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契り

 上等な酒を口に含みながら、劉は夜空を見上げる。まだ10時を回っていない。老人は珍しく悪酔いしてすでに寝てしまい、付き合っていた劉だけがその場に残されたのである。
 しばらく一人でちびちびやっていると、結界の外から静けさを破り、男の声が響いた。
「おーい、ユエ。龍麻だけど……いるか?」
 (あ、アニキや)
 徳利を持ったまま結界の外に出ると、緋勇龍麻が腕組みをして立っていた。
「何や、アニキ?わざわざ、こないなトコまで」
「こんなとこまで、ってなあ……新宿は俺の縄張りだぜ? なんだお前、飲んでたのか?」
「じいちゃんに付き合ってたんやけど、今はワイだけで飲んどった」
 龍麻は、中国では子供の頃から酒を飲んでいた、と劉から聞いたのを思い出す。
「日本では、未成年の飲酒は法律で禁止されていまーす……なんてな。じゃあ今度は俺が付き合うぜ?ちょっと話があるんだ。俺、お前ほど酒強くないと思うけど、それでもいいなら」
「ええよ。ここじゃアレやから、中で」
「おっす。お邪魔しまーす」
 劉は結界を解き、兄を中へ案内する。

「じゃあ、飲み直しやな」
 劉は、道心が猪口に飲み残した分を片づけ、龍麻の前に置いた。
「ほい、アニキ。じゃ、いっちょ飲むでー!」
「乾杯、って言うんだよ、日本では」
「か・ん・ぱ・い? そうなんか?」
「そうなんだよ。うーん、じゃあ」
 龍麻は猪口を空に掲げながら、目を細めた。劉もそれに習って手を上げる。
「新しい兄弟に、乾杯」
「カンパイ!」
 どちらともなしに空を見上げると、冬の薄い雲にくるまれて三日月が柔らかく輝いていた。かざした猪口の向こうに月を捉えた龍麻は、劉に話しかける。
「今日のつまみは月だなあ。酒も進むよな、な? ……ユエ?」
 劉は拳を堅く握ってうつむいたきり、口をきこうとしない。
「何だよ、黙っちまって」
「ワイの村が消された夜も、こんな月の夜やったんや」
「え?」
 良く聞き取れなかったのか、龍麻が聞き返す。

 朝起きて畑仕事をし、夜は皆で語らう。あの日から、そんな当たり前の生活が当たり前ではなくなった。
 (弦麻殿は、命を賭して『凶星の者』を封じたそれは偉大な方だったんだよ、弦月)
 (弦月の名は、弦麻殿から一文字もらっているのだから大事にしないとね)
 (そうそう、弦麻殿にも弦月くらいの息子さんがおったのう)
 そんな昔話を聞かせてくれる人達も、あの日すべて失ってしまった。後に残ったのは、瓦礫と、心身の傷。

「おいユエ、どうしたんだよ!」
 ぼんやりと回想していた劉は、龍麻に肩を叩かれてふと我に返った。龍麻の猪口の中身が減っていなかったところを見ると、どうやら惚けていたのは一瞬のことだったようだ。
 取り繕うように繰り返す。
「だから、月が……嫌いや。嫌いやねん」
「そっか」
 龍麻は意外にも素っ気なくそう言うと、下を向いた。その様子を見ながら、劉は軽く汗ばんだ手のひらをズボンで拭う。
 日本に来てから関西弁は、悲しみを薄れさせるのに都合が良かった。必死で覚えた。陽気な留学生という『隠れ蓑』を作って、たった一人で復讐を誓った。その後、昔のことは道心老人と---先日、少しだけ龍麻に話しただけだ。
 酒を一口飲んだ劉は、龍麻の横顔を横目で見つつ口を開いた。
「月を見る度に、アイツの強さと……自分の無力さを思い知るんや。あのときワイにもっと力があれば、今こんなことには……ってな。ま、後悔先に立たず、ってやつやなあ」
 ははは、という乾いた笑い声が劉の口から漏れる。
「なあ、アニキ。最近な……みんなを巻き込んでるようで嫌になるんや」
「ん?」
 劉は、空になった猪口を両手でいじりながら続ける。
「村の仇をうつ、っちゅうワイの闘いに……その、トモダチを付き合わせてるような気がしてな。みんなが怪我するたびに、なんかこう……うまい日本語が思いつかんけど……辛いんや」
 龍麻が、少しおどけた調子で合いの手を入れる。
「おいおい、ユエ? アイツは、俺の親父の仇でもあるんだぜ。忘れてねえだろうな、そこんとこ」
「あ……すまん、アニキ。ワイ、自分のことしか……」
 いつもの明るさが見られない劉。龍麻はため息を吐き、眉間にしわを寄せた。
「馬鹿ユエ。どっちかにしろよ」
「……え?」
 強い語調に、劉は驚いて龍麻を見た。
 目が合った。言葉とは裏腹に、優しい瞳が自分を映している。
「泣きたいんなら、泣け。笑うなら、思いきり笑え」
 龍麻は弟に向かって、一語一語区切るように言い聞かせた。いつもは化け物を荒々しく仕留めるその手が、劉の背中を優しくぽん、と叩く。
「そんな辛そうな顔して、笑うなよ。な」
「……あ……」
「お前、そういうことさあ…中国に居たときのことあんまり言わねえから、言いたくねえんだろうな、とは思ってたんだけどよ」
「……言わなかったんやない……悲しくて、辛くて言えんかっただけや」
「でもよ、そん時のお前は今のお前とは違うだろ、多分」
 龍麻は、そう一言呟いて、何度もその背中を叩く。
「ま、いいや。とりあえず、待ってるから早く落ち着け」
 ……劉が静かに泣き出した。

