花暦

六花(りっか)

 ひとけのない昇降口を出たところで、僕は寺内さんに呼び止められた。
「楢山くん、ちょっと待って!」
 ちょうど、下校の生徒達の波があらかた引いた時間帯だった。立ち止まった僕は寒さに身震いする。それもそのはず、外はちらほらと雪が舞っていた。
 寺内さんは慌てた様子で靴を履き替え、小走りで僕の方に向かってきた。なぜか、肩から掛けたスクールバッグの中を探りながら。
「どうかした?」
「この前の、写真」
「写真って――ああ、京都の」
「紅葉の。焼き増しできたから」
 教室で渡してくれても良かったのにと言いかけて口を噤んだ。それがやりづらかったからこそ、この時間、この場所を選んで声を掛けてくれたのだろう。学校はそういう面倒な場所だ。
「はい、これ」
 寺内さんの鞄の中から取り出された写真店の封筒は、受け取ってみると予想外に重い。
 僕が写っているのは、一枚だけのはずだ。不思議に思いながらも、僕は「見ていい?」と尋ねる。
「構わないけど。あんまり綺麗じゃなくてごめんね」
「気にしないよ。……ところで、ずいぶんたくさん入ってない?」
 寺内さんはなぜか視線を下に彷徨わせた。答えづらい質問だっただろうかと反省しつつ、僕はすっかり冷たくなった手で封筒から中身を出す。
 入っていたのは写真サイズのクリアブックをアルバムに仕立てたものだった。どうりで厚みがあるはずだ。こちらは写真店のロゴが入っていない――ということは、寺内さんが自分で買い求めたものだろうか。
 一番最初のページに入っていたのは、例の紅葉の写真。寺内さんの仕草に吹き出した瞬間の僕の顔がうまく切り取られ、それはもう緩みきった表情だ。その後ろには朱く広がる紅葉。カメラの仕様なのか、原色や蛍光色にも近い鮮やかな彩りだった。
「僕、なんかだらしない顔してるなあ。せっかくの紅葉が台無しだ」
「そうかな。私はいい絵が撮れて嬉しいよ」
「わざわざこんな立派なのに入れてくれて。ありがとう」
「あと、そのほかの写真はね。迷惑かなと思ったんだけど、一応、自信作を――入れて」
 何だか聞き取りにくいと思ったら寺内さんはまだ俯いたままだった。自信作とは何ぞや、と首を傾げながらもクリアブックをめくっていく。
 石畳の露地。
 人力車の後ろ姿。
 日本庭園。
 水面の落ち葉。
 それは観光ガイドにあるような景色ではなくて、言ってしまえばなんでもない風景の数々だったが、僕の中に鮮烈な印象を残していく。寺内さんの視点で見るそれらは、なんだかとても暖かい風をまとっているように思えた。
 じっくり写真を眺めていた――いや、見とれていたら、寺内さんが不意にクリアブックに手を伸ばしてきた。奪い取られまいと、僕の手にも力がこもる。
「やっぱり返して」
「え、なんで?」
「ちょっと後悔してる」
 寺内さんは真っ赤な頬でそう言った。下を向いていたのはそういう理由からか、とようやく気付く。そんなに恥ずかしい思いまでしてなお、僕に写真を見せてくれる気になったのはなぜなのか。
 分からない。分からないが、返したくないと強く思う。正直な気持ちを少しオブラートに包んで、僕は言った。
「いい写真ばかりだと思うから、ぜひ貰っておきたい」
 力が入っていた寺内さんの肩が、ほっとしたように下がった。
 立ち話を続ける僕たちを虐めるかのように、雪はますます勢いを増してきた。僕の肩に乗った結晶は、よく見ると六枚の羽を持っていた。いわゆる『むつのはな』、六花だ。
 ――雪の花じゃ、僕の出る幕はないな。
 力を使うことを諦め、雪を避ける方法を考える。校内に戻ったら、せっかく気を使ってくれた寺内さんの骨折りが無駄になる。もっとも、僕のためではなく寺内さん自身のためでもあるだろうけれど。
 寺内さんの様子を窺うと、息を吹きかけて、赤くなった指を温めている。その眼鏡のレンズが真っ白く曇った。
「できれば、雪に当たらないところで解説を聞いてみたいかな。寺内さんさえよければ」
「私は――構わないけど」
「じゃあ、焼き増し代がわりに温かいものでもおごるよ」
「いいの?」
 寺内さんが、ぱっと顔を輝かせて頷いた。ちょうど雪の中に花が咲いたように、僕には見えた。

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