虫めづる

TOP

蓼(タデ)食う虫も好きずき

 約束は午前十一時。きっと急に何か話したいことでもできたのだ、それなら昼飯を食べながら――と考えていたのだが。
 待ち合わせの場所にやってきた彼女は、俺を見たとたん涙を浮かべた。
「……あ、秋津さん? どうした?」
 俺の問いにも彼女は首を振るばかりでさっぱり状況が掴めない。
 しゃくりあげる声に、通り過ぎる人たちが怪訝な顔で振り返る。思わぬ事態にうろたえていた俺だが、とりあえずは晒し者のようになっている彼女を隠さなくては、と思い至った。
「歩ける?」
 手を引いて、商店街のアーケードの方へと彼女を導く。その間にも、何か泣かせるようなことをしてしまっただろうかと必死に思い出してみる。
 そもそも、彼女が女友達と遊びに行くというので会うのを諦めた週末だった。
 その予定がなくなったから明日会わないか、とメールがあったのは昨日、金曜の遅い時間。文面自体は至極まともなもので、特に変わったようすなどなかった。もちろん、メールは泣きながらでも打てるから、彼女がどんな状態で連絡をくれたのかは分からないが。
 ベンチが等間隔に置かれた歩行者専用道路まで来て、その中の一つに彼女と並んで腰を下ろした。
 秋津さんは俺を見つめ、一言だけ呟いた。
「……よかった」
「なにが?」
「ううん」
 今度はかすかにだが唇の両の端を上げた。その口から、ひっく、と変な音が漏れた。泣きすぎて横隔膜がけいれんすると出る、あの音だ。もう涙は止まっているようではあるが、目の充血は今だけでの話ではなく、おそらくもっと前からのもの。やはり、昨日――金曜の夜からの涙なのか。
「ううん、じゃなくて。……心配してる。俺を見て泣いたのくらいは気づいてるよ。金曜日に、何かあったんだろ?」
「怒らない? ……へこまない?」
「俺がへこむようなことなの」
 わからない、という小さな声。
「じゃ、へこまない。絶対へこまないから、教えてよ」
 何度かの深呼吸の後、彼女はためらいがちに口を開いた。
「……あのね。『最近、よく天道と話してるよね?』って、友達に聞かれたの。だから、実は付き合ってんだって答えて。そしたら――」
 ――そういうことか。
 だいたいの話の流れは見えたから、恐らくこの後にくるであろう台詞も俺には予測がついていた。それは、もう何度も何度も言われ続けている言葉。しかし、俺の大部分を否定する言葉だ。
 来るなら来いと身構えてみたものの、続きはなかなか聞こえない。見ると、彼女は下唇を噛んでいた。友達の言葉をなぞることすらも、相当に辛いらしい。
 もういいよ、と声を掛けようと思った刹那、彼女は絞り出すかのように言葉を吐き出した。
「『あんな気味悪いのを選ぶとか、たで食う虫も何とかだよね』って。……もう、無理。ごめん」
 彼女は、そのまま黙り込んでしまった。こんなに近くにいるのに視線が交わらない。ずっとうつむいたままだ。
 ――蓼(たで)食う虫も好きずき、ときたか。予想の範疇ではあるが、また古風なことわざを持ってきたものだ。しかも、ご丁寧に『虫』とは。
 許しを待つかのように体を強ばらせる彼女の両肩に、そっと手を置いた。思い出したように大きく震えるのは、横隔膜の泣きぐせ。そして、ぶるぶると小刻みに震えているのは、緊張のせいだろうか。
「無理に言わせて悪かった。……ムカつくのは確かだけど、秋津さんに怒ってるわけじゃない。君の言ったことじゃないんだよ? 逆に、ありがとうって思う。隠さず教えてくれて」
 ――違う、こんなことが言いたいんじゃない。
 憤りが俺の胸を塞ぐ。
 顔色の冴えない彼女を前に、うまく思いを伝えられない自分に腹が立つ。
 そして、彼女を泣かせた友人たちにも腹が立つ。
 自分だけが悪評を受けるのなら甘んじて受け入れようと思っていた。陰口を言われることに傷つかないわけではないが、それでも俺はこの趣味をやめることなど考えない。
