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A DREAM IN DAYLIGHT

 視界が炎で埋め尽くされる直前、俺は力の限り叫んだ。
「紗夜! ……あきらめてんじゃねえぞ、今助けに行くから。待ってろよ!」
 走り出そうとした俺に、京一と雄矢が両側から食らいつく。
「馬鹿、タツ! 今行ったら、お前まで巻き込まれるぞ!」
「そうだ、龍麻! ……火の勢いが強すぎる! やめるんだ!」
「離せ! ……邪魔だ、離せえっ!!」
 親友二人の身を案じる余裕もなく、俺は両肩にかかる重みを容赦なく弾き飛ばした。後ろから、葵と小蒔の悲鳴が聞こえる。ウェイトの差か、雄矢は辛うじて踏み止まったが、京一は後ろに飛ばされたようだった。
「紗夜が待ってるんだよ! 邪魔すんな!」
「悪い、龍麻。……京一、頼む」
「おう。タツ、ごめんな」
 雄矢が俺を羽交い締めにした。起き上がった京一が木刀を美里にまかせ、拳を握るのが見えた。
「…紗夜!」
 鳩尾に鈍い痛み。
 俺の記憶は、そこで途切れた。

 『龍麻さんになら奇跡は起きますよ』って、あいつは言ったんだ。
 紗夜は、絶対にまた俺に笑いかけてくれる。あの笑顔で約束を守ってくれるに決まってるんだ。だって、俺は奇跡を願い続けてるんだから。
 『大切な人にもう一度巡り会う』と。



「…あれ、紗夜?」
「緋勇さん。お久しぶりです」
 比良坂紗夜は、俺を見るとそう言ってぺコリと頭を下げた。
「校門前に可愛いコが立ってる、っていうから見に来てみたら、紗夜だったのか。どうした?」
 帰りがけ、同じクラスの野郎から『すげえかわいい子が誰かをずっと待ってるぜ』という話を聞いたのだ。そんなに言うんなら見学して帰ろうと、急いで教室を出てきたところである。まさか紗夜だとは思わなかったが。
「か、可愛いだなんて……そんなことないですよ」
「いや、お世辞じゃないんだけど」
「あの、実は私……今日は緋勇さんにお願いがあって、来たんです」
「俺にお願い? ……内容によってはオッケーだけど、言ってみてよ」
 金貸してくれ、って言うんじゃなければたぶん大丈夫だ。甘いものおごってくれ、も勘弁して欲しいけど、ここで受けなきゃ男がすたるってもんだろ。
 すると紗夜は真っ赤になってうつむき、両腕で抱えたカバンに顔を埋めた。
「はい……あの、これから私と……その……」
 栗色の髪が肩から滑り落ち、さらさらと音を立てる。喧噪の中で、そんな音を聞き取れる自分にちょっと驚く。紗夜の話を聞くのに妙に集中しているようだ。
「……デート、してくれませんか?」
「デート?」
 デート。
 東京に来て数カ月、やっと俺にも春が来たか! しかも、こんなに可愛い子が自分から誘いに来たなんて。幸せって俺のためにある言葉?
 もてないわけじゃないとは思うんだけど、本気でおつき合いしたいって言う感じの子からは告白されたことなかったな、東京じゃ。それに引きかえ、何回かしか会ってないけど、この子かなり気に入ってるんだよね、俺。これからなら、どっか遊びに行った後晩飯おごって、家まで送るってコースかな?
 わずか0コンマ何秒かの間にそんな思考を巡らした俺は、冷静なふりを装って返事をする。
「今から? ああ、いいよ。今日は特に予定ないし」
 ずっと下を向いたままだった紗夜が、弾かれたように顔を上げた。彼女は、俺が抱いていた儚げなイメージをかき消すような、いきいきとした笑顔を浮かべていた。
 初めて、これまでの出会いでは分からなかった『本当の紗夜』が見えた気がした……というのは後から思ったことだ。
「本当ですか? うれしい……緋勇さんとデートできるなんて。夢みたい」
「大げさだなあ。ま、そうまで言ってもらえると俺も嬉しいけどさ」
 嬉しいに決まってる。そんなこと言われたら、たいていの男は喜ぶだろう。
「紗夜は、何か予定ないの? あるんならそれに合わせて動くけど」
「えっと……実は私、行きたいところがあるんです。そこへ行ってもいいですか?」
 これで、東京の地理に疎い俺がコースを考えなくても良くなったわけか。正直言うとまだ全然土地勘がないから、内心びくびくしてたんだ。
「もちろんいいぜ。あ、そうだ……じゃ、俺のお願いも聞いてくれる?」
「はい。なんですか?」
 緊張しているのか、表情が固い紗夜の緊張をほぐそうと、俺はおどけて片手を上げ、言った。
「デートに行くような二人が、名字で呼び合うのはおかしいと思いまーす。……と言うことで、年上だって言うのは気にしないで、俺のコトは『龍麻』と呼ぶべし! もちろん俺も、紗夜って呼ぶし。オッケー?」
 言いながら上げた手を下ろし、人指し指をビシッ、と彼女の鼻先に突き出す。すると彼女は、照れを隠すためか、しきりに髪をいじりながら答えた。
「……オッケー、です。……龍麻……さん」
「『さん』はいらないって。ま、そのうち慣れるかな? ……じゃ、行くか。道案内、頼むな」
 紗夜が、大きくうなずいた。

