虫めづる

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キタキチョウ  Eurema mandarina

 北国の春は遅い。東京で桜が咲く頃、こちらではようやく雪解けの終わりを迎える。いくら暦の上では春だといっても、吹き抜ける風はときに身を震わせるほど冷たい。
 けれど、と俺は隣を見た。
 冷たい風に鼻先と耳を赤くして、彼女がほわりと笑っている。手を繋いでも手袋越しの冬はつまらない。真冬よりも一つ薄手のコートで歩くこんな日は、彼女との距離が自然と近くなるからありがたい。偶然を装って手が触れても、不自然じゃない。
 だから俺は、春が大好きだ。

 生物部の新入部員について話しながら彼女と歩いていると、鮮やかな黄色が俺たちの視界を横切っていった。この季節にあの色のチョウは、目で追うまでもなく分かる。
 彼女はチョウの飛び去った方向に目を凝らしていたが、諦めたのか俺の方へ向き直った。
「黄色かったね」
「あれは、キタキチョウ」
「今の一瞬だけで、分かるの?」
 彼女が目を丸くして尋ねてくる。俺は、鉛色の空を背景に、『北黄蝶』と書いて見せた。
「北の、黄色い、蝶」
「そう、キタ・キ・チョウ。こんなに早い時期から出てくる黄色い蝶は、他にいないからな」
「ちょうちょって、もういるんだね。まだこんなに寒いのに」
「あれはチョウの姿のままで越冬してたやつだから」
「えっとう、って冬越し?」
「そう」
「うーん」
 何か気になることでもできたのだろう、彼女が思いきり首をかしげた。
「どうした?」
「……ちょうちょって、どうやって冬越しするの?」
 いつものやつだ。俺はそう思い、「ではお答えしましょう」とおどけて言った。
 彼女は俺が話す虫のいろいろを嫌がらず、逆に疑問をどんどん言葉にしてくれる。そのたびに俺は自分の脳内の引き出しから取り出したものをできるだけ噛み砕いて、彼女に分け与える。誰かに教えるためには、自分の知識がちゃんとしていないと難しい。正確な情報を正確に伝える、すると彼女は俺が考えつきもしなかった答えをくれることがある。だから、彼女とのこういったやりとりは面白い。
 そして、今日のテーマはどうやら、キタキチョウの越冬について。
 キタキチョウは成虫、いわゆる蝶の姿で冬を過ごす。冬を越えることは、虫たちにとっては文字通り生死をかけた闘いだ。無事に春を迎えても、いのちに残された時間はそう長くない。綻び始めたばかりの花を求めて駆けずり回り、わずかばかりの日だまりで暖を取る。体温が一定以上になれば、オスはメスを探しに、メスは卵を産むために飛び立つのだ。
 それでも、春、おとなの体でスタートを切れることは、彼ら彼女らにとってリターンが大きいのだろう。運良く生き延びたら、春一番に本懐を遂げる――つまり子孫を残すことができるのだから。
 昆虫たちはいつも恋にまっすぐだ。未だに彼女の名前すらまともに呼べない俺とは、違って。
 いや、俺のことなんかあとでいい。落ち込んでいる場合ではなくて、今は彼女に応えなければ。内へ内へと潜りそうになる思考を無理やり浮揚させようとしながら、俺は言った。
「知りたいのは場所? 体勢?」
「どっちもかな」
「葉っぱの裏とか草むらで、じっとしてるんだ」
「だって、この辺だと冬は氷点下二桁だし、今年なんか雪もいっぱい積もったよね? それでも生きてるの?」
「選んだ場所が悪いと死ぬだろうな。冬越し後はきっとすごく数が減ってると思う」
 彼女は自分が死にそうな顔をして、眉を寄せた。
「やっぱり、そうだよね」
 彼女はしばらく渋い顔をしていたが、やがてゆるりと眉間の皺をほどく。もとの表情に戻ると、今度は唐突に感嘆の声を上げた。
「いつも思うんだけど、よく知ってるよね」
 その邪気の無い顔を見れば、胸の奥のほうがじんわりと熱を持って、何かが融け出すような感覚を覚える。口元はへらりと緩んでしまい、どうしても元に戻ってくれない。要するに、嬉しい。
「すごいねえ」
 追い打ちのようにそう言って目を輝かせるから、俺はついに彼女から目を逸らしてしまった。

