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Flash Back

 彼、いや彼女は周りに気付かれないほどの小さな声で、言った。
「お久しぶりです。……紅葉さん」
「ああ。緋勇、夕海……くんでいいのかな?」
 もちろん、あの頃――名残り雪が降る頃の君とは、あまりにも違っていたけれど。セーラー服も、長い黒髪も無くたって、彼女の黒目がちの瞳は間違えようのないものだった。
「こんなふうに会うことになるなんて、思いもしませんでした」
「……僕もだよ」
 緋勇夕海――『緋色の勇気に、夕焼けの海』。数カ月前、そう言った彼女は、まるでどんな雪も融かしてしまうような笑顔を浮かべていた。



 その日は、極めて僕らしくない一日だった。
 初めて来た街。館長から『仕事の補佐』を頼まれた僕は、とある地方都市に『出張』していた。あらかじめ貰い、頭に叩き込んだ地図を頼りに道場を探す。しかしどこで間違えたのか、一向に辿り着かない。
「しくじったかな」
 自嘲してみても、約束の時間まであと二十分足らず。時間を守らないことは、僕のポリシーに反する。『仕事』の場では、時間は待ってくれないからだ。あまり気は進まなかったが、僕は通行人を呼び止め、道を聞いた。
「すみません。この辺りに、古武術の道場はありませんか?」
 歳は僕と同じくらい。ストレートの長い黒髪が印象的な、緑のセーラー服の少女だった。僕と比べると身長が頭一つ分も違うので、思いきり見下ろす感じになる。
「ドージョウ? 道場……えっと、拳武館ですか?」
「そうですが……御存知なのですか?」
 彼女の口からは、いとも簡単に『拳武館』という単語が出てきた。この辺りでは、有名なのだろうか?
「あたし、これから行くとこですけど。良かったら、一緒に行きますか?」
「……貴女が、拳武の道場に?」
 こんなに華奢な少女が、あんな男臭く、危険な世界に足を踏み入れているなんて。もっとも、本当に危険なのは、むしろ僕のいる『裏』の世界の方だが。まさか、拳武の裏の顔を、この少女が知っているはずはない。
「はい。まだ、習い始めたばかりなんですけどね」
 そう言って、彼女は持っていた手提げカバンの口を広げて僕に見せた。中には、胴着と帯が入っている。どうやら、本当らしい。
「人と待ち合わせをしていて、急いでいるんです。案内してもらっていいでしょうか」
「歩いて十分くらいのところですけど。……じゃあ、行きましょうか?」
 歩き出してすぐ、彼女は口を開いた。僕が話下手だということを悟ったらしく、一人で話を進めてくれるのがかえって有り難い。
「おかしいと思いませんか? 女子高生が、古武道を習ってるなんて」
「……いや、別に」
 素っ気無い返答。そんなことは少しも気にせず、彼女は言った。
「あたし、自分で変だよなあって思うんですよ。つい何ヶ月か前には、こんなことになるなんてちっとも考えてなかったんです。でも、上手く言えないんですけど、いろいろあって。……強くなりたいんです」
 強くなりたい、か。胴着の入った大きなカバンを持つ彼女の手は白くて細く、拳を繰り出しただけで折れてしまいそうだ。何がこの少女にそんな思いを抱かせたのだろう?