 駅までの道を歩きながら、俺は彼女に話しかけた。
「んー……あのさ、誘ってくれたってコトは、俺は期待してもいいってことか?」
「え?」
 照れまくってやっと吐き出した言葉は、紗夜にはいまいち通じてないようだ。仕方なく、俺はさらに恥ずかしさに耐えることを決意する。
「うーん……じゃ、聞き方変えるとな。自分で言うのは照れくせえけど、俺は紗夜に好かれてると思っていいわけ? 俺はお前のこと結構気に入ってるっつーか……うん。そうなんだけど」
「ほ、本当ですかっ?」
「こんなん、嘘ついたってしょうがないだろ? ホントだって」
「えっと……その……私もです」
 俺に負けないほど恥ずかしそうな紗夜は、それでも精一杯、俺の顔を見ようとしながら答えた。これって、すげえイイ感じじゃねえか。
「へへ、そっか。嬉しいな」
 俺は、思い付いて左の耳から黒いオニキスのピアスを一つ外した。制服の裾で軽く磨いて、紗夜に差し出す。
「約束。これ俺のお気に入りなんだけど、お前に貸しとくから。次会ったときに返して」
「……?」
「って言えば、また会わなきゃいけなくなるだろ? 古典的だけど」
「ふふふ……。じゃあ、遠慮なくお借りします。約束ですよ、龍麻さん」
「よし、交渉成立な。返してもらうまで、いくら耳が寒くてもここは開けとくからな」
 耳に開いた穴をつまんでそう言うと、彼女はピアスを大切そうにハンカチにくるみながら答えた。
「そんな……じゃあ、一日も早く返さなくちゃいけませんね」
「そうしてくれるんなら、俺も大喜びだ」
 おお。好感触! バラ色の高校生活に向かってるぞ、俺。

