虫めづる

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七転び八起き

「旅行、自由行動どうする?」
「こうするつもり」
 私の問いに彼が鞄から取り出したのは、ソフトカバーの小ぶりな図鑑だった。タイトルは『京都の昆虫たち』。修学旅行先でまで昆虫観察をする気らしい。私たちの地元には生息していなくても、京都まで行けば見られる虫もいるのだろうか。
 彼の意図するところはよく分かっていたが、私は敢えてさらに尋ねてみた。
「……どういうことなの?」
「いや、こっちにはいないヤツに会えたらいいなあ、と」
 瞳が妙な輝き方をしている。この様子では、どうやら彼は本気で一日を虫探しに費やすつもりだ。
 どうしようか、と私は彼の顔を眺めながら考える。
 せっかくの旅行なのだから、私はできれば彼と回りたいと思っていた。というか、一応恋人同士という肩書きなのだし、当然自由行動は一緒に過ごせると思い込んでいた。しかし、彼の昆虫マニアとしてのアグレッシブさは想像以上である――私はそんな単純なことも忘れていたようだ。
「そもそも、こっちでは見られない観光地に行くんでしょう。どこか見たいところ、ないの?」
「うーん」
 彼は虚を衝かれて返答に困っている。修学旅行先の観光地が分からないなんて、乗り気でないにも程がある――いや、ある意味、別のベクトルで非常にやる気があると言えるのだけれど。
 仕方なく、私は自分が行きたい場所を挙げていく。
「大河ドラマブームに乗らない手はなくない?」
「今、大河って何やってるっけ?」
「……じゃ、世界遺産とか興味ない?」
「どっちかっていうと絶滅危惧の昆虫の方に興味ある」
「こ、紅葉が始まる頃だし」
「地元で見たらどう? もう見ごろだろ?」
 全く歯が立たず、私はため息をついた。
 彼は虫が好きすぎる代わりに流行や一般常識に疎いところがあるのだが、ここまで来ると天然なのかわざとなのか判断がつかない。かわし方がいちいち見事すぎるのだ。
 だが、どうして察してくれないのかと拗ねたところで、話は進まない。思い出してみれば、付き合いでさえ私の直球から始まったものなのだ。
 怪訝な顔で昆虫図鑑を持ったまま立ち尽くす彼に、私はストレートを投げた。
「だから! 私の見たいところ、一緒に回って欲しいの!」
「ああ!」
 ようやく腑に落ちた、というジェスチャーなのか、彼は私を指差して言った。
「それが言いたかったのか!」
「そうだよ。……できれば言わせないで欲しかったけど、ね」
「そっか。ごめん」
 ぺこりと頭を下げると、彼は図鑑を鞄にしまった。再び顔を上げたときには、その頬は真っ赤に染まっていた。鈍くて嫌になるね、とバツの悪そうな顔で言う。
「……で、大河ゆかりの地ってどこ?」
「え、いいの?」
「言わせちゃったお詫びに、全面的にお供させていただきますとも。……あ、でも、もし途中で珍しい虫見つけたら、写真撮っていい?」
 恐るべし、転んでもただでは起きない虫マニア。私は、苦笑いで頷くしかなかった。
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