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緑の桜

「うみ、花見に行かねえか?」
 オレは、京一の言葉に不審気な顔で答えた。
「ハナミ? ……ああ、花見か。何の花を見るんだ?」
「桜だよ。桜を見るのが花見だろう」
 少し沈黙。この時期に桜の花を見られるところが、東京にはあるのだろうか。いや、いくら都会だと言っても、そんなはずはないと思う。
「……京一、今をいつだと思ってんだ?」
「梅雨、だな。今日もこんな天気だしよ」
 今はちょうど雨が止み、太陽が顔を出していたが、ここのところ毎日のように空の機嫌が悪い。
 オレは、雨は嫌いじゃなかった。雨上がりの澄みきった空気を吸うと、心の中まで浄化されてくるような気がするのだ。たとえその空気が、東京の灰色の空を作り出しているとしても。
「桜は4月にみんなで見たじゃないか。とっくに散ってるだろ?」
「ああ」
「葉桜なんか見てどうすんだよ。お前の好きなオネエちゃんだって、この曇り空じゃいないと思うけど?」
 いくらオレが雨が嫌いじゃないと言っても、乗り気にはならない。いつまた降り出すか分からないような重たい雲の下に繰り出すのは、できれば避けたい。しかし京一はこんな場合の対処法を心得ているのである。
「うーん……付き合ってくれたら、晩飯おごるっていうのでどうだ?」
「えっ!? 京一が、おごり?」
 明日は快晴かも知れない。しかも、仕送り前のオレの寂しい懐の具合をしっかり押さえている。餌に釣られたオレは、苦笑いして言った。
「しかたない、じゃあ付き合うよ。ホントにおごれよな?」
 すると京一は、形のいい唇を尖らせて、ヒュッと鳴らした。
「男に二言は無い! そうと決まれば早速行くぜ。桜は待っててくれても、ラーメン屋は閉まっちまうからな!」
 言うが早いか駆け出す京一。
「おい、待てよ! 傘持って行かないと、また降ってきた時困るだろ!」
 オレは二人分の傘を持ち、あわてて後を追った。急に桜を見に行こうだなんて(しかもラーメン付きだ)何か下心があるに違いない、とは思いながら。