 水族館を出た俺たちは、公園のベンチに並んで腰掛けた。ひとしきり、さっき見た魚たちのことや学校のことを話したあと、なんとなく二人とも無言になる。心地よい間だった。
 その沈黙を破ったのは紗夜だった。彼女は、なぜか遠くを見ながら俺に聞いた。
「龍麻さんは、『奇跡』ってあると思いますか?」
「奇跡? 多分、あると思うよ」
「どうして、そう思うんですか?」
「すごく低い確率だけど、起きないわけじゃない素敵なコト、ってのが奇跡だろ? 俺は、まだそういう体験ってしたことないんだけどさ。それってきっと、奇跡だと思えるほど素敵なことにまだ出会ってないってことだろうと思うんだ」
 そこで紗夜を見ると、彼女はやっと俺と目線を合わせ、小さく頷いた。
「例えば、大切な人に巡り会うっていうのも、奇跡だと思うぜ。会いたい会いたいって願ってりゃ、いつか何かの偶然が重なった時きっと会えるんだと思う。ただ、それが起きにくいから『奇跡』なんだろうけど。あ、今日紗夜が来てくれたのも、奇跡のうちに入るかもよ、俺にとっては」
「もうっ。またそんなこと……。うーん……それって、愛の奇跡ですか? ……龍麻さんって、ロマンチストなんですね」
 なんか俺にいちばん似合わない言葉のような気がするんだけど。自分ではそう思ってても、他人から見りゃなかなかのロマンティストなのかな。
「龍麻さんになら奇跡は起きますよ、きっと。だって、とても強い……そんなふうに思い続けることができる、心の強さを持った人だから」
 紗夜のことばが響いた。そんなできた人間じゃないってコトは、自分が良く知っている。俺は、ここんとこ心より躯の強さばかり求めてるからなあ。
「……そりゃあ、買いかぶりすぎだよ。俺、紗夜が思ってるほど強くないから」
「そんなことないと思いますけど……」
「いや、それはまあいいんだ。ただ、頑張ればいつか報われるって考えた方がいいだろ?俺は、楽観主義者だからさ。人生に、奇跡---っつーか、ご褒美でもなきゃ生きてけねえんだ」
 『ご褒美』っていうところで、紗夜は吹き出した。
「素敵なご褒美がもらえるといいですね」
「ま、そうだな。……紗夜は、どうなの? 奇跡、あると思うか?」
「……龍麻さんは、『大切な人に巡り会うっていうのも、奇跡だ』って、言いましたよね。でも、そんなものが本当にあるのなら……反対に、大切な人を失うことなんてないはずじゃありませんか?いくら待っていても、望んでも、大切な人にもう二度と会えないなんて…そんな悲しいこと……」
 紗夜は唇を噛み、それきり黙ってしまった。
(紗夜も、誰かを亡くしたんだろうか)
 この子は、何か背負ってる。きっと、とても強い娘なんだ。こんなに細い肩に、何か重いものをひとりで---。
 今にも泣き出しそうな彼女の顔をのぞき込み、俺は俺にしては珍しく静かに、ゆっくりと語りかけた。
「紗夜。俺ね、親がいないんだ」
「え?」
「俺が産まれたすぐ後、両親とも事故で死んだ。俺は、父さんと母さんの顔も憶えてねえし、想い出も持ってない。もう、二度と会えないんだ。それでも、まだ奇跡があるって信じてるぜ?」
 紗夜が息を飲むのが分かった。
「失っちまったものにはもう会えねえけど、俺がこれから出会うものは、それより大きいものかもしれねえだろ。欠けたところを埋めるために、『奇跡』を待ってるつもりじゃねえけどよ。いつかいいことがあると思ってりゃ、乗り越えられることは意外と多いもんだぜ。今は、辛くてもさ」
「……やっぱり強いですね、龍麻さんは」
 彼女は何かを吹っ切るように座り直した。髪がまた音を立てて肩から落ちる。その首には、銀色の鎖が輝いていた。いたずらっぽく目を輝かせ、唐突に俺に質問する。
「あのね、龍麻さん。私、夢があるんです。……何だと思います……?」
「ヒントはねえのか? そうだなあ、俺の趣味から言えば、『純白のウェディングドレスを着ること』かな」
「ふふふ……それ、龍麻さんの理想ですか?うーん……そうですね。愛する人と結ばれるっていうのもいいですよね……。でも、私……看護婦になりたいんです。あ、変ですか、こんな夢?」
「いや、全然おかしくないんじゃない?っつーかさあ、紗夜にすげえぴったりだと思うけど」
 男のロマン度から言えば、俺の心の中ではウェディングドレスと同じくらい高得点だ。鈴蘭のナース服を着た紗夜。……良すぎるぜ。
 すると彼女は、俺がデートにOKの返事をした時に見せたようないい顔で「ありがとう」と言った。しかし、すぐにその顔が翳る。
「あのね、龍麻さん……私も、小さい頃に両親を亡くしてるんです、飛行機事故で」
「……お前も? そりゃあ……辛かっただろ」
 さっき息を飲んだのは、だからだったのか。不思議な気持ちだった。言うなれば同じ立場の俺と紗夜が、こうして今肩を並べて話してる。
「今まで、けっこう苦労してきたんじゃねえのか? あ、もちろん俺にはお前の気持ちが完全に分かるってワケじゃないから、あんまり偉そうには言えねえけど。悪ぃな、気付いてやれなくて」
「ううん、いいんです。……私も、その飛行機に乗ってました。事故の現場は……それは……ひどいものでした。そのせいかもしれません。苦しんでいる人を救ってあげたい、何とかしてあげたい。そんな風に思うのは……」
 俺も両親を亡くしてるけど、その記憶が無い分だけ紗夜よりも救われている。ポン、と頭を軽く叩いてやると、彼女は笑った。
「……ごめんなさい。こんな話。でも、龍麻さんには聞いて欲しかったんです。だって私、龍麻さんのこと……」
 彼女はそこで言葉を止めてしまった。俺としてはその続きも気になったが、紗夜に何か声をかけてやろうという気持ちが先に立つ。親を亡くしたどうしの感傷でも、もちろん同情でもなく、ただ、辛そうな紗夜を見るのが辛いから。
「……俺には、お前も苦しそうに見えるんだけど。紗夜、なんか悩みごとあるんじゃねえか?」
 苦しんでいる人を救ってあげたいって思う人が苦しんでちゃ、本末転倒ってもんだろう。経験から言えば、こういう場面での俺のカンは良く当たる。京一なんかは、俺が動物に近いから人の感情を嗅ぎとれるんだ、なんて茶化すんだけどさ。
「……苦しくなんか、ないです」
 彼女は答えとは裏腹に、切なげに言った。
「そんな顔して言われたって、信じられるわけねえだろうよ。……なんかあったら、俺で良けりゃ相談にのるから言えよな?」
「……はい」
「きっと紗夜が思ってるよりも、紗夜はずっと優しくて強いぜ。ただ、それに気付いてねえんだよ、まだ。今日ゆっくり話してみて、少なくとも俺はそう思った。だから、もっと楽しくいこうぜ、な」
 そんな強さと優しさに、俺は惹かれていってるんだ。
「……ありがとう、龍麻さん。私、最近ちょっと落ち込むことが多くて……はげましてもらって、嬉しかったです」
 紗夜はそう言うと、涙が溜まった瞳を俺に向けてくれた。華奢な肩に腕を回したくなるのを理性で抑え、俺は青空を仰いで答えた。空が思いのほか近い。もう、夏になるのか。
 ……なんて、関係ないことを考えないと腕が勝手に動いちまいそうだぜ。
「そう言ってもらえると、俺も嬉しいや」
 やばい。ホントに惚れてるぞ、俺。
「ほんとに、楽しかった……。……すみません。私……今日はもう帰ります!」
 そう言うと、彼女は身をひるがえし、駆けていく。突然のことに、さっきまでのムードに浸っていた俺は追いかけるのが少し遅れた。
「おい、紗夜! 待てよ!」
 走って追いかけたが、なにせまったく来たことのない品川の街だ。結局収穫は紗夜の持ってたらしい、小さな女の子(多分紗夜だ)と少年が写っている写真を拾っただけ。
 あっさり振りきられた俺は、決意を固めた。
 次に会ったら、俺からきちんと告白して付き合ってもらおう。紗夜も俺のこと嫌いじゃないみたいだし、大丈夫。きっと、上手くいく。
 次に会ったときには、きっと---。


