日出ずる国

「見て、リゲル! 島があるみたいなの!」
 遙か向こうに、緑の陸地が見えてきた。大声で話さないと、波と風の音でかき消されてしまう。舳先(へさき)近くに立っていたミラは、船の進行方向を指さしたまま振り返って声を張り上げた。大小いくつかの島が連なる様子は今までに見たことのない景色。手元の地図とコンパスとを見比べ、波しぶきを浴びながら、リゲルも彼には珍しく叫んでいた。
「あれはどうやら、ジパングのようです! 黄金の国とも言われる島国ですよ!」
 ミラは揺れる船上を慣れた足取りで進み、リゲルの隣へやって来ると地図を覗き込む。地図のほぼ中央に、四つの島が南北方向に長く並んでいるのがジパングだ。
「噂には聞いたことがあるわ。スバルのふるさとね。……ね、勇者と一緒に凱旋となれば、スバルも鼻が高いかしら?」
「四人で列を組んで、手でも振りながら歩くつもりですか? あの人がそのように華やかな帰還を望むと思います?」
 いつも通りの皮肉っぽい口調で呆れたように言うリゲルに、自分で振った話題ながらも、ミラは「あり得ないわよね」と吹きだした。それでも、冗談が出るところを見るとリゲルの機嫌も上々なのだろう。
 質実剛健が座右の銘、派手さとは無縁の、まるで修行僧のような女武闘家。それがスバルだ。パレードしながら帰ろうとでも言ったものなら、冷たく睨まれて無視されるか、みぞおちに軽く一撃食らうのが関の山だろう。
 中で休んでいたレグルスとスバルも、声に気付いたのか甲板へと出てくる。
 魔物たちは海の上だってお構いなしに襲いかかってくるのだが、レグルスは鎧を外したまま緊張感のない伸びをしながら現れた。恐らく寝ていたのだろう。一方のスバルは、拳にナックルをしっかりと装備している。これではどちらが勇者なのか分からない。
 リゲルが、後から現れた二人にジパングが見えたと告げる。レグルスは「ほんとに?」とぱっと顔を輝かせ、まるで子供のような表情でリゲルの手から地図をかすめ取ると、新たに見えた島々と見比べた。
「東の神秘、異国情緒溢れる国、ジパング。噂には聞いたことがあるよ。そういえばスバル、確かジパング出身だったよね? いったいどんなところか、教えてくれる?」
「小さいが、歴史があって静かな、美しい国だ。ただ、今もそうであるかは分からない」
 頷いたスバルは、良く響く声でいつものように言う。しかしその言葉はすぐに止まり、スバルは曇った表情のまま固まった。
「『今もそうであるか』?」
「って、どういうこと?」
 珍しく歯切れの悪いスバルに、誰もが首を傾げる。ミラがレグルスの後を受けて尋ねた。
「……国長(くにおさ)であるヒミコは、私の親友だったんだ。しかし、ヒミコが長となってから、ジパングは変わった」
 スバルは、「いや、彼女が変わってしまったんだ」と呻くように呟いた。その憂い顔からは、パーティーの姉貴分であり、母であると言ってもいいほどの存在感はすでに消え失せていた。

 長となりしばらく経つと、ヒミコはスバルを疎んじ、寄せ付けなくなった。若い娘を次々と館へと召し上げるようになったが、娘たちは誰一人としてヒミコのもとから戻っては来なかった。少女たちがいなくなった街の空気は暗く淀むようになり、国内では、彼女らはヒミコの行う神事のために生け贄にされたのだという噂が流れた。
「噂を口にする人たちを、そんな馬鹿なことがあるわけがないといちいち怒鳴っていたんだが、全くらちがあかなかった。結局、本人に確かめようとヒミコに会いに館へ忍び込んだ私は、まるで別人のようになってしまったあの子に会った。……まるで、氷のような目をしていたよ。一睨みされただけで、冷たい舌で背中を撫でられたような、本当に嫌な感覚に負けて――私は、逃げ帰った」
 スバルの拳は、もう一方の手で、白くなるまできつく握られていた。下唇も、同様に、色を無くすほどに噛みしめられている。彼女は辛そうに俯いたまま、それでも話を続けた。
「ヒミコはいい子だった。高貴な身分であっても、私にも、誰にでも分け隔てなく優しくて、どんなときもにこにこと笑っていた。あの子が自分のために生け贄を――人の命を奪うなんて、そんなことあり得ない」
「でも、現に被害者が出ているのでしょう」
 いつもは勝ち気なスバルの弱々しい様子にレグルスとミラはあっけにとられていたが、リゲルだけは冷静に事実を口にする。スバルには残酷なことかもしれないが、リゲルの情報分析はまず間違っていたことがない。ただ、さすがにいつもの皮肉っぽい口調はいくぶん陰を潜めてはいたが。
「信じられない。信じたくないだけかもしれないけど、あの子はそんな子じゃない……」
「スバルがそう言うなら、僕は信じるよ。だから、それを確かめるためにも僕たちはヒミコに会いに行かなきゃいけないね」
「ジパングに行くのは、あなたの心の整理が付いたらでいいから。それまで待ってる。ね、大丈夫よ」
 やがてレグルスが、今にも泣き出しそうなスバルをなだめるように優しく諭した。ミラも、そっと彼女を抱きしめると軽く背中を撫でて励ます。憔悴した表情のまま、スバルはされるがままに身体を預け、「ありがとう」と呟いた。
 二人が甲板から去ると、一人残っていたリゲルが口を開いた。
「らしくありませんね」
「今は喧嘩する気力もない。……私は逃げたんだ。呆れるなら、呆れるといい。だから、少し放っておいてくれないか」
「喧嘩をしたいわけではありません!」
 眼鏡をずり上げ、リゲルはスバルの顔を盗み見た。なぜか、とても申し訳なさそうに。
「そんなに強い人ではないと分かって、かえって安心したくらいです。……あなたに勢いがないと、こっちも困るんです。調子が狂う。だから、その――しっかりしてくださいよ」
 頬を上気させ、やたら早口で言うだけ言って、リゲルもそそくさと去って行った。

 その後ろ姿を、一人残されたスバルはただ目を丸くして見送る。
「困る? 調子を狂わされる? あの、完璧人間が?」
 鬼の霍乱、とはこのことだろうか。
 リゲルが人にペースを乱されるなんてことが果たしてあり得るのか、スバルには想像がつかなかった。しかし、現に今の彼は何だか様子がおかしかったように思う。
「もしかして、励ましてくれたのか」
 だとしたら不器用すぎるが、悪い気はしなかった。それに、なぜだかやけに温かい。いつの間にか笑みが浮かびつつあることに、そのときのスバルは気付いてはいなかった。

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