虫めづる

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ナミテントウ  Harmonia axyridis

 昼休み後の授業というのは眠いものだ。
 その日はさらに悪いことに、わかりにくいと評判の教師の物理だった。かくいう私にも、授業開始十分もするとかなり強力な睡魔が訪れて、追い払うのにはかなりのパワーを要した。
 自分の問題がなんとか解決すると周りが気になり始め、私はこっそり辺りを見回す。
 私より少し後ろに座る天道などは、頭が勢いよく上下している。長い前髪で表情まではよく分からないが、あれは明らかに寝ている。天道が日中に眠気をもよおす理由というと、色気のない話だが、きっと虫がらみなんだろう。蝶の羽化でも見ていたのか、それとも深夜か早朝に昆虫採集にでも出かけたのか。
 先生が板書を終えて振り向く。ひととおり教室を見渡したその視線が、ある男子生徒のところに戻り、止まった。
 ――あ、やばい。
 心の中でそう叫んではみたものの、すっかり夢の世界へと旅立ってしまっている彼には届くはずもない。
 先生はうろたえる私の前を通過し、爆睡している天道へと当然のごとく歩み寄って行った。彼の机の横で立ち止まると、上下運動を繰り返し続けている天道の頭を軽く叩く。
「――!」
 ギッ、と椅子が床と擦れる音。声にならない声を上げ、天道は文字通り飛び起きた。立ち上がった彼は呆然と物理教師を見上げていたが、自分の置かれている状況に気付くと、消え入りそうな声で「すみません」と詫びた。
「よく眠れたか? ……いろいろ疲れてるのかもしれないが、今度からは気を付けてな」
 先生は思いのほか優しい声でそう言うと、それ以上突っ込むことはせず、天道に背を向けて教卓へと戻る。一件落着、と私が胸を撫で下ろしたところで、その心に氷水を浴びせかけられるような言葉が私に突き刺さった。
「毎晩毎晩虫なんか見てるから眠くなるんだっつーの。気色悪い」
 ある男子が掛けたその声は、表面上はおどけた調子だったが、呆れと、若干の蔑みを含んだものだった。
 彼に同調するかのような笑いは、さざ波からやがて大きなうねりとなり、教室中に広がっていった。先生が諫めても、騒ぎはなかなか収まらない。
 天道が深く深くうつむく。笑っていないのはおそらくただ二人、私と彼だけだった。