「……ん?」
 夢から覚めてうっすら開いた目をこすると、白い天井が目に飛び込んできた。
(俺、この天井に見覚えある…)
 考えるまでもなく、桜ヶ丘。そう、昨日の朝まで俺が世話んなってたところ。この薬臭さには何度来ても慣れねえ。
(そうだ、終業式の後、六道とかいう子と戦ってたら柳生が出てきて……ずっと、寝てたのか)
 とんだクリスマスだな。イブは誰も誘う気になれなくて、結局京一とラーメン食ったし。今日は今日で、また病院に逆戻りだ。
 頭の芯が痺れてるような感覚があった。
(……あったま痛え。それに、重い)
 身体を両手でゆっくりと起こすと、視界が広がった。その部屋は、俺が昨日まで入院してた個室だった。そして、俺の顔を心配そうにのぞき込んでる舞子と、栗色の髪の女の子。
「あ、龍麻さん! 良かった、気がついたんですね?」
 さらさらと、聞き覚えのある音がした。彼女と一緒に見た青い空が頭をよぎる。
 六月の終わり。梅雨の晴れ間の青空と、紅い炎。
(……紗夜!)
 さっきまで見ていた夢を、やっと思い出した。

 春、転校してきてからのことをずっとたどってたっけ。夢の中の俺は、ちっともいいとこない普通の高校生だったな。
 何でか、口もきけなくて。で、また彼女と出会って。やっぱり惹かれて。あの地下室で、紗夜をかばって……。
 彼女を今度こそ助けてやれた。
(あ、そうなんだ)
 俺は悟った。奇跡が、起きたと。
 もしまた会えたら、言わなきゃならないことがあったな。あのとき、伝えられなかったことが---。

