紗夜が炎の中に消えてから、眠ることができなくなっていた。
眠ると必ず夢を見るから。
紗夜が、重そうな扉を開けている。
真っ赤な扉だ。
そして、やっと開いた扉の向こうから射す、赤い光。
その中に、紗夜が立っていた。
あの時のような、綺麗な笑顔で。
あたしは光の眩しさに、思わず目を閉じてしまう。
目を開くと、紗夜はどこにもいない。
扉も消えている。
あるのはただ、暗闇だけで。
いくら呼んでも探しても紗夜はいない。
いつもそこで目が覚めるのだ。
あわてて見回しても、やっぱり誰もいない。
『ずっと、いてやるから』
心配して様子を見に来てくれた京一の言葉が、あたしを悪い夢から連れ出してくれた。
京一に手を握ってもらって横たわる。
瞼が重い。でも、恐い。
またあの夢を見るのだろうか?
これまでと違う夢を見た。
扉の向こうに消えたのは、紗夜じゃなくて京一。
やっぱり眩しくて目を閉じる。
恐る恐る目を開けると、白い光の中、あたしの前には、ちゃんと京一がいた。
『ずっといてやるって、言っただろ?』
そう言って、あたしに笑いかける京一。
何故か溢れてきた涙で、何も見えなくなった。
そんなあたしの頬を伝うものを、京一の大きな手が力強く拭ってくれる。
そこで、あたしは本当に目覚めた。
温かい手を感じながら。
隣には心配そうにあたしの顔を覗き込んでいる京一がいた。
しっかりとあたしの手を握って。
もう片方の手は、夢の中と同じに、あたしの頬に当てて。
ほんとに、いてくれた。
『……その、泣いてたみたいだったから、思わず涙拭いちまって。起こしたか?』
彼は、苦笑いしながらあたしに話しかける。
『ううん。……ずっと握っててくれたの?』
『ああ。ずっといてやるって、言っただろ?』
『ありがと。迷惑かけて、ごめんね』
『謝んなって。こんな時ぐらい、頼れよな』
『京一の夢、見たよ』
『……そうか。どうだ、イイ夢だっただろ?』
『うん』
あたしの手を握る京一の温かい手に、力がこもった。
ああ。
あたしは、その言葉が聞きたかったんだ。
ずっと隣に居てくれるって。
いなくならない、って。
そう思ったら、嬉しくてまた涙が出た。
もう、あの夢は見ないだろう。
この人が隣に居てくれる限り。
うみが学校を休みだして、6日になる。そして、紗夜ちゃんがいなくなってから、3日になる。
3日前に別れた時のうみを、俺はきっと、ずっと忘れない。死蝋にまる3日間も捕われて実験を受け、その上紗夜ちゃんを失って。それなのに、彼女は笑っていた。お世辞にも笑っているとは言えない顔で。感情が入っていない、触ったら砕けてしまいそうな、薄っぺらい笑顔だった。
『その……大丈夫か、うみ? 俺、送っていくぜ?』
『ありがとな、京一。そりゃあ辛いけど、でも、乗り切らなくちゃいけないことだし。ほんと、平気だからさ、心配しないでくれよ』
『……』
『じゃあ……みんな、また、明日な』
あの時、言えば良かったのだろうか。心配なんだよ。お前が嫌だって言っても、無理にでも送って行くからな!と。そして、周りに誰も居なければ、間違い無く怒鳴っていたこと。
(こんな時に惚れた女を一人で放っておけるかよ!)