「今はまだ、自分の身を守るのがやっとぐらいの腕なんですが、ゆくゆくはもっと……」
 そこで彼女は僕の怪訝そうな表情に気付き、一旦言葉を切った。
「すいません、初対面なのにこんなこと……一人でしゃべっちゃって。そう言えば、自己紹介がまだでした。あたし、緋勇夕海っていいます。高校二年です」
 僕と同い年か。ヒユウ、ユウミ。どんな字を書くのかは思い付かないが、変わった名前だな。……などと考えていると、催促されてしまった。
「あの、お名前何ていうんですか?」
「僕? 壬生、です」
「ミブさん?」
「壬生、紅葉」
「くれはさん。紅い葉、でいいんですか?」
 僕は、首を縦に振って肯定する。
「素敵な名前ですね! ……ん?」
 ヒユウさんは口元に手をやって考えていたが、何か思い出したのか大きな目を見開いて僕を見た。強い光が宿った漆黒の瞳に、射抜かれるような感覚を覚える。
「あっ、鳴滝さんの直弟子さんが東京から来る、ってウワサに聞いてたけど。もしかして、あなたがそうですか?」
「多分、そうだと思いますが。鳴滝館長を御存知なんですか?」
「私、鳴滝さんから習ってるんですよ」
「……」
 無言で驚く僕。ここの道場にそんな高校生がいるとは聞いていたのだが、詳しい話は知らなかった。僕のような『任務』を持ったものであればともかく、普通の学生が館長からじきじきに教わる機会などまず無い。ましてや、この少女が館長の直弟子……?
「あなたも、鳴滝さんのお弟子さんなんですか?」
「そうですが」
 いったい、この娘は何者なのだろう?
「じゃ、兄妹弟子になるんですね、壬生さんとあたし。……あ、ここです。道場」
 いつの間にか、目的地に着いていた。いろいろと疑問は浮かんだが、どうせ僕には関係ないことばかりであろう。
 僕は、素直に礼を言い、彼女と別れることにした。
「助かりました」
「いえ、ついででしたからお礼なんていいんです。あ、鳴滝さんなら、入ってすぐの左の部屋ですよ」
「そうですか、ありがとう。じゃ、僕はこれで」
「さようなら」
 ヒユウさんは軽く頭を下げ、道場の裏の方へと消えていった。僕の心には、名前はどんな字を書くのか、ということがただ一つだけ引っ掛かっていた。

 僕は、教えられたとおり左の部屋のドアをノックした。
「館長、いらっしゃいますか。壬生ですが」
「ああ。開いている」
「失礼します」
 ドアを開け中に入ると、部屋の奥のデスクに館長が座っている。
「少し、遅くなりました。申し訳ありません」
「まだ約束の時間の5分前だ。遅刻ではないぞ。……外は寒かっただろう。まあ、そこに座ってくれ」
 そう言って、館長は僕に椅子を勧めた。
「早速だが、今日来てもらったのは、試合をしてもらいたい学生がいたからだ」
 ピンと来た。そ知らぬ顔で聞き返す。
「試合? いったい、どうしてでしょうか?」
「ここの支部で一番強い者が、実際どれほど通用するのかが見たくてね。……大切な友人の子なんだ。どうも、私では無意識の内に加減してしまうようでな」
 館長ともあろうものが、手加減とは。ますます怪しい。
「相手は、お前と同い年の女の子だ。名前は緋勇夕海」
 ヒユウユウミ。やっぱり、そうか。さっきの彼女の様子を見る限り、そんなに手強そうな相手には思えなかったのだが、支部道場でトップといえばなかなかの腕だろう。まあ、闘いの場に出れば人は変わるものだ。これから手合わせするとなれば、先入観は禁物である。
「そうですか。……僕は、構いませんが」
「そうか。じゃあ、もう少ししたら一緒に道場に出てみよう」
 結局、ヒユウさんにここまで案内してもらったことは話題に出さなかったし、出す必要も無かった。しばらく二人で他愛無い話をし、時間を潰す。
「さて、そろそろか」
 そう言った館長の後について、僕は道場へ向かった。

