鏡の真実

「……なんて、みにくい、ばけものなの」
 鏡に映る怪物の弛緩しきった寝顔を見ながら、グレシェが小さく呟いた。
 カルムがはっとして彼女の顔を覗き込むと、呟きは慟哭に変わるところだった。涙の中で、グレシェは声を震わせて叫んだ。
「こんな化け物に、私たちの国は――みんなも、私の家族も、私も! どうして虐げられなければならなかったの! ……どうして、お父さんはこいつなんかに殺さ――」
 あとは絶叫に変わっていた。
 深紅の髪を振り乱して泣き叫びながら、グレシェは彼女が唱えうる最高の攻撃呪文を発した。
 仰天して飛び起き、腹の底にまで響くような雄叫びをあげるボストロール――偽王に向けて、グレシェは何度も何度も繰り返し大火球を放つ。すでに偽王が横たわっていた大きなベッドは燃えがらと化して、原形をとどめぬほどに焼けこげていた。豪奢な作りの寝室に、嫌な匂いが漂い出す。
 しかし、彼女の怒りは留まるところを知らない。やがて魔力を使い果たし、ふらついて片膝をついたグレシェの顔は血の気が引き、青ざめていた。それでも、よろめく体を魔法の杖で支え、彼女は立ち上がる。
「まだ。まだ。……いくら燃やしても、足りない。足りない」
 呪いの言葉を吐くように呻き続けるグレシェを、カルムはイライラしながら見守っていた。なぜこうも心が波立つのか。耐えかねたカルムはグレシェの背後に回り、両脇に手を入れて後衛――いつもの彼女の定位置――にまで引き下げる。
「もう、やめとけ」
「私はまだやれる! ほっといてよ! 放しなさいよ!」
 抵抗する体力を残していなかったグレシェは部屋の隅にずるずると引きずられていったが、なおも口だけは達者に動くようだった。羽交い締めにした身体は冷え切っていて、体温を調節する余裕すらないのだと分かる。間近で見ると手のひらは火傷を負い、赤く変色していた。グレシェは、通常の戦闘でこんな怪我をしたことがないのだが――。
「もったいねえだろうが、馬鹿」
 カルムは懐から傷に効く薬草を出して、彼女の手のひらに押しつける。グレシェは一瞬痛そうに顔をしかめたが、やがて手渡されたそれを握りしめると、膝からがくりと崩れ落ちた。カルムの腕にかかる彼女の重みがぐっと増すが、それでもなお軽い。
「いったい何がもったいないって言うのよ。私が馬鹿ならカルムも馬鹿だわ」
「……本当に口の減らない女だな」
「うるさいわね筋肉馬鹿。性格が悪いのは残念ながら生まれつきなの。……ほっといてよ」
 きつい言葉とは裏腹に、熱い雫が無骨なカルムの腕を濡らしていく。これまでの旅の間、決して涙など――他人に弱みなど見せなかったグレシェが、人目も憚らずに泣きじゃくっていた。
 おそらく、すぐに強がりや虚勢に頼るのは生来のものではなくて、荒れたサマンオサから出奔し、一人で生き抜いてきた過程で作り上げられてきたものだろう。今こうしてそれが瓦解しようとしているというのに、本人だけがそれを分かっていない。
 まだしゃくりあげるグレシェをそっと床へと下ろす。
 彼女の顔は、焦げた調度品や絨毯から舞い上がるすすで黒ずんで見えた。普段グレシェが装着しているはずのグローブは、わずかに手首の辺りに布が燃え残っているのみだ。以前、カルムが白くてきれいだと思った指は、自らの魔法で作った火傷で痛々しくただれている。
 ――こんなに汚れてしまっては、もったいない。
 確かにお前は馬鹿だよ。思わず手を差し伸べたくなるような馬鹿だ。そして俺も救いようのない馬鹿らしい。
「焦げた手を何とかしろ。……これが終わったら、馬鹿同士、もう少し仲良くしてくれよ」
「え?」
「待ってな。あの化け物、今すぐボコボコにしてやるからよ」
 カルムは、今しがた口走ったばかりの言葉にやや後悔しながら強引に会話を打ち切ると、それをはぐらかすように残りの薬草を全部グレシェに手渡す。ありがとう、と小さく呟くグレシェの声に、カルムは霧が晴れたような気分で偽王――グレシェを変えてしまった張本人――へと向かっていた。
 あいつが、すべての元凶だ。

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