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笑顔

 初めて如月翡翠と会ったのは、転校してきて間もない四月の末。いい物を揃えていると評判の骨董店の主人が彼だった。オレがその店を見つけたのは、偶然だったのか必然だったのか――。
「いらっしゃい。ゆっくり見ていってくれ」
 彼はにこりともせずにそう言った。客に愛想笑いを振りまかないタイプの商売人のようだった。
(店員? アルバイト? オレと同じかちょい上くらいの歳に見えるんだけど、やたら落ち着いてるな)
(着物か。風流って感じ。似合ってるよなー。すごく綺麗な顔してるし、絵になるってこういうことかな)
 そんなのが、彼の第一印象だった。
 そうこうしている内に、自分好みの商品が見つかった。
(うわ、この猫かわいい……)
 その小さな招き猫は、今もうちに居る。

 それ以来、オレは皆も連れてちょくちょく店を訪れるようになった。もちろん、会話なんかはほとんど無く、品物をざっと見て、必要な物を買いこむだけだったけど。
 一人で来たときには自分が欲しい物も買った。一輪挿し、指輪、そして招き猫。男子学生の買い物じゃなかったと、家に帰ってから苦笑いしたこともよくあった。
 彼とオレが初めてまともに話したのは、梅雨も半ばの雨の日だった。昼まで持ちこたえていた天気が学校からの帰り際に崩れ、慌てて骨董店に駆け込んだ頃には土砂降りになってしまっていた。迂闊なことに、傘は持っていなかった。学生服が限界まで水を吸い込んで、重く冷たい。
 店の入り口で、無駄な抵抗と知りつつ『ハンカチで吸い取り、絞る』という作業を繰り返していると、見かねた翡翠が近付いてきた。入り口を塞いで立っていたオレは、普段の店主の態度から、咄嗟に(やばっ、怒られる)と考え、慌てて謝る。
「す、すいません、入り口の前で。邪魔ですよね」
「いや、どうせこの雨では他の客は来ないよ。今日はもう閉めようかと思ってね」
「ああ、じゃあ帰ります」
(あああ、やっぱり怒ってるのかな? 店閉めてまでオレを追い出したいのか?)
「いや、どうせ閉めてしまうんだからゆっくり拭いていくといい。これ、使うかい?」
 そう言って、翡翠は持っていたタオルをオレの方に差し出した。
(え? 貸してくれるの?)
「あ、ありがとう! 助かります」
(なんか、今日はすごくいい雰囲気だな。気難しそうに見えるけど、実は結構いい奴じゃないか)
 そんなことを思いながら借りたタオルで制服を拭っていると、翡翠に話しかけられた。
「その学ラン、真神だろう? 新宿から雨の日にまで、よく来るね」
 いつも無愛想な店主の、予想外の言動に戸惑っていたオレは「ここ、来させるだけのものを置いてるから」とだけ答えた。実際、この店が無かったらオレたちは闘ってこられなかっただろうと思う。
「そうかい? 新宿にもこれくらいの店ならありそうなものだが」
「うーん、それから、ここにいるとなんか落ち着くし」
 それも事実である。この店は流れる空気が心地よい。
「店先では寒いだろう。とりあえず、中に入ったらどうだい?」
 この日の翡翠は、普段からは考えつかないほど(と言っては失礼だが)フレンドリーだったのである。
「ありがとう。じゃあちょっと上がらせてもらっていいかな? ……あ、オレ、緋勇夕海っていうんだ。真神の三年」
「僕は如月翡翠。王蘭の三年だ」
「名字は知ってた。看板に書いてあるから」
「もっともだね」
 翡翠は、ふっ、と笑った。ちょっと口の端を上げただけの、自嘲含みともとれる笑い。それでも、初めて見た彼の笑顔は、思った通り綺麗だった。でもなぜか、今にもいなくなってしまいそうな、儚げな感じがした。
 その後も、買い物に行っては少し話す、という関係は続いた。もっとも、それ以上の発展は無かったけれど。
 そして、オレ達と彼はプールの前で出会った。