 道場は小さかったが、僕のいる東京のそれと比べても劣らないほどの熱気に溢れていた。そんな中、数人の男と、長い髪をアップにした女の子が一人、汗を流している。館長は、小さな声でただ一人の女の子――ヒユウさんを呼んだ。
「夕海君。ちょっと、いいか?」
「はい、鳴滝さん。今、行きます」
 彼女は、組んでいた相手に一言ニ言言うと、乱れていた髪を結い直した。道場の隅に置いてあったタオルを取り、こっちへ駆けて来る。
「何か、ご用ですか?」
「東京から、客が来ているのでね。紹介しておこう」
 館長にうながされ、僕は一歩前に出て軽く会釈する。
「壬生紅葉です」
「……あ、えっと、紅葉さん! さっきはどうも」
 ヒユウさんはもともと大きな目をさらに見開いて言った。さっき、案内してもらったときにもこんな表情をしていたが、やはり印象的な瞳だ。事情を飲み込めていない館長が、ヒユウさんに聞く。
「なんだ、顔見知りなのか?」
「さっき、ここまで来るのに一緒になったんです」
 すると館長は、『そんなことは一言も言わなかったじゃないか』という顔を一瞬だけしたが、すぐに普段の調子で言った。
「そうだったか。夕海君、もし時間があるなら、手合わせをしてもらうといい。彼は、東京の道場では一ニを争う腕の持ち主だ。きっと何か、学ぶところがあるはずだと思う」
 最初からそのつもりで僕を呼んだというのに、館長も人が悪い。その言い回しを深読みすれば、『時間がなければ試合はしなくてもいい』ということなんだろうか。
「は、はいっ! あの、お願いします」
 館長の話を聞いたヒユウさんは、緊張の面持ちであわてて返事をする。
 館長も、過保護だな。確かに彼女の経験と華奢さとでは、心配になるのも当然だろう。まるで、少し前の僕と館長を見ているような、おかしな感覚だ。親のような心境、なのだろうか。
 そんなことを考えるなんて、やっぱり今日は僕らしくない。僕は、出そうになったため息を抑え、代わりに肩をすくめて問う。
「しかし館長。彼女はまだ武道を始めて四ヶ月も経っていないとか。僕が相手をして、無事に済むかは保証できませんが?」
 そう言うと、ヒユウさんの躯がちょっと震えたように見えた。その震えが恐さからくるものか、武者震いなのかは分かりかねる。
 彼女の様子――軽く唇を噛んだまま身動き一つしない――を見てか、館長はいたわるように言った。
「うむ。……夕海君、どうだ? 手加減は必要かな?」
 しかしヒユウさんは、きっぱりと言い切った。
「いらないです」
「気にしないで下さい。現にあたし、先輩達よりも強くなってるんですよ?」
「……本当に、いいんだな? 無傷では済まないかもしれないが」
「紅葉さんが強いのは、あたしでも分かります。紅葉さんの周りの空気が、普通の人と違う気がするから。重くて、鋭くて、冷えた感じの空気が流れてる……。時々あたしの周りにも似たようなモノを感じるときはあるけど、比べものにならないですよ」
 あくまでも無表情にだが、僕は驚く。斜め後ろから伺うと、館長もはっと息を飲んだ――ように見えた。
 まだほんの初心者の彼女が『気』の流れを感じられるとは、やはりただ者ではない。いくら館長の友人の娘でも度が過ぎる待遇ではないか、とは思ったのだが、ようやく納得がいった。一目置かれる理由は、彼女の中に眠っている素質にこそある。
「でも、あたし、真剣な勝負をしてみたいんです。命がかかってるような、そういう緊張を……今のうちにに少しでも味わっておきたいから」
 今のうち、とはどういうことだろう。
「そうか……それならいい。では、早速だが二人とも、準備を」
「僕は、これで結構です」
 僕は、上半身だけ学生服を脱いでそう答えた。彼女も続いて言った。
「あたしも、すぐにでも大丈夫です」
 すると、館長は稽古していた門下の男たちに、壁際に避けるよう指示を出した。道場の真ん中が僕たちのために空けられた。通常の手合わせのように二人で向かい合い、その中央に立つ。ヒユウさんの瞳が、まっすぐに僕を捕らえていた。