 中央公園は、雨の合間ということもあってか、普段より人影が少なかった。春、みんなで見た花はもちろんもう散っている。代わりに雨の雫に濡れた桜の葉がつかの間の日射しにきらめいていた。水滴の溜まった蜘蛛の巣、水たまりに映る緑。こういうものを見るたびに、ますます雨が好きになる。
 二人並んで歩いていると、京一は目を細めて桜を見上げ、言った。
「俺、葉桜って好きなんだよな」
「何で花じゃなくて葉なんだ? お前はきっと花が好きだろう、と思ったんだけど」
 明るく賑やかな彼のイメージは、葉桜とはどうやっても繋がらない。そう思ったオレは、眉を寄せて聞き返した。視線が合う。背が小蒔とそう変わらないオレから見ると、その顔はかなり上にあった。その京一の背後には桜の葉。彼の明るめの色の髪がグリーンに映え、見とれるほど綺麗だった。
「……もちろん、みんなで見た桜の花も綺麗だったし、好きだけどよ。でも、すぐ散っちまうだろ? けど、この若葉はこのまま一夏越えるんだよな。そういう、力強さとかさ」
 ふーん、ちゃんと理由があるんだな。
「へえ、京一にしちゃあ深い考えだな」
「なんだよ。俺はいつでも深く深く考えて生きてるぜ?」
 京一は、オレから再び桜へと視線を動かす。
「それから、花が枯れたあとは誰も見てくれないのに、こうやって」
 そばにあった木の幹を拳でタン、と叩いて、彼は続けた。
「何事もなかったように生きていく。それ見るとよ、俺も頑張らねえとって思うんだ」
 オレはちょっと感動すら覚えて、京一の話に聞き入っていた。
「京一って、結構オトナだな」
 オレが転校してきて3ヶ月経ってない。まだ京一について分からないことが、きっと沢山あるんだろうな、なんて思っていると。
「俺が葉桜を好きになったのは、いつからだと思う?」
 それまで珍しく静かに語っていた京一は、初めて強い口調になった。
「え?」
 辛うじて聞き取ったが、オレには話の展開が読めない。
「ずっと好きだったんじゃないのか?」
 すると、京一は首を左右に振ってこう言った。
「葉桜が気になりだしたのは、お前が転校してきてからだ」
 いつの間にか、オレたちは立ち止まっていた。
「俺にはうみが葉桜とやけにダブって見える」
「言ってる意味が……よく分からない」
 京一の言葉に、一瞬体が震えた。京一が、わざわざ二人の時にオレを誘ったワケも。オレと桜が重なって見えるという、そんな例えに込められた意味も。
 わかっていたのに。でも、オレは嘘をつく。
 遠くから、雷鳴が聞こえた。京一は、真顔でなおも続ける。
「うみ、お前さ。俺たちに何か隠し事、ないか?」
「ないよ?」
 しらっと言ってのける。鋭い京一のことだ、少しでも動揺を見せたなら、きっと知られてしまう。オレは、それきり無言になった。すると、京一はやれやれといった感じでため息をついた。
「花が葉桜になってたとしても、俺は見方を変えたりなんかしねえぜ? お前はお前で、それ以外の何ものでもねえよ」
「……え?」
「こんなに近くにいて、俺が気付かねえわけねえだろ?」
 ……ずっと、知ってたんだ。オレが、女だということを。京一の言う葉桜は……オレのこと。
 自分の勝手さに半ば呆れながら、オレは口を開いた。
「オレが女だってこと……知ってたのか?」
 こいつにはやっぱり隠しきれない。それに、もうそろそろ嘘をつくのにも疲れてきていた。誰かに頼りたくて。甘えたくて。分かって欲しくて。
「ようやく、自分の口から言ってくれたな」
 京一の手がオレの頭をくしゃっと撫でる。オレのとは明らかに違う、ごつごつした大きな手。オレがなりきれなかった、『男』の手だ。その手の温かさを感じ、何かが胸に込み上げてくる。オレは、うつむいて唇を噛んだ。……泣かないように。
「言ってくれるのを待ってたんだけどよ。何かこう……じっとしてられなくなっちまって」
 気まずそうに言う京一の表情はあくまでも柔和である。オレをまったく責めない京一の優しさが、身に沁みてくる。
「……いつ知ったんだ? 知ってて、ずっと黙ってたのか?」
「決定的だったのは衣替えだな。前からうすうす感じてはいたけどよ。夏服を着るんなら、その、何だ……サラシはもっときつく巻かねえと、な」
 そう言って京一はそっぽを向いた。照れているらしい。めいっぱい涙を溜めていたオレだが、思わず吹き出してしまう。
「京一、そんなとこばっかり見てたんだろ!」
「見えるものは見とかねえともったいねえじゃねえか! そん時はまだ野郎かと思ってたんだしよ」
 何だか腑に落ちないが、京一らしい理屈だ。
「他のみんなは?」
 知ってるのか、と聞く前に答えが返ってきた。
「見たのは、俺だけだ」
「蹴るぞ。人が真面目に話してるのに」
 真顔で告げる京一に、オレは半ば本気で蹴りを入れようと思った。慌てた京一が、逃げながら言った。
「いや、待てよ! 勘づいてるのは俺だけだと思うぜ。お前だって、まだ誰からも突っ込まれてねえんだろ?」
「ああ」
 確かにそうだ。葵、醍醐、小蒔をはじめとした他の仲間達は、何も疑ってはいないことだろう。彼らを騙しているのかと思うと、胸が痛い。もう慣れてもいい頃なのに、オレは未だに良心の呵責に苛まれるのだった。
「ごめんな。その……いろいろ事情があってさ。女だって、バレちゃうとやばいんだ。やっぱ怒ってるよな、隠してたこと」