 物心ついたころから昆虫が好きだった。愛読書はカラー写真がたくさん載った大判の図鑑で、暇さえあれば虫取り網を持って外を駆け回っていた。小さいころは、物知りだとか虫博士だとかなんとか、持ち上げられてきたものだった。
 同級生からのその言葉が、からかいの意味を帯びてきたのはいつごろからだったろうか。
 虫好きな俺はどうやら『変わり者』らしく、皆の中から徐々に浮いていった。いくら鈍感な俺でも、自分が『いじられる側』だということは程なく感づいて、学校は息苦しいだけの場所に変わった。高校に入ってからは教室にいる時間ができるだけ少なくなるよう、放課後は逃げるように部活に向かうようになった。
 他人と関わるのを避け続けていたある日、真っ向から俺を認めてくれたのが、彼女だった。
『私はあなたのこと、ちゃんと見るよ』
 ――虫のことを懸命に話すあなたは、とても一途。それは自分にはないものだから、羨ましい。
 彼女はそう言って、心を凍らせて冬眠していた俺を、春へと連れ出してくれたのだ。
 あの日から自分自身を誇ろうと努力はしているものの、長年のネガティブ思考が染みついた身にはなかなか難しい。なにせ、褒められ慣れていないのだ。しかも生まれて初めてできた大切な人からの言葉など、なおさら慣れない。
 でも俺だって本当は、堂々と彼女の言葉を受け止めて、気のきいた返事ができるようになりたいのだ。

 不意に、冷たい風がものすごい勢いで通り過ぎていった。
 枯れ葉と砂埃が巻き上げられ、目の前が霞む。マフラーから溢れる彼女の黒髪が風に遊ばれて、ぶわ、と揺れるのが見えた。その拍子に、マフラーに隠れていた細い首が視界に飛び込んでくる。冬の名残のくすんだ色彩の中、その白さは鮮やかに俺の目に焼き付いた。
「ああもう、髪が」
 乱れた髪の毛を整えながら、彼女がぼやいた。その項が再び帳に包まれ、俺はそこばかりを凝視していたことに気付き、慌てて地面を睨み付ける。
「だ、大丈夫。だいたい元通りだ」
「そう? なら、いいんだけど」
 彼女は、マフラーを口元まで引っ張り上げながら呟いた。
「北黄蝶は、冬の間、何を思って眠ってるのかなあ」
 ――虫が何かを思うなんて、眠りながら夢を見るなんて、あるはずないじゃないか。
 以前の俺なら、そう言っただろう。虫の夢なんて、生物学的になんの裏付けもない。
 けれど俺はもう、春には彼女との距離が近くなることを知ってしまった。だから、彼女を喜ばせる言葉をちゃんと選びたい。
 冬に凍えるキタキチョウが夢見るもの。それは、少し前までの俺が手に入れたかったものだ。冷え切った心が、本当は求めてやまなかったもの。彼女のように柔らかくあたたかな、それは、
「うららかな春の日差し、かな?」
「私も、そう言おうとしてたの!」
「そうだな。 ……そんな夢でも見なきゃ、ほんとうに凍り付いちゃうよな」
 俺が頷くと、彼女はぱっと笑顔になった。それはまさに、垂れ込める灰色の雲を割って届く、春の日のように眩しかった。
 よかった、間違えなかったのだと、俺は胸をなで下ろす。いつもの俺のように正確なデータじゃないけれど、おそらくは正しい答えだったのだ――にこにこと笑って俺を見上げる彼女と目が合って、そう思った。自らの心には背いていないから、これはきっと嘘ではない。そんな自分は、決して嫌いじゃない。
 俺は震えが止まらない手をぐっと伸ばすと、彼女の手を握った。偶然を装ってではなくて、初めて、ちゃんと自分の意志で。
 おそるおそる絡めた指に力を込めると、彼女は控えめに握り返してくれる。いつもよりずっと近くで聞こえる、彼女の声。
「あったかいね」
 長い冬が明けて、いま、隣に春はある。
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