 彼女と出会い、彼女が認めてくれた『虫が好きな自分』として、胸を張ると決めたのだ。
 しかし、秋津さんまで一緒に痛い思いをする必要はこれっぽっちもない。なぜ彼女が肩身の狭い思いをしなくてはならないのか。
 俺は少しの思案の後、心の動きを悟られぬよう、努めて普通に「ちょっと語るよ」と告げた。
「長くなるよ」
 こくりと、彼女は小さく首を縦に振る。涙で濡れた目が、ぼんやりと俺を捉えていた。いつものように、虫の話をするのだと悟ったのかもしれない。
 俺はいつもよりはやや芝居がかった口調を選んで、話を始めた。そう、これは芝居なのだ。彼女に『普段通り』を思い出させるための。
「まず、その友達の言葉には重大な間違いがあって、前提が違うことをくよくよ考えたって仕方ないから早く忘れた方がいい、ということから言っておく。……タデってのは植物の名前なんだ。『タデ食う虫も好きずき』は、タデを食べる虫がいるように、人の好みも色々あるって意味だけど、この場合、秋津さんが虫で俺がタデになっちゃうだろ? 俺は植物より虫に例えられたい。そこは譲れない!」
「……え? 怒ってたの、そこなの?」
 彼女が目を丸くする。
 もちろん違う。いや、正直に言うとそれも癪に障るのだが、今日だけは気にしないことにした。
 俺が興奮すると虫について語り出すことは、彼女にはもうバレている。ならば、それを逆手に取るやり方はどうだろうか、と思いついたのだ。虫に例えられなかった、というくだらないところに注目させて、彼女の負った罪悪感を少しでも減らしたい。そうして、俺自身も、彼女の友人に腹を立てていることを忘れたい。彼女が悲しまないなら、俺が怒る理由はなくなる。
 ――虫好きを隠れ蓑にしてやろうじゃないか。
 俺はここぞとばかりに、滔々と蘊蓄を並べることにした。それこそ、なぜ泣いていたのかを彼女が忘れるほどに喋ることができたなら。
「さて。それから、タデってのは植物の分類で言うとタデ科っていうグループのことなんだけど、ふつうにタデっていうときには特に『ヤナギタデ』って種のことを指すことが多いんだ。これは結構な辛みがあって、人間でもその辛さを薬味なんかに利用するくらいだ。逆に言うと、それくらいまずいわけ。なのに、ほかの旨そうな草には目もくれず、ヤナギタデを好んで食べる奇特な虫がいる。タデハムシ――蓼、葉っぱ、虫と書いてタデハムシってやつがそれだ。もちろん、ほかのタデ科の植物を食う虫もたくさんいる。タデハムシと同じ、ハムシの仲間や、小さくて可憐でかわいらしいチョウなんかもそう。……まずい草でも好きになってくれる虫はいるもんだ。それが『タデ食う虫も好きずき』」
 ここまできたら、もういいだろうか。彼女も、もう聞き飽きたころではないだろうか。
 俺は「つまり――」と締めに入る。
「どんなにまずくたって食う方が納得して食ってくれればそれで問題はないんだよ。少なくとも虫はタデを食う。……君は? おまえの彼氏はまずいと言われて、諦める?」
「食べるよ!」
 彼女は、先生に当てられた小学生のように声を張り上げた。
「あなたはとってもおいしいよ。私にとっては」
「あ、あり――」
 ありがとう、と言おうとしたのだが、それは声にならずに笑いの中に消えた。答えた彼女の口ぶりが、あまりに生真面目だったから。彼女も俺と一緒になって噴き出し、そして笑っている。細めた目の端からは、もう涙は滲まない。
 ひとしきり笑った彼女は、すっきりとした顔で「すごく悔しかったんだ」と言った。
「その場で上手く言い返せなかったことが。あなたのことを悪く言われてるのに、泣いちゃうことしかできなかったのが」
 強気で前向き、それが俺の思う彼女のキャラだし、そういうところに惹かれた。そして今日は、仄見える弱さにも胸を衝かれた。でも、どちらかというなら笑ってくれたほうが絶対にいい。