「……それでは、始める。時間は定めない。勝負がつくまで、思いきり打ち合ってみろ」



 今日もあの日のように、彼女は一人で言葉を紡ぎ続ける。
「紅葉さんには、とても感謝してる。ほんとは、こうして闘わなきゃならないのは、嫌で仕方ないんだ。……でも、京一が帰ってこれないワケを作ったのがあなたたち拳武館の人間なら……。いくらあなたでも、オレは許せないよ」
 僕が感じた彼女の『気』は、どこか不安定だった。仲間の安否を気遣う気持ち、そして、僕と拳を交えなければならないことへの心の迷いが出ているのだ。僕は静かに彼女に問う。
「許さないと……どうするんだい?」
 『気』とはうらはらに、その瞳は力強く輝き、拳は固く握られていた。
「オレが、勝つ。勝って、紅葉さんが間違ってる、って教える。それだけです」
 彼女の『気』は、安定しないながらも徐々に高まってくる。緋勇さんの声も、それに伴って音量を増していった。
「オレは、あの時とは違いますから。もちろん腕も上がったし、いまのオレには守りたい人も沢山いる。オレがいないと、帰ってくる場所に困る人もいるんです。……だから、オレは負けられないし、殺されない。絶対、生きて帰らなきゃいけないんだ」
 この何ヶ月かの間に、彼女が見つけたものは何だったのだろう。友か、家族か、あるいは……恋人か。僕と同じように、命を張って守りたいものが、今の彼女にはある。それは、強さを生むはずだ。
「……大切なものが、見つかったんだね。君にも」
「はい、たくさん。……それは、紅葉さんが教えてくれたことです」
 言い終わると、学生服に包まれた細い肩の揺れが止まった。そして、彼女は以前見たことがある『陽』の技の型を構えた。
「そう」
 僕もそれに習って臨戦態勢に入る。
「……お喋りはこれくらいにしよう。どれくらい強くなったのか、試させてもらうよ……?」
 静まり返った地下鉄のホームは、僕と彼女が動いたのをきっかけに、戦場になった。



 これが、館長しか知り得ない『陽』の技か。接近戦も中距離もカバーする、万能的な型。彼女の、力より速さ重視の戦法は、僕に似ているとも言える。
 そんな分析ができたのも、はじめのうちだけだった。手加減しない、とは言ったが、彼女の腕ならその必要はなかった。
 強い。ただ、やはり僕の方が優位なのは否めない。くぐった修羅場の数が違い過ぎる、そう思った。僕が押しているままで打ち合いは長く続いたが、勝負は一瞬だった。拳を突き出す刹那にガードの空いた身体を、見逃すはずが無い。
 蹴りが狙い澄ましたようにみぞおちに決まり、彼女は変にくぐもった声をあげた。
(しまった……)
 嫌な手ごたえだった。床に思いきり叩き付けられ、身動きしなくなったヒユウさんを見やって、館長は静かに宣言した。
「そこまでだ。……多分大丈夫だと思うが、夕海君を医務室へ」
「僕が、運びます」
 立ち合いを見ていた門下生が駆け寄ろうとするのを制し、両脇の下に腕を差し込んで身体を起こして、彼女を背負う。小さく軽く、そして暖かく柔らかい、ごく普通の女の子の身体だった。肩ごしに、小さなうめき声が聞こえ、意識を失っていないことに安堵する。どこか折れていなければいいが。
「館長……医務室は、どこですか」
「入り口の近くだ。……私は皆に事情を説明して、後から行く。介抱してやってくれ」

 医務室の窓からは、道場の外がよく見えた。彼女が落ち着くまで、僕は何気なく外の様子――桜の若木が植えられている――を眺めていた。この地方ではまだ春は先なのだろう、蕾はまだ固いままだ。
 しばらくそうしているうちに、ようやく口が利けるようになったヒユウさんが、横になったまま僕に声をかけた。
「……ご迷惑、かけました」
「無理して話さない方がいい。……どこか、痛むところは?」