普段は使わない頭で精一杯考えた言葉を口にする前に、うみは走り去ってしまった。小さな後ろ姿が視界から消えるまでに、そう時間はかからなかった。それ以来、俺たちはうみに会っていないのだ。
電話をかけても留守電だ。携帯にも出ない。しかし、一人暮らしのうみに連絡を取るには、それ以外に方法を思いつかない。
『後は、直接夕海の家に行ってみるしかないな』
醍醐が提案する。
『そうだね。うみ、元気だといいんだけど』
元気ならば学校を休む理由など無いと気付いた小蒔が、言ってから唇を噛む。
『じゃあ、早速だけどよ。今日の帰りにでも寄ってみようぜ?』
『ボク、行くよ! 葵も、もちろん行くでしょ?』
だが、美里は眉根を寄せ『誰か一人が行った方がいいんじゃないかしら……』と言う。
『えっ……どうして?』
『夕海のことだから、私達に余計な心配をかけないようにって……きっとあのことで、一人で自分を責めて、傷ついていると思うの。比良坂さんのことだけで頭が一杯になって、他のことに手が回らなくなって、だから学校に来る余裕も無くて……。そんなときに私達が大勢で押し掛けていったら、かえって逆効果にはならないかしら』
『……確かに、会いに行ったとしたら、夕海は俺たちに気を使うだろう。それが更に、あいつの負担になる可能性はあるな』
こんな時にも醍醐と美里は極めて冷静だ。それがうらやましくもあり、腹立たしくも感じる。情けないが、今の俺にはそんな余裕は無い。
『でも、心配じゃねぇか。それに、俺、もうじっとしてられねえんだ』
別れ際の貼り付けたような笑顔が鮮明に思い出される。あのとき、強引にでも引き止めておけばと悔やんでももう遅い。レベルの差は途方もないが、彼女が3日前に感じたのもこんな気持ちだったろうかとふと思う。
『もし誰か一人っていうんなら、俺に譲ってくれねぇか。皆も俺と同じくらいあいつのこと心配だってのはわかってる。だけど、今あいつに会わねえと……俺、自分が許せなくなる。頼む』
無理を言って代表権を譲ってもらうと、俺はその後の授業をサボってうみの家へ向かった。これまでに2、3度尋ねたことのあるマンション。アルファベットで書かれた表札の前で立ち止まる。郵便受けにかなりの量の新聞が溢れている。新聞の束を抜き取って抱え、インターフォンに向かって話す。
「うみー、いるのか?京一だけど」
何度呼んでも返事はない。苛立った俺は、ドアノブをひねってみた。予想に反し、ドアは簡単に開いた。夢中で靴を脱ぎ、室内に入ると、カーテンが閉められており、中は薄暗くて良く見えない。
「うみ! 俺だ。京一だ」
カーテンを開けに行こうと窓際に走り寄った京一の耳に、小さな声が届いた。
「……きょ……ち……?」
「うみ? いるんだな!」
「……きょう、いち……」
とりあえず生きているのが確認できただけだが、ほっと胸を撫で下ろす。最悪の事態---自殺なんかされてなくて、良かった。
「うみ、どこだ?」
そう言いながら、暗さに慣れてきた目で部屋の中を見回す。と、小さめのパイプベッドの上で、何かが少し動いた。ゆっくり近付いていくと、布団にくるまって小さくなっている夕海が怯えるようにこちらを見ている。
「連絡がねえから、心配になってよ。来ちまった」
久しぶりに見た彼女は、この3日間でまた少し痩せたようだった。ただでさえ死蝋の人体実験でやつれていたのに。腫れ上がった眼、ボロボロになった壁紙と血のにじんだ爪。一人でずっと泣き続け、痛みも覚えずに壁を引っ掻いて、3日間も耐えていたのだろう。
「……きょおいちいっ……」
すがるような視線と、自分の名を呼ぶ甲高い声に、切なくなる。
うみも、俺たちも、人一人の死を正面から受け止められるほどには、まだ強くない。それが自分に思いを寄せていた、あるいは親友だった娘であれば、そのダメージはいかばかりか。
俺は、こいつの実戦の強さしか目に入らなくて、心の脆さなんか忘れていたのかもしれない。でも本当は、みんなで背負って軽くしてやらなければならなかったのだ。ただでさえ、実は女だ、という秘密を持っていたのだから、この3日はさぞ重かっただろうに。
(ごめんな、うみ。あんなことの後だってのに、一人で苦しませちまって)
秘密を知っていたのは俺だけだったんだ。俺がやってやらないで、誰がこいつと荷を分け合えると言うのか。
およそ男らしくない薄い肩を優しく包むように抱いて、改めて思う。こんなに小さな身体で戦ってるんだな、お前は。俺、今からでもお前の力になってやれるのか?まだ、間に合うか?