 私は放課後すぐに天道を探したが、彼は授業が終わってすぐに教室を出たらしく、捕まえ損ねてしまった。仕方なく、帰宅しようと昇降口を出ると、件の天道は自転車置き場の片隅でじっと立っていた。何かを見つめているのか、微動だにしない。
 そっと彼の背中に近づくと、その視線の先にあるものが私の視界にも入った。
 それは大きな蜘蛛と、その網にかかった天道虫だった。天道虫がもがくと、波紋が広がるように網も揺れ、よけいにその小さな体に絡みつく。そこに、蜘蛛が徐々に近づいていく。ちょうど、今日の教室での一件のようだった。もっとも、餌食になった天道は、抵抗すればするほど波に揉まれると知っていたのか、ただ静かに下を向いていたけれど。
「天道? 部活は?」
「休むよ」
 しばらく、沈黙が続く。蜘蛛の糸がかすかに振動する音に耐えかねて、私は再び彼に声を掛けた。
「やっぱ、気にしてる?」
「……端から見ると、虫オタクなんて、気色悪いよな」
 天道は、こちらを振り向きもせずに淡々とそう言った。
 虫が好きで好きで仕方がない、そんないつもの様子からは想像も付かないほど冷えた自虐の言葉。それは恐ろしいほどの切れ味で私の心をえぐった。そして恐らく、私以上に天道本人の方が痛みを感じているはずだ。
「こないだ秋津さんと話して、俺、ちょっと油断しちゃってたよ。虫好きでもいいのかもしれないって。こんな趣味持ってても、嫌われないでやっていけるかもって、期待してた」
 天道は蜘蛛の巣の一部をそっと壊し、天道虫を自分の手の甲へと移すと、絡まる蜘蛛の糸を丁寧に取り払った。天道虫はまるで礼を言うかのように、天道の手の上をちょこちょこと歩き回った後、彼の人差し指の先から飛び立っていった。
「ナミテントウの羽の模様は、一種類じゃないんだ。紋のない奴、二紋、四紋、十九紋、それに斑。いろんな色のがいるけど、みんな同じナミテントウ」
 彼はいまだに私に背を向けたままだ。小さな影が飛び去った空を見上げ、寂しそうに呟く。
「俺、胸を張れなかったな。……俺だってみんなと同じように――みんなが野球とかサッカーとかバスケとかを一生懸命部活やってるみたいに――楽しく自分の好きなことに打ち込みたいだけなんだけど」
「ごめん、私――」
「気にしないで。あんな状況で俺を庇える人なんて、いなかったと思う。……早く、帰ったほうがいいよ。俺と喋ってると、周りから敬遠されるかもしれない」
 天道は純粋に昆虫が好きなだけで、悪い人じゃない。部活動だって人並み以上に頑張っているんだって、私は知っていたのに。誰かがそばにいて、彼の趣味を――趣味を含めた彼のすべてを、受け入れてあげられたらいいのに。
「……テントウムシにもいろいろいるなら、私がここでこうしててもいいじゃん」
「え?」
「私も天道みたいに、他のみんなと同じ模様は持ってないってことだよ。……何だか気になるんだもん。天道がそうやって自分で自分を傷つけてる限りは、心配で帰れない」
「違うんだ!」
 天道は声を荒らげると、私の方に勢いよく向き直った。弾みで肩にかけていたカバンが地面に落ち、砂埃が上がったが、彼はそんなことには気付いていないようだった。握り締めた拳を震わせて、天道はぽつりぽつりと呟くように言う。
「俺が自分で自分を傷つけてる? 違うよ。俺が傷つけてるのは、俺じゃなくて――」
 眼鏡の奥の眼が、苦しそうに歪んでいた。ゆっくりとまぶたが閉ざされ、やがて深呼吸一つの後、彼は目を開けた。
「言うよ。どうして、俺が胸を張れないのか、本当の理由」
「……理由?」
「……無理にとは言わないけど、もし良かったら、少し聞いて欲しい」
 私が頷くと、天道は弱々しく微笑んだ。下を向いてしまった彼の前髪は相変わらず長く、表情を隠してしまう。
「せめて秋津さんの前だけでもいいから、精一杯頑張って、かっこ悪くない俺を見てもらおうと思ってた。たったそれだけのことができないのは、俺自身に負い目があるから。自分にそんなの見てもらえる資格ないって、自分で知ってるからなんだ」
 負い目がある、資格がない。彼の口からは、ネガティブな言葉ばかりが生み出されていった。
 私は、昆虫のことを熱っぽく語った天道を格好悪いなんて思わなかった。むしろ、好きなものに賭ける情熱を羨ましいとさえ感じた。どうして天道が自分を卑下し続けているのか、さっぱり分からない。
 首を傾げる私を置いてけぼりにして、彼は独白を続ける。
「俺、秋津さんが誰を好きだったかなんて、もうずっと前から知ってたし、近々失恋するだろうってことも分かってた。……ずっと、見てたから」
「え?」
「秋津さんのこと、ずっと好きだったんだ」
 天道は顔を上げた。汗か涙か、彼は目元を制服の袖で拭って、さらに話し続ける。
「それを知っててなお、失恋の弱みにつけ込んで励ましたりなんかして、秋津さんの心に入り込もうとしたんだよ。この前、放課後に声をかけたのも、計算ずくだったんだ。蜘蛛みたいに罠を張って、かかった獲物を自分のものにしようとした。今だってそうだ。こうして腹黒いところを見せてるっていうのに、心の中ではまだ、秋津さんに嫌われたくないって思ってるんだよ。……俺は、そういう奴なんだ」
 がっくりと肩を落とした天道。彼が自分を苛めているわけが、やっと分かった。
 あの日の放課後、『好きなものにはつい一生懸命になってしまう』と彼は言っていた。それならあれは、虫のことだけではなく、暗に私のことも指していたのだろう。残念ながら、あの時の私はそんな含みを感じ取れるほどの余裕は無かったけれど。
 そこまで噛み砕いて、ああ、告白されたんだ、と私はやっと理解した。頬から耳にかけてが、かっと熱を持つ。
 恋愛には駆け引きや打算が付き物だってことくらい、私だって知っている。片思いを実らせるためには、戦わないといけないときだってある。私が失恋した原因の一端は、その一歩を踏み出せずにいたことにもあるのだろうと、今になって思う。
 一方で、いくら彼の思惑通りだったとはいえ、天道に助けられて失恋から立ち直ったことは、事実としてちゃんと私の中にある。だから私には、彼の糸に絡め取られていたとはどうしても思えないのだ。
「あのときは天道の言葉で元気出たし、天道がどう思ってたとしても、私にとっては本当の励ましだったよ。だから、そんなに気に病まないで欲しいんだけどな」
 顔を上げない彼に、私は静かに語りかける。
「それに、虫のことに一生懸命な天道を、私は羨ましいと思ったよ。そんな一途さ、私には無いもん。……私は、天道がそんな風に自分を傷つけて、ボロボロになることの方が嫌。あんまり落ち込まれると、私もどうしていいか分からなくなっちゃうし」
 天道はまだ地面を見つめている。
 私は思い切って、彼の視線の先にしゃがみこんでみた。見上げると、唇を強く噛みしめている天道と目が合った。彼は泣き笑いのような表情で「ありがとう」と言い、ようやく顔を上げた。
「私は、天道をちゃんと見るよ。変なフィルターなんかかけてないから、大丈夫」
「……うん」
 落ちるにまかせていたカバンをよいしょ、と肩に掛け直し、天道は照れ臭そうに頭を掻いた。
「話、聞いてくれてありがとう。時間とらせちゃったな。……俺、やっぱ今日部活に出ることにする」
「あ、待って」
 今にも校内に戻ろうかという彼に、私は慌てて声をかける。重大な問題がまだ解決していない。
「ええと、それで――お友達から、でいいのかな?」
「はい?」
 ピンときていない様子の天道に、仕方がないので恥ずかしながら説明をする。
「ほら、いきなり彼女ってわけにはいかないけど。まずはじめの一歩は、ね?」
 彼の口から、え、ほんとに、と小さい声が漏れた。みるみるうちに顔が明るくなる。妙なガッツポーズのようなものを決めた後、天道は裏返った声で答えた。
「よ――喜んで!」

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