「お腹が、かなり。でも、折れたりは、して、ないですから」
 切れ切れだがはっきりと、彼女は言った。
「でも……しばらくは、動けなさそうです」
「そう」
 互いに納得の上での勝負だから、責めることも謝ることもない。ただ淡々と、話が続いていった。彼女は、まだ体が痛いはずなのに笑顔を作り、舌をちょっと出して言う。
「負けちゃった。こんなに完敗したの、久しぶりです」
「そうだろうね。君は、この道場でいちばん強いと、館長がおっしゃっていたから」
「……はい。いちおう、そうですね」
「……」
 まだ回復してないのだから、無理して答えることもないのに。律儀なんだか、素直すぎるのか。いずれにしても、拳武を中心に回っている僕の人生の中では、初めてみるタイプの人間のようだ。
 変わってるけど、良い娘だな。そんなことを考えながら彼女を見ると、まださっきの笑顔を崩していない。
(敵わないな)
 こんな状況(僕の蹴りを受けて意識があることすら尊敬に値する)でも笑える意志の強さを、彼女は持っている。それは、笑い方すら忘れてしまいそうだった僕の中に、とても強い印象を残したのだった。
 道場までの道では彼女が話をつなげてくれていたのを思い出し、今度は僕が話しかけてみる。
「館長に認められるほどなんだから、負けたからといって気にすることはないと思うけど。もっと場数を踏めば、いいんじゃないかな」
 生と死の紙一重の差を知り、自らも命を奪うことを知っている分だけ、僕が強いのだろう。彼女と僕との間には、圧倒的な経験の差がある。しかしそれは、時間さえかければ、ある程度得られる物であるはずだ。
「このままずっと稽古をして立ち合いを重ねれば、きっと君は、僕を凌ぐほどになると思うよ」
 僕の言葉を聞いてから、ヒユウさんは目を閉じてしばらく何か考えていたようだった。やがて、目を開けた彼女は、天井を見ながら呟いた。
「……どうしたら、強くなれるでしょうか。あたしも、紅葉さんみたいになれるでしょうか?」
「それは、僕が軽々しく口に出していいことじゃないと思うよ。君次第なんじゃないかな」
「あたし次第、ですか……。そう、ですよね」
 どうも彼女は、ただがむしゃらに『強くならなければ』とだけ、考えているようだ。そのひたむきさは、僕にとっては痛かった。
 『紅葉さんみたいに』、か。僕のように命を奪うための強さは、彼女には必要ないだろうに。それでも、もし僕を越えたいというのなら、彼女が持つべきものは、経験と、そして……。
 僕は、まだ天井を見つめたままのヒユウさんに、諭すように言った。
「……護りたいものがあると、きっと強くなれると思うよ。もちろん、技を高めることも大切だけど、ひとりよがりの強さはどこかで打ち止めになってしまう。それでは、何かを護ることはできやしないさ」
 すると、彼女は僕の方に体の向きを変え、再び笑顔を浮かべた。
「紅葉さんには、譲れないことがあるんですね。なにか、大切なもののために、闘ってるんですね」
 一瞬、『拳武』の裏の意味を指したのかと思ったが、どうやら考え過ぎのようだ。
 譲れないこと――頭に浮かんだのは、薬臭い病室に横たわる母の姿。
「ああ。これだけは、何をしてでも守りたいということがね」
「あたしには、まだそんなに大切なモノは……ない、です」
「見つけようとして見つかるものじゃ、ないと思う。その時が来たら、きっと分かるはずだから」
「……そうですね」
 ヒユウさんは、何かを吐き出すように大きくため息をついた。
「ありがと、紅葉さん。あたし、知らないうちに、自分を追い詰めてたかもしれないです。何だか、すごく気が楽になりました」
「そう…それは、良かった」
 今日の僕は、ちょっと喋りすぎている。うっかり口を滑らせて、何を言ってしまうのか分かったものじゃない。ついしかめた表情を持て余して窓から外を見ると、白いものが落ちて来ていた。
「……雪、か」
