはベッドサイドの水差しからコップに水を注ぎ、口に含んだ。
 近ごろ彼女が何ごとかを悩んでいる様子だったのは明らかだったから、聞いていた三人にとってはまったく予想外という話ではなかった。
 今日に至るまで彼女は自分の過去をひたすら隠していて、魔力の凄まじさを知っていたのはレグルスだけだった。そのため、旅の始めの頃は、スバルもリゲルも本気ではないにしろ口々に『クビにしろ』と言っていたほどだ。自分以外のメンバーにとっては願ってもない話かもしれないと、レグルスは眉をひそめる。
 彼女の喉が潤ったのを見計らったのか、それまで黙って聞いていたリゲルが、おもむろに切り出した。
「さっきはありがとうございました、ミラ――さん。おかげで助かりましたよ。しかし、正直言って今まであなたにはさんざん迷惑をかけられてきました。私たちの足を引っ張って、旅を遅らせて。その自覚はあったようですね?」
「ええ。……本当に、ごめんなさい」
 萎れたように俯いたミラをさすがに気の毒だと思ったのか、スバルが「言い過ぎだ」とリゲルをたしなめた。目をつり上げたスバルをちらりと見やると、リゲルはなおも続ける。
「心からそう思うならば、恩返しは旅の中ですべきだと、私は思いますが」
「旅を、続けろってこと?」
 予想外の言葉に、ミラは面食らったように顔を上げた。涙目を丸くして、そう言ったきり固まってしまう。
「誰か、もう一緒に来るなと言いましたか?」
「私は言っていないが」
「僕も言ってない」
 リゲルがわざとらしく辺りを見回すのに、レグルスとスバルは笑顔で応える。レグルスの危惧は嬉しいことに思い過ごしだったようで、意見は満場一致らしい。しかし、ミラはまだ不安げに「いいの?」と聞き返す。
「みんなと比べたらずいぶん出遅れちゃってるのよ。迷惑、じゃない?」
「これから頑張ってもらうしかないでしょう。……提案ですが、あなたさえ良ければ、私と賢者になるための修行をしませんか」
「あたしが? そんなの、無理よ」
「素質はある。私が言うんですから間違いはありません」
 リゲルはそう言ってメガネをずり上げた。
「先ほどの闘いぶりで分かりますよ。魔法使いを目指していたのではないですか? あんなに強力なヒャドは、なかなか見ないですからね」
 珍しく皮肉を控えめにしているリゲルが面白いのか、スバルがふっと微笑んだ。二人を見ているレグルスにとってはスバルの笑顔もまた貴重なのだが、それは言わないでおいたほうが身のためだろう。
 スバルは包帯が巻かれたミラの両足をちらりと見ると、彼女の肩を傷に響かぬよう軽く叩いた。実際はスバルのほうが年下のはずだが、まるで姉のように背中を撫でてやりながら優しく励ます。
「あんた、強いし、いい女じゃないか。それだけボロボロの身体を投げ出して、私たちを守ってくれた。……それに、ミラがここまでの旅の間ただ遊んでただけじゃないって、みんな知ってんだよ。宿屋を抜け出してたの、夜遊びじゃなくて腕を磨きに行っていたんだろう? こうなりゃとことん付き合うよ」
「こんなあたしでも、何かができる?」
「一緒に旅ができるよ」
 レグルスは中腰でミラに視線を合わせると柔らかく笑ってみせた。やや明るくなった彼女の顔に、出会った日のことを思い出して意地悪く目を細める。
「そもそも、僕に『魔王の城まで付いて行く』って言ったのは、ミラの方だからね。撤回しても遅いし、無効だよ。……今さら抜けさせないよ」
「……うん」
「じゃあ決まり。次の目的地は、ダーマだ。いいよね、みんな」
 同意を求めるまでもなく、リゲルとスバルは言い終わる前から頷いていた。コップに残っていた水を一気に飲むと、ミラも大きく一つ息をついて首を縦に振る。
「できる限り、みんなと頑張ってみる。改めて、よろしくお願いします」
 やがて、いつものように天真爛漫な笑みを取り戻して、彼女はぺこりと頭を下げた。やっと本当のミラと旅ができるのだと、レグルスはただ純粋に嬉しく思った。同時に、彼女の背中を守ったときのあの感覚が蘇ってくる。
 ――それは、旅の終わりまで秘めておこうか。
 みんなと笑い合う彼女を見つめながら、レグルスもいつの間にかその輪に溶け込んでいた。

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