 月が雲に隠れたのを見計らって、龍麻は劉に言った。
「もうそろそろ、いいか?」
「ん……うん、もう大丈夫や。かんにんな」
 劉は、まだ鼻をぐずぐずいわせながらも立ち直りつつあるようだ。互いに言葉が見つけられずにしばらく沈黙が続く。やがて龍麻の方が、静かに口を開いた。
「さっきの、親の仇がどう、っつー話な」
 劉が、ビクリとして龍麻の横顔を見る。
「俺は…俺なんかより、お前の方がもっとひでえ思いをしてきてるってことは、ちゃんと分かってるつもりだ。正直言うと、俺は親父の仇だと思って柳生と闘ってる訳じゃないし、お前に仇を取らせてやれたらと思ってる」
 龍麻は、劉の顔を真っ直ぐ見つめながらそう言った。それを見返し、濡れた頬を拭う劉。その様子を見た龍麻は、ふわりと笑った。
「それから、友達を巻き込んで……とかいうやつ。俺が思うに、みんなだって俺だって、巻き込まれてるんじゃねえよ。自分がやりたいからやってるだけだ。だったら、ユエと同じだろ?」
 龍麻の迷いの無い声は、劉の迷いを打ち砕くかのようだった。大きく頷いた劉の瞳に、再び光が戻ってくる。
「そんな細かいところ、ユエの気にすることじゃないさ。だから、お前はお前のやりたいようにやれよ」
 龍麻は、そこで突然真顔になった。
「ただし、とどめはお前に刺させてやる。……最期は、俺が誰にも手出しさせねえ。そのために日本に来たんだろ、ユエは」
 そや。
いろいろなことがあって、他のことばかり考えていたけれど。ワイにはワイの、みんなにはみんなの目的がある。そのためには、ワイだけが今ここで立ち止まっているわけにはいかない。
 そう決意する。
 ――久々に、肩の荷が降りたような、清々しい気分になった。
 劉は、普段の彼らしい陽気な声で龍麻に応えた。
「おおきに、アニキ。なんか……楽になったわ」
「そうか?……そりゃあ……良かった」
 それを聞いた龍麻は、あからさまに安堵の息を吐いた。
「緊張したぜ、ったく。泣き出すやつがあるか、せっかく励ましに来たのによ。俺のほうが泣きたくなっちまった」
「おおきに。……おおきに、アニキ」
 兄には、照れくさくて『ありがとう』なんてとても言えない。龍麻にしても、きっと真っ赤になって苦笑いを浮かべるに違いない。
 何事もなかったように手酌をする龍麻を見ながら、劉は照れる龍麻の様子を想像し、微笑んだ。
「ほら、飲むぞ。猪口持て、注いでやるから」
「……おおきに」
 だから、劉は精一杯の思いを込めて何度も言うのだ。
「おおきに、アニキ! よっしゃ、カンパイや!」

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