 舞子が、俺の意識が戻ったと院長に告げに部屋を出ていった。残った紗夜は、まだ顔色の冴えない俺に声をかける。
「どうしたんですか、龍麻さん……そんな、幽霊でも見たような顔して」
「……そんなことねえよ。すごく気分もいいし、やたら幸せだし」
「それならいいんですけど。本当に良かった、目が覚め」
「聞いてくれ、紗夜」
 紗夜のセリフを遮り、俺はそう言うが早いか、ベッドの脇に立っていた彼女の腕をつかんで引き寄せた。
 半年分の思い。『苦しくなんかないです』とつぶやいた彼女の横顔。炎に向かって叫んだ俺、あの炎の熱さ---。いろんなことが一気に押し寄せてきた。
「た、龍麻さん? あの---」
「俺と付き合ってくれないか? 俺、紗夜が好きだ」
 突然のことに無抵抗の紗夜は、俺の腕の中にすっぽりと収まる。俺の言葉を聞いて、彼女の身体がびくりと震えた。
「え?」
「ずっと言おうと思ってたんだ。夏から、ずっと。……ダメか?」
 一呼吸置いて、彼女は小さな声で答えた。
「私も龍麻さんのこと、好きです……」
 思わず確認する俺。
「ほ、ホントだな? 俺ら、両思いなんだな?」
「ホント、です」
「うわ、すげえ嬉しい」
 ……やった。いつの間にか、頭痛なんか吹っ飛んでいた。
 ここが病院じゃなかったら(そして柳生にやられた傷が疼かなかったら)飛び上がって喜んでいたところだ。その代わりに、紗夜の頭をなで回してやった。病院独特の薬品の匂いの中で、紗夜の髪の香りはとても心地良かった。しばらくそうしていると、彼女は俺の肩を両手で軽く押し返し、言った。
「……龍麻さん。ちょっと、いいですか? あの……カバンに、用があるんです」
「あ、悪ぃ」
 名残惜しかったが、しぶしぶ手を離す。
 カバンから紗夜が取り出したのは、ハンカチの包み。中に入ってたのは、俺の4つ目のピアスホールから取って渡したオニキスのピアスだった。彼女は、それを「約束しましたよね?」と言って、俺に差し出した。
「覚えててくれてたのか! これで、やっとここの穴が埋まるぜ。半年間、ここがどんなに寒かったことか」
 そう言いながら、俺はピアスを半年ぶりに定位置に戻す。
「やっぱ、落ち着くよ。これがあると」
「その穴だけ、開けておいたんですか?」
「おう。約束したからな。でも、もうこんな約束しなくても、いつでもデートの申し込みができるってワケだな?」
「……はい」
「よし。院長の許しが出たら、今日はこれからデートだ! 構わねえよな?」
「はい、喜んで」
「ケーキ買って食べようか」
「はい!」
 そこにちょうど、舞子が院長を連れて戻ってきた。もしかしたら、廊下で入るタイミングをうかがってたのかもしれない。
 入院してても構わないが(これはたか子院長の希望なんだが)意識が戻ったのなら退院してもいいそうだ。俺はお言葉に甘えて、家に帰ることにした。もちろん、紗夜も一緒に。

 外に出ると、もう真っ暗だった。紗夜は、ニットの手袋をはめた両手で頬をこすりながら、雲で覆われた空を見上げた。つられて上を向くと、舞っていた何かが落ちてくる。
「雪ですよ、龍麻さん!」
 昨日も少し降ったが、今日はもううっすらと積もっている。本格的に、ホワイトクリスマスになるな。
「そうだなあ。どうりで息も真っ白になるわけだ」
「ちょっと、寒いかもしれないですね」
 もちろん手袋なんか持ってない俺は、コートのポケットに手を突っ込んだ。紗夜は俺の五、六歩前を小さな足跡を付けながら歩いていく。その後ろ姿を見ながら、俺はやっと実感が湧いてきた。
「……愛の奇跡、か」
「え? 今、何か言いましたか?」
 俺のつぶやきを拾い聞きした紗夜が、笑顔で振り向く。
「いや。独り言だよ」
「ふふ、どうしたんですか? さあ、龍麻さん。ケーキ買いに行きましょう」
 彼女は立ち止まって俺との距離を縮めると、並んで歩き出した。雪に反射した街灯の光が、俺と紗夜を包む。
「な、紗夜。一緒にケーキ食って、一緒に年越しして……いつでも、一緒にいような」
「もちろん。いつでも、隣にいます」
「ありがとう」
 せっかくもらった素敵なご褒美なんだ。もう、絶対に失くすもんか。
「行こうか」
 この静かな夜に、誓って。

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