どのくらいそうしていただろうか。
彼は不意にこちらを向くと、私の机までずんずんと歩み寄ってきた。両手をどん、と机に突っ張り、私の顔を覗き込む。天道の眼鏡のレンズには赤く燃える空が映りこんでおり、その下の瞳は、しっかりと私を捉えていた。
「俺、今、アゲハチョウを飼ってるんだ。蝶の中でもナミアゲハが一番好きなんだ」
「……え?」
天道は目を輝かせ、勢いに圧倒されている私になどお構いなくまくしたてた。
「蝶はね、蛹のあと、成虫の姿が綺麗だと思うんだ。成虫ってのは、いわゆる一般的に思い浮かべる『蝶』のことなんだけど。チョウは、蛹の間、一度どろどろに溶ける。そして、生まれ変わるんだ。それを変態っていうんだ。芋虫がさ、蛹の中で部品を全部作り替えて、蝶になって出てくるんだよ。それはもう、ほんとにドラマティックで感動的な変身なんだ!」
いもむし? さなぎ? あげはちょう?
なぜ、蝶の話になるのだろう。私は呆気に取られるあまり、尋ねるのも忘れて彼の話に聞き入ってしまっていた。
天道は私の表情に焦ったのか、やけに身振り手振りを大きくしながらも、さらに話を続ける。
「秋津さんも今は蛹だよ。生まれ変わってもっと羽ばたくための一休みなんだと思うよ。きっと、まだ準備期間なんだ。蝶になれば、いろんなもの、たくさん見られるようになって、いつかは辛いことなんか忘れちゃうよ」
気付かぬうちに、鼻先に天道の顔が迫っていた。
「だから――だからもう泣かないでください」
私の中で、泣かないでという言葉と蝶の話とが、ようやく一つになった。見開いた目から涙が溢れ、私の視界がはクリアになる。
ぶ厚い眼鏡の奥で、天道は眉を八の字に寄せ、自分の方が泣きそうな顔をしていた。
彼は、彼なりの言葉で精一杯励ましてくれていた。生き物マニアの彼が、わざわざ自分が最も好きな虫を引き合いに出して。そう思うと、蝶とか蛹とかの話は正直ほとんど理解できなかったが元気は出た。例えば天道以外の誰かが教室に入ってきたとして、私はこんなに素直に心の内をぶっちゃけられただろうか。
彼のおかげで楽になったのだと改めて感じる。途端に、恥ずかしさと情けなさのあまり、顔に熱が上ってきた。こんなに優しい人に私は何てことをしてしまったのだろうと、身の縮む思いがした。涙を拭い、とりあえず謝る。
「ほんとごめん。酷いこと言って」
「これくらい、何ともないよ。こっちの方こそ、必死すぎて気味悪かったでしょ?」
「ううん。おかげで、ちょっと復活したし」
私の言葉に、天道は力なく首を振った。
「喋り過ぎて悪かったと思ってる。俺、何を言えばいいのか分からなくて、得意分野のことならすらすら喋れるから、それで。好きなものには、つい必死になっちゃってさ。本当は、もっとうまく元気づけてあげられたらよかったんだけど、下手でごめん」
本当にごめん、と、自分の足下を見つめたまま、天道は独り言のように呟き続けていた。私の目には、彼の長い前髪しか映らなくなった。今どき珍しく、真っ黒なストレートだ。
好きなものには、必死に。
少し前までの私は、片思いの彼に目の色を変えていた。恋を失った私は、何に必死になれるのだろう。今の私には天道のように打ち込んでいるものなんてない。急に彼が羨ましくなった。
「ね、天道って、何で虫が好きなの」
「気付いたから――こんなにたくさんの命があるんだってことに。他の人が気にしなくても、俺には気になる。だから、見ていたい。見てると幸せ。それだけ。……大したことない理由だけどね」
よどみなく、彼は答えた。例え理解者が少なくても、天道はぶれない軸を持っている。私を慰めてくれた不器用さとは全く真逆の歯切れの良さ――シンプルな論理は、聞いていて心地よかった。私も、好きなものを好きだと言えたならどんなによかっただろう。
「私も、ちょっと天道を見習おうかな」
「虫、見たいの?」
「気が向いたら、アゲハでも見せてもらうかもしれないけど。……今は、蛹の時期を満喫しようと思うよ」
「そっか。……良かった」
天道はそこでふと時計を見ると、「今度こそ部活に行かなきゃ」と言い残し、慌てて教室を出て行こうとする。うっかり大事な言葉を伝え忘れそうになり、私は彼の背に叫んだ。
「ありがと、天道!」
天道は振り向くと、ふわりと笑った。眼鏡のフレームが西日を跳ね返してきらりと光る。
まるで、日の光の中へ飛び立つ蝶の羽のように。