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隣にいるだけで

 雨粒は、絶え間なく地面を打っている。それを見つめながら、僕と夕海は途方に暮れていた。
「……雨だな」
「ああ」
「さっきまで晴れてたのに。秋の天気は変わりやすいって、ホントだよな」
 旧校舎での戦闘を終え、真神から僕の店までの道のりの間に雲はどんどん重くなっていき、ついに降り出したのがさっき。あわてて逃げ込んだ公園の木の下で雨宿りをしているという次第だ。
「折りたたみの傘なら持っているが。……使うかい?」
 土砂降りの雨の中を、この頼り無い傘で。しかし、無いよりは数倍マシだろう。そう思って話しかけたのだが、「相合傘?」と、夕海の気のない答えが返ってくる。
「……夕海が嫌なら、僕は濡れて帰っても構わないよ」
「いやだなあ」
 即答だった。
「じゃあ、き」
 言いかけた僕の言葉は夕海に遮られる。
「待った。『君が使うといい。僕のことは気にしないでくれ』って、言おうとしてるだろ?」
「……まあ、だいたいはそんな内容のことかな」
 悔しいことに、読まれていた。しかも僕の口調を真似ているのでたちが悪い。……いつものことだが。
「相合傘は、傘を持ってる人の方……身長の関係で仕方ないんだけど、翡翠が濡れるだろうから嫌だよ。きっとオレに気を使ってさ、オレが雨に当たんないようにするだろ? だからって、翡翠が一人で濡れるのは、もっと嫌だ」
 彼女は、健康的な色の唇を少しとがらせて言った。
「もちろん、翡翠が傘使ってオレが濡れてく、っていうのは無し……なんだろ?」
「それは、僕が嫌だな」
 今度は僕が即答だ。彼女が濡れて帰ると言い張るなら、僕もそれに付き合うだろう。
「じゃ、二人とも傘無しで翡翠の店までダッシュかな」
「……何でそうなるんだい?」
「誰か一人が濡れるよりなら、傘なんか使わない方が良いってこと。……じゃ、競走だからな!」
 そう言いながら、彼女はもう雨の中に飛び出していた人並み以上の脚力の持ち主は、みるみるうちに遠ざかっていく。僕も、走って後を追う――しかし足が地面を蹴ったとたん、右肩に鋭い痛みが走った。
「……っ」
 思わず、立ち止まる。さっき、旧校舎で戦闘した時に受けた傷だった。思っていたよりも深手だったらしい。
(傷口が開いたか…)
 肩がじくじくと痛んだ。傷口から流れ出た血が腕を伝い、指先から地面に落ちて雨に混じる。
「翡翠?」
 自分ではそう長い間立ち尽くしていたとも思えないのだが、怪我に気を取られていたようだ。いつの間にか夕海が引き返して来ていたことに、僕は気付かなかった。
「あんまり遅いからさ、どうしたのかなと思って。そしたら……それ」
 道路に滴った分は雨で洗い流されていたが、ブレザーの袖口から指先にかけて、血が赤い筋を作っていた。悪あがきとも思えたが、一応ひとこと添える。
「……ちょっと、痛むだけだ。何ともないよ」
「何言ってるんだよ! じっとしてろ!」
 彼女は、僕の上着を素早く、そっと脱がせた。ワイシャツは、右肩から背中が紅く染まっていた。にじみ出した血が、染み込んだ雨水と一緒に広がっていく。
「これ、ちゃんと血を止めなきゃ駄目だよ。応急手当てだけして、とにかく早く帰ろ? ……ちょっと、こっち来て」
 二人揃って、道沿いの民家の軒先で雨を避ける。夕海は自分のカバンを開け、ビニール袋の中から包帯を取り出した。
「これ、今日オレをかばってついた傷だろ?」
 手際良く止血をしながら、彼女は意外にもソフトな口調で僕に聞いた。てっきり、怒鳴られるものだと思っていたのだが。
「その通りだよ。……すまない。君には、知られたくなかった」
「どうしてそんな無茶するの? オレ、そんなんじゃぜんぜん庇われてないよ。翡翠が傷つくと……オレが辛いんだから」
「……でも、そうすることが、僕にとってはとても大切なんだ。僕の傘に入ってくれる人が居るということが、どれほど大きなことなのか。それが分かっただけでも、僕は……」

 『飛水』以外に初めてできた、小さな居場所。
 小さな傘に、二人で入ることが幸せ。二人で濡れることだって幸せ。彼女の代わりに雨に打たれることだって厭わない。
 顔を見ているだけで。
 声を聞くだけで。
 隣にいるだけで。

「……幸せなんだ」
 すると、夕海は顔をぱっと赤くした。頬を膨らませて、弱々しく抗議する。
「でもやっぱり、翡翠が濡れるよりだったら、オレが濡れたほうがいいよ」
「それじゃあ僕と一緒じゃないか」
 似たものどうし、といったところだろう。僕に言われて始めて気付いたのか、夕海は心底面白そうに笑った。
「あ、そうだね」
 その笑いがおさまった頃合いを見て、僕は一気に言った。
「……君と違って、僕には他のやり方が分からないんだ。僕は、君からたくさんのことを教えてもらったのに、今の僕には、君に傘を差し出すことしかできない。……でも、もし君さえ良かったら……僕がもっと変われるまで、もう少し待っていて欲しい」
 夕海は目を伏せて少し考えていたが、やがて真剣な瞳で僕を見つめた。
「オレは、翡翠が不器用でも全然構わないけど。……無理はしないって言ってくれるんなら、ずっと待ってる。一緒に、いろいろ覚えていけばいいんだし」
「……ありがとう」
 いつか、この気持ちをもっとうまく伝えることができるようになったら。これまでと、これからのことを、君に――。
「はい、これで終わりだよ」
 ブレザーを僕の肩に掛けてくれながら、彼女は言った。止血が終わったところで、夕海は初めて自分がずぶ濡れなのに気付いたようだ。
「あー、びしょびしょ。着替えなきゃ家に帰れないよ」
 水をたっぷり含んだ学生服の裾を握って、情けない声で言う。
「明日は日曜だし、泊まっていったらどうだい? できる限りのもてなしは、するよ」
「……そうしようかなあ。雨、止まなそうだし」
 雨はますます勢いを増していた。遠くから雷も聞こえてくる。
「じゃあ……着替えたら、晩ご飯の買い物に行こうか。何か、温かいものを作ろう」
「温かいものには大賛成だけど……。『着替えて、傷の手当てをしたら』だろ?あ、翡翠んちの蛇の目傘なら、大きいから二人で入っても濡れないな」
「あれ、相合傘は嫌いじゃなかったのかい?」
 すかさず僕が言うと、彼女は決まり悪そうに答えた。
「嫌いじゃないよ。時と場合によるんだ……って、笑うなよー」
 そういう夕海自身も、僕と一緒に笑い出した。
「……もう。さ、傷にひびかないようにしながらでいいから、行くぞ!」

 大きな傘に、二人で寄り添って入る様子を思い浮かべる。
 ……彼女に待っていてもらうのも、そう長い間ではないという気がした。


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