 ……ぼんやりと春からの出来事を思い出していたオレは、京一の声で我に返った。
「うみ、危ねえ! 上が崩れる!」
 急に現実に引き戻されたオレは、一瞬何が起きているのか分からなかった。地下洞窟の天井が崩れ落ちてくる。避けてる余裕はないようだ。
「わあっ!」
 およそ女らしくない(実際男の格好をしているわけだが)叫び声を出し、降り掛かる岩を受けようと態勢を整える。
 と、体がふわりと浮いた。落ちてくる岩の合間を縫うように、オレは誰かに抱えられて移動する。水しぶきが顔にかかる。早く、静かで、流れるような動き。これは……誰?
 おとぎ話のお姫様よろしく抱え上げられたオレの頭上から声がする。
「無事か? 怪我は?」
「あ、ああ。大丈夫。ありがとう」
 声の主は如月だった。降ろしてもらい、改めて礼を言う。
「ほんと、ありがとな。何があったのか、良く分からなかったんだけど」
「……飛水流の技だ。岩は砕いたが、間に合わなくて結局抱えて逃げることになったんだが」
 それで水がかかったのか。良く見ると、周りはそこら中水浸しだ。
「すごいな、忍びの技って」
 オレは、率直な感想を述べる。如月は、少し笑って額に手をやった。それは何気ない動作だったが、オレはその時、彼の額を流れている血に気付いた。
「あ、お前怪我してるぞ! 大丈夫か?」
「これくらい、何てことない」
 確かに、そう深い傷では無さそうだけど。
「でも……」
 そうこうしているうち、皆が駆け寄ってくる。京一がオレに聞いた。
「怪我してねえか、うみ」
「オレは大丈夫。如月が助けてくれた。悪かったな、オレの不注意で怪我させて」
 そう言うと如月は「いや。僕が勝手にやったことだ」と言った。いつにも増して不機嫌そうである。
(うう、怒ってる。いつもより恐い顔してるよー)
 オレは、ぼーっとしていた自分の阿呆さ加減を呪った。後から聞いたところによると、オレを抱えたときの男にあるまじき感触(と、翡翠は言った)解釈に困っている内に、そんな顔になっていたのだそうだ。オレはてっきり、怪我させたことを怒ってたんだと思ってたんだけど。
 翡翠にはオレの性別、あっという間にバレてたってことか。今の状況から考えると結果オーライって気もするけど、それにしても不覚だった……と、今になって思う。

 深き者たち。変生した水岐。鬼道衆の女鬼、水角。 彼等を前にしたとたん、翡翠は変わった。よく練り上げられた冷たい気が、こちらに背中を向けた彼から発せられている。静かな怒り――何に対して怒っているのか。目の前の敵か、それとも、一人で負うには重すぎる自分の使命に対してか。それが分からないまま、オレ達はしばらく翡翠の気迫に押されていた。
 彼はこちらを振り向いて言った。
「ここは、僕一人にやらせてくれないか」
と。
「何言ってんだよ、如月クン! 一人で背負い込むことないよ!」
 小蒔と京一が、即座に意義を唱える。
「そうだ! 俺らは、この時のためにここまで来たんだぜ!」
「これは、僕の……飛水家の問題だ。君達を巻き込んでしまったのは済まないと思っているが、けじめは僕がつけるべきなんだ」
 彼は、ゆっくりとそう答えた。葵も、醍醐も一緒に闘おうと呼びかける。しかし、如月は応じず「君達には関係ないことだ」と、言い捨てた。
「僕の使命は、命を賭けてでもこの街を護ること。君達には、怪我をさせたくない。僕に、任せてくれ」
 声がやけに遠くから聞こえる気がする。命を、賭ける。紗夜のように? そんなこと、オレの前で、言うんじゃない。
 まだ、彼女を失って間がなかった。感情が不安定だったのだろう。心に浮かんだことは、いつの間にか口から迸っていた。
「如月ッ!」
 それまで無言だったオレの突然の大声に、翡翠を始めとした味方ばかりでなく、敵の動きまでもが鈍る。もう自分を止められなかった。今、言わないとこの前みたいに後悔する。
 驚いた仲間達がオレを見つめる。
「命を捨てたあと、自分の周りには、何も残らないとでも思ってるのか? そんなはずないだろ! 亡くしたものは、どんなに願っても帰って来ないんだ。大事なものを失うことがどんなに辛いか知ってるのか!」
 彼は目を閉じて聞いている。
「ねえ、夕海。少し落ち着いて」
 葵がフォローを入れる。少し躊躇したが、残りの息を使い切って叫んだ。
「自分を大事にできないやつに、何かを護れるわけ無いだろッ!」
「うみ……」
 京一が、苦しそうに呟く。あの時は京一に頼り切ってしまったから、オレがどんなになったのか彼は知っていた。
 醍醐が冷静に状況を把握し、静かに言った。
「夕海。敵が多すぎる。今は目の前のことだけを考えるんだ」
 一番言いたいことを言ってない。もう一言だけ許せ、みんな。
「オレは、お前が死んだら泣くよ。悲しいから。だから、オレが護る。絶対に死なせない」
 如月の目が開かれた。



