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「アニキ」

 安心して背中を預けることができる、古武術の使い手。自分が名をもらった勇敢な戦士の息子。小さい頃から話を聞かされていた、自分の『兄』。
 だと、思っていた。

 期末試験が近い。日本での学生生活における一番の難問、テスト。万国共通の真理がある(と思う)理系の教科はまだ理解が及ぶ。中国人としては当たり前のことだが、劉は現国をはじめとした文系の教科を不得意としていた。日本史を選択してしまった自分にも責任の一端、いや大部分はあるだろうとは思うが。
 この前旧校舎に潜った時に試験が大変だと緋勇夕海を相手に愚痴ったところ、彼からは意外な答えが返ってきた。
『実はオレもヤバいんだよね、テストー』
 普段の闘いぶりから、きっと学校でもオールマイティーに活躍しているだろうと思いこんでいた劉は驚いた。
『へ、アニキも? いったい何が苦手なんや?』
『生物……。夏休みも補習受けたんだよな』
 そして続けて、生物の先生が厳しいのだ、と情けなく、恨めしそうに言う。
『弦月は? ……あ、国語がダメなのか』
『そのとおり! 話せても書くのはうまくいかんのやー』
『……なあ、弟よ。君、生物は得意かい?』
 突然、夕海が声色を変えた。その意図するところを瞬時に理解した劉は、すぐに答えた。
『生物? まあ、苦手やないけど。アニキは、現国と日本史、どうや?』
『オレ、文系だけなら葵といい勝負してんだよ。生物に足引っ張られてるけど』
 美里葵は、確か常時学年トップだと聞いた。
『んー、さすがアニキ。美里はんと張りあえるなんて。生物が良かったら、学年トップ間違い無しやな?』
『一言多いぞ、弦月。そういうことで、生物教えてくれてありがとうな!』
『アニキこそ、日本史教えてくれておおきに!』
 こうして、妙な盛り上がりのもとに取り引きは成立したのであった。
『まさか中央公園でノート広げるわけにもいかないな。オレんちに来るか?』
『アニキんち? 別にええけど、場所がわからん。新宿やったっけ?』
『おう。地図描いてやるからさ。今度の日曜、朝10時でいいか?』
『了解』

 緋勇夕海の暮らす部屋は、真神学園のすぐそばにあった。
 アニキの部屋。いったいどんなインテリアなんやろ? 手甲がゴロゴロしてるとか?んなわけないやろっ! ……などと自分にツッコミを入れ、初めて訪ねる兄の部屋に思いを馳せつつエレベーターで6階へ上る。辿り着いた部屋には、『HIYU』と表札がかけられていた。
 9時30分。早く来過ぎたかもしれんなあ。でも、外で待ってるのもアヤシいし、入らせてもらうか。
 そこからの眺め(もっとも、高層ビルに囲まれてあまりいい景色ではない)にちらりと目をやり、劉弦月はインターフォンに話しかけた。
「アニキー? かわいい弟が来たでー。……弦月やけど」
 返事がない。彼は朝に弱いということはなかったと思ったのだが、まだ寝ているのだろうか。
「アニキー、寝とるんかー? ……おわっ」
 カギが掛かっていると思ったドアは、ノブをひねると何の抵抗もなく開いた。反動で部屋の中に入ってしまう。
 奥の方から柑橘系のいい香りがした。ボディソープかシャンプー――石鹸の香りだろう。
(なんやアニキ。朝風呂か?)
 普段は銭湯に行っている劉は、好きな時間に風呂が使える兄を少しうらやましく思った。道心と一緒で嫌なことは特にないが、一人暮らしの自由さに憧れるものはある。
(今度旧校舎で汗かいたら、アニキんちの風呂借りたろ)
 朝風呂。少なくとも寝坊よりは夕海のイメージに合っているように思えた。

 かなり待ったが、やはり返事はない。
(仕方ない、中で待たせてもらおか)
 1LDKらしい、そう大きくない部屋。考えていたよりずっと生活感があって、居心地が良かった。インテリアはグレーを基調とし、ベッドカバーとカーテンは薄いグリーン。そこかしこにセンスのいい色使いがされている。しかし、14インチのテレビの上には、如月の店で買ったとおぼしき招き猫がなぜか鎮座していた。
(アニキの趣味ってよう分からん)
 今、劉が落ち着いている小さなテーブルには、現国、日本史、そして生物の教科書が所狭しと積み上げられていた。準備の良さに、ちょっと泣けてくる。同じテーブルの上に、風呂に入る時に外したらしい虎目石のピアスが一組、置いてあった。
 そのまま5分くらい待っただろうか。劉の背中の方でがたっ、と音がし、例の柑橘の香りがいっそう強くなった。部屋の主が浴室から出てきたらしい。
「おうアニキ、悪いけど開いてたから上が……!?」
 勝手に部屋に上がったことを詫びようと思い、振り向いたところで言葉が途切れた。
 そこに立っていたのは夕海だったが、自分が知っていた『アニキ』ではなかった。バスタオルを巻いてはいるが、どこをどう見たって女性(なかなかスタイルがいい)だ。濡れた髪は黒く艶めいている。出るとこは出て、引っ込むとこは引っ込んで…。
(アニキ……アニキが、女? 実は双子の妹さんとか。いや、ワイが部屋を間違えたとか?)
 動転した劉は、目を逸らすのも忘れて尋ねた。
「アンタ、アニキか?」
 タオル一枚だけを身体にかぶって浴室から出てきた夕海は、ひと呼吸置いた後ようやく口を開き「……弦、月……。まだ、10時前だよな?」と、およそこの場に相応しくない台詞でそれに応じた。