「確かに、挟んで押さえつける攻撃が君らしいよな」
「私、カマキリじゃなくて女子だからね」
 突っ込みのキレも戻っている。いつもの彼女ならば、俺もこうして切り返すことができる。
「カマキリ系女子?」
「彼氏のことを言われると弱くなるんだよ。……女子、なんだから」
 頬を膨らませて言う。冗談めかしているが、案外本心なのだろう。
 彼女は座り直し、そろえた両の腿の上に手を置いた。かしこまって、一体どうしたの――そう尋ねようとすると、彼女は照れくさそうに言葉を紡ぎ始めた。
「さっき、一番最初に『よかった』って言ったのは、顔を見たら安心したから。誰に何を言われてもやっぱり好きなんだって分かったから。……今度は、今のあなたみたいに淀みなく――は、ちょっと難しいかもしれないけど。『私が好きなんだから、いいの』って言うよ」
「す――き?」
 予期せず発射されてきた告白に、俺は撃沈した。不意打ちに対応できるほど恋に慣れてはいない。俺も好き、と言えばいいのか? 俺のほうがもっともっと好きだ、とでも?
 頭の中は散らかったまま。熱が上った頬を隠すことも忘れて、俺はしどろもどろの返答を呟く。
「あ――りがとう。……タデにはなりたくないけど、おいしく食われるなら、それもいいや」
「私、いっぱい食べるよ」
 ちょっと余裕が出てきたのか、彼女は笑った。まるで、羽休めをしていたチョウが、美しい羽を開いて見せたかのようだった。普通なら、花が咲いたよう、と表現するところかもしれない。しかし、俺にはチョウに見えた。いつもならナミアゲハに例えるところだが、今日はその印象とは違う。
 ――そう、ベニシジミに似ている。
 ベニシジミはタデ科の数種の植物を食う。幼虫は紅色、成虫は朱色に近い、鮮やかなオレンジ色の羽を持っている。わずか2センチにも満たない小さなその羽で、地表近くを素早く飛び回る。学名には雌狼、炎、そしてアルテミスとヴィーナスの名を冠する、美しいチョウだ。
 彼女は、やはり明るい顔つきで口元をほころばせている。その顔を見ながら、収まるところに収まったとやっと人心地つく。
「……あと、あれ言わなくなったよね」
「あれ?」
「『俺がこんなんだから、いやな思いさせてごめん』」
「せっかく秋津さんが好きになってくれた俺を、否定するなんて。できるわけない」
 素直に言ってから、俺はまた赤面する。言い慣れないことを口にするからだ。さっきの赤みもまだ引いていないのに。自らの台詞で赤面するなど、例えるなら自分で育てた卵から孵ったチョウを自分で採集するようなもの。悔やんではいないのだが、ひどく気恥ずかしい。
 彼女は照れてくれているだろうかと盗み見ると、屈託無くこちらを見つめる目に出会った。彼女も俺の視線に気付き、目尻を下げる。もう、涙の痕跡が残るのは少し腫れぼったい瞼くらいのものだった。
「……いや、だから――言わないことにしたんだ。この趣味、やめる気もないし」
「私、天道から虫の話を聞くと元気が出るんだ。だから、言わないことにしてくれたんなら嬉しいなって。……あ。元気が出たら、おなか空いてたの思い出しちゃった」
 昼食を見越して待ち合わせたはずが、時刻はとっくにランチタイムも後半に差し掛かるあたり。それに秋津さんは昨晩や今朝も、おそらくまともに食べてはいなかったはずだ。あれだけ泣いた後なら腹も減るだろう。
「じゃあ、昼飯食べようか」
「うん。……蓼じゃないのが、いいなあ」
 冗談なのか本気なのか、彼女はそんなことを言いながらベンチを立った。
 先に立ってこちらを見返る彼女の背に、小さなオレンジ色の羽を見た気がした。燦々と注ぐ太陽の下、タデだけを求めて飛び回るチョウの姿を。
TOP

-Powered by HTML DWARF-