 もう、秋。庭の紅葉が見事に色づいて、眩しいくらいだ。
 如月家の居間。いつものように熱い玉露をすすりながら、オレ達は雑談をしていた。
「なあ翡翠、今はもう、この街を護るために命を捨ててもいい、なんて考えてないよな?」
「もちろん。君に教えられたからね。……僕がいなくなったら、君は笑ってくれなくなるんだろう?」
 そう言って、翡翠は微笑んだ。とても近くで見たその笑顔は、やっぱり綺麗だった。あの雨の日に見たものとは違って、寂しさや儚さはもう感じない。
 オレは、ずっと引っかかっていたことを聞いてみた。
「翡翠は、ずっと人を遠ざけてきてたんだろ?初めて話した日、どうしてオレにあんなに親切にしてくれたんだ?」
 黄龍と玄武。運命であったとしても、幸せだけれど――普通の高校生どうしとして出会うこともできたんじゃないかな、と思うときもある。
「ずいぶん失礼な質問だね。……まあ、そう思うのも無理は無いかもしれないが」
「宿命? 必然? 偶然?」
 オレは、彼との出会いはごく自然なものだったと感じていた。でも、翡翠はどうだったんだろう。
「……僕の自発的な意思だよ」
 えらく難しい顔で考え込んでいた翡翠は、かなりの間があってから、そう答えた。
「あ、翡翠、照れてる」
 オレは、ニヤニヤ笑いながら更に聞いた。
「オレと話をしたかったから、したってこと?」
「そういうことだろうな」
「なんか、フツーのナンパみたいだな、それって」
「男装している女子高生は普通なのかい?」
 そういえば、あの時はまだ女だとバレてはいなかったんだっけ。
「……悪かったな、普通じゃなくて」
 こんな他愛ない会話ができるようになるなんて、出会った頃は思いもしなかった。心の内を話してくれるようになるまで、結構長かったけど。
「話がしたかった、ってなんかピンと来ないよなー。もっと具体的に言ってくれないと」



 難しい顔で黙ってしまった夕海を前に、僕も考える。
 どうしてだったのだろう。初めて彼女に話しかけた日。あれは、ただ単純に、この男と話がしたい、と。そう思っただけだったような気がする。
 そんな気持ちになったのは初めてだったから、分からなかっただけで。でも、今なら言える。

「きっと、君と友達になりたかったんだろうと、思う」
 ゆっくりと区切るように、自分に言い聞かせて、僕は言った。
「友達? オレと?」
「ああ。……もしかしたら、誰かに頼りたかったのかもしれないな」
「ガンガン頼りにしていいよ。オレも、翡翠に頼るから。何なら、友達以上でもいいけど?」
 彼女は、そう言ってからえへへ、と笑った。
「まあ、頼ってもらえるように頑張るよ」
 つられて、僕も笑っていた。笑いながら、友達という言葉で蘇る、地下洞窟での一戦を思い返す。

 ただ使命のために生きてきた自分を、目の前の少年は欲してくれている。初めての経験だった。
 僕がいなくなったら、緋勇は悲しんでくれると言う。そんな人間、いなかった。臆病な僕は、失うのが恐くて、近寄らせすらしなかった。
 まっすぐ彼の目を見た。長い前髪の隙間からのぞく漆黒の瞳は、溜まった涙で揺れて見えた。直感的に『彼も、何か重いものを背負っている』と、感じた。この少年が僕を護ってくれるという。それなら僕にも、君を、この街を、護ることができるのだろうか。
 大事な友人を護りたい。華奢な少年から、一歩踏み出す勇気をもらった気がした。
「一緒に闘ってくれ。君達は、僕が護ってみせるから」

 ……そして、闘いの後には君に笑顔を見せてあげたいから。君の笑顔が見たいから。互いに相手を護ることができたと、一緒に喜びたいから。
 これからも、ずっと。
 目の前にいる、護るべき少女のために生き抜こうと思う。
 そして、笑おうと思う。


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