 服を着てきた夕海は劉の向かいに座ったかと思うと、開口一番「ごめんな、弦月」と言った。
「オレ、男じゃない。……その、見て分かったと……思うけど、女なんだ」
「何で、男のフリしとったんや?」
 女だと見抜けなかった自分への苛立ち。『弟』である自分にも秘密を話してもらえなかった、怒り。つい、責めるような口調になってしまう。
「……騙すつもりは、なかった。結果は、そうなっちゃった、けど」
 『アニキ』は、うつむいてそう言うと、黙ってしまった。

 沈黙に耐えかねて、劉は口を開いた。
「アニキが女やってこと、他に誰か知っとるんか?」
「真神の4人と、龍山さん、道心和尚は知ってる。あとは、弦月だけ」
 真神の面々と龍山は知っていてもおかしくない。しかし、道心は今までずっと兄だ、弦麻の息子だ、と言っていた。
(道心じいちゃん、知ってたんか?そんなこと一言も言わんかったで)
「オレの宿命のこと、知ってるだろ。オレが『黄龍の器』だってこと」
 突然話題が変わった。乗り遅れかけた劉だが、辛うじてついていく。
「あ、ああ」
「オレ、今年の春東京に来るまではフツーの女子高生だったんだ。それが、師匠に『男として転校するんだ』って言われて」
 この夕海が、普通の女子高生。すごい違和感だ。思わず変な顔になってしまう。
「笑うなよ」
 不機嫌そうな夕海の声で、あわてて膝を正す。
「オレもさ、何で自分が男にならなきゃいけないのかって思ってた。でも、この前龍山さんに話を聞いたんだ。黄龍の器が女として生を受けたってのはすでに敵さんにバレてた。オレを東京にやって異変を鎮めようにも最初から敵にマークされてたんじゃあ、身動き取れないと思ったんだろう。悪くすれば、オレがまだ弱いうちに潰されて終わりだろ? だから、敵を欺くために男のフリをしろ、ってことだったんだ」
(そんな……)
 それじゃあ、夕海は――何事もなく、ごく普通の女子高生として田舎で暮らしたかったであろう彼女の気持ちはどうなるのか。ヒトを闘いの駒としか見ていないような『弱いうちに潰されて』という言葉に憤りを感じて口を出そうとした劉は、夕海の顔を見た。
 すると、そんな劉の行動を見通していたらしい『兄』はにこっと微笑んだ。
「とまあ、嫌な言い方をすればそうなるけど。……要するに、オレが死なないように気を使ってくれたってことだろ。すごく、感謝してるんだ。この格好のおかげで、オレは生き延びられたんだ。あの4人にも、ずいぶんフォローしてもらって助かったし」
「なんやアニキ、もしかしてワイ、はめられたんか?」
「あははは、ごめん」
「勘弁してや、ほんま」
「ごめん。ほんとに……ごめんね」
 いつもと違う高い声と女言葉に、劉は驚いて顔を上げた。声まで作っていたなんて。まだ濡れている前髪の間から見える、涙で潤んだ黒い瞳がしっかりと劉の目を居抜く。身動きがとれなくなった。
「みんなに、嘘なんかつきたくなかったんだよ……? なのに、弟まで騙して」
「わかっとる。騙されたなんて、思っとらんから」
「ごめ……もう我慢できな……」
 下を向き、声が漏れないように口を手で押さえて泣く彼女。目の前にいるのは、黄龍でも兄でもなく、小さな身体で虚勢を張って生きている17歳の女の子だった。
「なあ、アニキ。泣きたいならワイの胸で泣いてええで」
 痛々しくて見ていられなくなり、劉はごく自然にテーブルの向かいに移動した。隣の彼女は、劉を見上げて涙声で言った。
「……弦月は、オレのこと怒らないの? ずっと、騙してたんだよ?」
 またまっすぐな視線を受けて、劉は思う。真神のメンバーに秘密を打ち明けたときも、こうやって自分を責めて、泣いたのだろうか。悪いのは、アニキやない。分かってやれんかった、ワイや。
「何でアニキを怒らなあかんのや? 謝るのはワイの方や。……アニキがそんなに悩んでたのに、ずっと気付いてやれんかった。ごめん」
「しぇん」
 向こうが言い終わらないうちに、夕海の頭をがっしり掴み、無理矢理自分の前に持ってくる。そして、耳元でこう言ってやった。
「でも、アニキが女でも、ワイらが兄弟だっていうのは変わらんからな!」
 それを聞いた夕海の顔が、眩しいくらいの笑顔になった。
 ああ、この顔だ。アニキには、いつもこんな風に笑っていてほしい。それは、自分のわがままだろうか。
「ホントにありがとな、弦月」
「どういたしまして」
 ちょっとぎこちない共通語で、劉はそう答えた。しんみりとした、いい空気が流れた。

 その兄弟水入らずのムードをぶちこわして、夕海が言った。
「腹、減った」
「はあ?」
「いや、ちょっと寝坊して、朝ごはん食べてないんだよ」
「でも、風呂には入ったんか?」
「オレ、きれい好きだもん。毎日朝風呂欠かさないんだ」
「そういうとこは変に女の子やなあ。でもって意外と結構ナイスバディ」
「意外とって、何だよそれ。なんか腹立ったから、裸見た分の詫びも入れて朝ごはんは弦月が作れー!」
「そんな殺生な。アニキ、日本史はちゃんと教えてくれるんか?」
「ごはんを作ってくれたらな」
「……」
 いつもと同じようで、少し違った日常。ますます仲良くなった兄弟。これまでと変わらずにやりあえることが幸せだ。
 これからは弟として頼るだけじゃない。ひとりの男としても彼女を支えていける自信が、劉に湧きつつあった。

 劉と夕海が、苦手科目の試験をかつてない高得点で終えたのは、言うまでもない。


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