 転校する意志を伝えに道場へ行った日の、鳴滝さんの言葉を思い出す。
『君がもっと強くなるまでは、変装しておいた方が身のためだ。君だけでなく、君の周りの人間までも危険にさらされることにもなりかねない』
 真剣な目で『東京は、人ならざるもの達の巣窟になりつつあるのだから』と、告げられたのだった。まだ、奴らに知られてはならない――彼が小さな声でそうつぶやいたのも、オレは聞いた。
 誰に? 何を? どうして? オレの矢継ぎ早の質問には、答えはなかった。

「別に、今は怒っちゃいねーよ」
 やや間を置いて、京一はそう言った。ちょっと拗ねたような、彼独特の表情で。
「そりゃあ最初は、何で黙ってんだ、俺たちは親友じゃねえのかよ、って思ってたけどよ。ちょっと頭冷やして考えたら落ち着いた。オレもそうだし、他の奴らもそうだろうが、誰にだって人に言いたくねえことってのはあるだろ? だから、もう怒ってねえし、秘密にしてたワケも聞かねえって決めたんだよ」
 言い終わると同時に、腹にまで響くような音と共に、空が光った。そして、雨が落ちてきた。オレの代わりに泣いてくれているのだろうか。
「ありがとね、京一」
 男言葉じゃ言えない、本当に心からの感謝の言葉を送る。
「なに、イイってことよ。……まだ、みんなには内緒にしとくのか?」
 空を見上げながら、京一はオレにそう聞いた。
 できることなら、みんなに話してしまいたい。話してしまえたら、どれだけ軽くなることか。しかし、そう考える度に、鳴滝の言葉が脳裡にフラッシュバックする。さとみや焚実のときのように、大切な友人たちを巻き込むのはもう嫌だ。それに比べたら、オレが少しぐらい辛くなったって構わない。そんな小さな葛藤を押し込めて、オレは、つとめて元気に言った。
「ああ。……協力してくれないか? もし知られたら、皆を危険な目に遭わせてしまうかも知れないんだ」
 お前は、もう巻き込んでしまったけど……それでも、他の仲間には隠しておきたい。
「そうなのか? お前、それで誰にも言えずにいたんだな。そんなワケなら、秘密は守ってやるよ。じゃあ、その危険とやらを、俺とお前とで全部受けちまおうぜ。そうすりゃ、みんなも安全、俺は腕を上げられるし、うみの背負うモノは半分。どうだ、完璧だろ?」
 一瞬曇った京一の表情は、すぐにいつもの明るい笑顔になった。彼の表情はくるくる変わって、いつまで見ていても飽きることがない。今日の空模様みたいだな。ふと、そう思った。
 雨が桜の葉を叩く音が、どんどん強くなっていく。
「あはは、京一らしいなあ。じゃあ……お言葉に甘えさせてもらおうかな」
「ああ、ガンガン甘えていいぜ。……俺との間では、もう秘密じゃなくなったんだからな。これからは何かあったら俺に言えよ。言わねえと、今度は怒るぞ」
 頼れる相棒は、そう宣言した。京一が怒るのを我慢したなんて、よっぽどのことだろう。その思いを噛み締めながら、オレは首を大きく縦に振った。
「うん、わかってる。怒られないように、頑張るよ」
 すると、大きな手に再び髪をかき回された。
「よし、合格だ! ……あーあ、ついに本格的に降ってきやがったな。そろそろ飯食いに行くか」
 京一はほとんど何も入っていないと思われる学生鞄で頭を雨からかばっている。オレは、慌てて京一にずっと持っていた彼の傘を渡した。
「お、悪いな」
 そして、続けて自分の傘も開く。
「どういたしまして。詳しい事情は、食べながら話すよ。あ、もちろん、おごりでね」
 オレはそう念を押すことを忘れなかった。
 葉桜は強い雨に洗われて、ますます綺麗に見えていた。


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