 東京ではもう暖かさを感じる時期だというのに、東北はさすがに寒さがしぶといようだ。
 彼女は、ベッドから体を起こして窓を覗き込む。
(……もう起きられるのか)
 蹴りを食らわせた本人が言うのも変だが、半端じゃない打たれ強さと回復力だ。
「本当。どうりで、冷え込んできたと思いました」
 ヒユウさんは無邪気に名残り雪を愛でている。それを見ながら僕は、そろそろ潮時かもしれないな、と思った。これ以上ここに居ては、きっと僕は変わってしまうから。
「起きられるようになったみたいだね。……館長を、呼んでくるよ。まだ、休んでいた方がいい」
「そうですか……。今日は、楽しかったです。いつか、また相手して下さいね」
(もう、会うこともないと思うけどね)
 普段の僕ならそう言っただろうが、この日の僕はらしくなかった。
「……そうだね。もし、会えたら」
「紅葉さんは、東京の人なんでしょう? あたし、この春から東京の――新宿にある高校に通うんです。だから、きっといつか会えますよ。……東京で」
 東京でまた会える、なんてことは、あるんだろうか? その可能性は限り無くゼロに近いが、ゼロではない。
「そう。……じゃあ、会えたときのために名前を聞いておくよ。どんな字を書くのか、分からなかったから。
「あ、そうでしたね。あたしの名前、分かりにくいから。……緋勇、夕海です。緋色の勇気に、夕焼けの海」
 彼女は、指で空気に字を書きながら、どこか誇らしげな顔で答えた。綺麗な笑顔だった。
「夕焼けの海、か」
 僕は、口に出してみる。緋勇さんのイメージにぴったり合った、とても美しい名前。きっと、忘れられない名前になるだろうと、何故か僕は直感した。
「忘れないでくださいよ?」
「憶えておくよ」
 そして僕は、座っていた備え付けの椅子を部屋の隅に寄せ、立ち上がった。
「……それじゃ、僕は館長に挨拶をして、東京に帰るから」
 ドアノブに手をかけようとした僕に、彼女は声をかける。
「紅葉さん! ……ほんとに、ありがとう。次に会った時には、負けませんよ」
 次に会った時――いったいどんな再会になるのか、見当もつかない。しかし、『拳武』として名乗りをあげた僕と対峙することがあったなら、そのときは……。
「僕も、負けられないな」
「いつか、きっとまた!
 僕はその声を聞いてから、軽くきしむ扉を開け、後ろ手に閉めた。



 さっきの闘いの中ですでに――もしかしたら、名前を憶えたときから、心は決まっていたのかもしれなかった。
 『彼女の力になる』ということを。

 半ばむりやりに傷の手当てをされていたが、それを振り切るように立ち上がり、僕は緋勇さんに問う。
「僕の力が、君たちの目的とは相入れないものだと知っていて、聞いているのかい?僕は、人を殺すしか能の無い男だよ」
「違います」
 間髪を入れず、彼女は僕を見て答えた。初めて会った時に印象深かった漆黒の瞳は、全く変わっていない。
「紅葉さんは、そんな人じゃない。だって、とても大事なことをオレに教えてくれたでしょ。でも、一人よりみんなでの方が、もっと大切に守れるんですよ」
「……」
「だって……きっと紅葉さんの守りたいものは、オレたちも、守りたいと思うもののはずだから。オレや紅葉さんの、大切なもののために……一緒に、闘いたいんです」
 僕と会わない間に、緋勇さんはたくさんの『大切なもの』を見つけていた。宝物のような出会いをいくつも越えて、こんなに強くなれたのだ。そして、彼女にとって、僕との再会もまた『宝物』の一つなのだろう。
 ……緋勇さんは、なおも僕に訴える。
「せっかくまた会えたのに、このままお別れなんて――」
 その言葉にかぶせるように、僕は一言だけ彼女に告げた。
「夕海。僕の力が必要な時には、いつでも呼んでくれ」


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