虫めづる
生物部活動日誌
人気のない部室で一人、魚の世話をしていると、ガラガラと引き戸が開けられた。
振り向くと、やたらと長身で白っぽい人影が入ってくるところ。白衣を着ていて背が高い、そんな条件を満たす人物は校内に一人だけ。生物部顧問の若柳先生だ。
「当番は天道か」
「そろそろ終わるところです。鍵は後で返しに行きますから」
「すぐ終わるならここで預かっていくが」
部活の前には、先生が普段住み着いている――もちろん、授業がないとき待機している、という意味だ――生物準備室に鍵を借りに行く。部活が終わってからその日の当番が飼っている生き物たちの世話をし、鍵を返しに行く。
あとは餌の袋や掬い網を定位置に戻すくらいのものだ。準備室は校舎の隅で、用がなければ訪れないような場所だから、先生の申し出はありがたかった。
「じゃあ、そうします。待ってください」
「時間がかかってもいいぞ。特に予定もないからな」
とっつきにくくて恐いと評判の先生だが、慣れれば何ということもない。
先生は作業をしている俺の横まで来ると、手元を覗き込む。地域に生息する淡水魚を集めた小さな水槽。中身は、先生も一緒になって川を浚い、集めたものだった。
「まだ一匹も天に召されていないな」
「水槽の中身、覚えてるんですか」
先生は「だいたい、だ」とさらりと答えた。どうやら、種類と数を確認していたらしい。思わず漏れたため息を、先生は聞き逃さなかった。
「どうした」
「いや、何て言っていいのか。……すごいと思って。世話してる俺ですら覚えてないのに」
「そうか?」
首を捻る先生に、俺は苦笑いする。俺とは違っていろいろなことができそうな先生が、なぜ高校の生物教師になったのか。どうして、どういうきっかけで生き物に関心を持ったのか、純粋に気になった。
「先生は、なんで生物を専攻したんですか」
「生き物が好きだったからかな」
「なんで生き物好きになったんですか」
「恐らく、天道と似たような理由だと思うが。……君は昆虫に興味があるんだったな。私は植物だ」
手が止まった俺のあとを引き継ぐように、先生が片付けを手伝ってくれる。俺も、慌てて再び作業を再開した。
隣で先生がぼそりと呟く。
「花や木が好きといっても、度が過ぎると変人扱いだ。その辺りも、君と似たようなもの――ではないか?」
それだけの言葉で分かったような気がした。先生と俺はそんなに違うわけじゃない。もちろん外見やそのほかはやはり比べようもないのだが、根っこのところは同じのように思える。もしも似たもの同士なら、俺だって先生のようになれるかもしれない――確率としては、ほんの僅かでも。
同時に俺は、自分がこの無愛想な生物教師に憧れを抱いているということにも気付いた。
先生は生き物に関する知識は豊富だし、野外活動の指導も難なくこなすアウトドアスキルも兼ね備えている、生物部顧問にうってつけの人物だ。おまけに、眼鏡を外せばまあまあイケメンという、かなりチートな人間である。俺からすると羨ましい限りなのだが、先生自身は自分のそんな面を理解していないようで、その辺りのズレもまた面白いところではある。
「なんか、安心しました」
「そうか」
「はい。先生も、俺と一緒だったって聞いて」
「……そうか」
先生は微妙にニュアンスを変えて二度同じことを言うと、少しだけ口元を動かした。笑った――のだろうか。
そのうちに下校を促すチャイムが鳴り、俺たちは廊下へ出た。
鍵を渡そうとすると、先生は眼鏡に手を当てて何事か考え込んでいる。呼びかけると、先生は「君は――」と話を切り出した。
「君は、まれに見る『虫好き』だと、私は思う。だからこそ、私を反面教師にするといい。……高校時代に草木ばかり見ていたら人と関わるのを忘れてしまってな。今になって苦労が絶えないんだ」
もとの無表情のままでぼやく先生がおかしい。「わかりました」と大まじめに返事をすると、彼はふっと短く息を吐いた。やはり笑っているように見えた。
今度こそ鍵を返し、俺は先生と別れる。なぜだか無性に彼女に会いたくなって、俺は家路を急いだ。
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