「一人にしちまってホントに悪ぃ。俺がずっといてやるから。もう、大丈夫だ。な?」
まるで子供をあやすように、優しくゆっくり言い含める。それを聞くなり、彼女はベッドの端に腰掛けていた俺に寄りかかり、体重を預けた。思っていたよりも、軽い。
「……ううっ……紗夜が、紗夜があっ」
俺の制服の裾をギュッと握りしめ、堰を切ったように泣き叫ぶ、うみ。どうすればいいかわからなくて、俺はただただ背中を撫でてやるだけだった。
「……京一……あたし………守れなかったよ……」
その様子は、普段男を演じているとはとうてい思えないほど、か弱いものだった。嗚咽に混じって、切れ切れの単語が聞こえる。何か言いたいのだろうが、聞き取ることができない。間近で見ると、顔色がかなり悪い。目の下は落ち窪み、肌はツヤがなく頬が痩けていた。話を聞いてやりたいのはもちろんだが、今はゆっくり休ませるのが先決だろう。
「後でいくらでも聞いてやるから。ずっとちゃんと食べたり寝たりしてねえんだろ?」
返事は聞こえなかったが、うみはかすかに頷いた。
「まず横になって休めよ。眠らなくても、体は休まるはずだからな」
「ずっと……」
うみは、いてくれるの、と続けようとしたようだ。泣き続けたのと水分をとっていないのとで声が掠れてよく聞こえない。
「ああ。ずっと、だ」
いつまででもいてやるよ、という台詞を飲み込む。取り繕うように、慌てて付け足す。
「米があるなら、俺が直々に炊いてお粥でも作ってやるけど」
「……今は、いい。食べたくなったら、京一の手作り頼むよ」
少し、元気が戻ってきたのかもしれない。少しだけ、うみの表情が弛んだ。
「じゃ、手作りの飯の前にまず休養だな」
意外にもおとなしく布団に潜り込む彼女を見て、俺は思わず安堵のため息を漏らした。
しばらくたった。ひとまず泣き止んでベッドに横たわったものの、なかなか寝つけない様子のうみに呼び掛ける。
「眠れねぇか?」
「うん。……すごく、眠いんだけどね」
うみは、一度言葉を切って俺の方を向いた。確かに、眠そうである。
「夢を見るから、嫌。すごく嫌な夢」
「夢? どんな夢だよ?」
うみは、今日はずっと女言葉で話している。こんな状況で不謹慎だが、俺に心を許しているというのが分かって嬉しい。
「紗夜が、またいなくなっちゃう夢。……あたし、紗夜を追っかけてるんだけど、射してきた光が眩しくて思わずまばたきしちゃうんだ。目を開けても何も見えなくて、真っ暗なの。誰もいないの」
「だから寝てねえのか?」
「うん」
残酷だ。寝ても、起きても、紗夜ちゃんの事を考えて。
もう、いいだろ。3日も苦しんだんだし、これからもきっとこいつは悩み続けていくはずなのに。せめて今くらい、ゆっくり休ませてやりたい。
「よし、じゃあ俺のこと考えながら寝ろ。そしたら、そんな夢見ねえから」
「え?」
「約束だ。お前が寝てる間、俺はずっと手を握っててやる。絶対いなくならない。そう信じて、眠るんだぞ?」
うみは、最初こそきょとんとしていたものの、すぐに吹き出した。
(……やっと笑えるようになったか)
もっと楽にしてやりたい。もう、一息だ。
「……ふふ。京一、すごい自信だね」
「ああ、満々だ。ずっといてやるから、安心して俺の夢見ろよ?」
「うん」
差し出されたうみの手は、俺の手の中にすっぽりと収まった。
「おやすみ、京一」
「おう。ゆっくり寝ろ」
どれほど疲れていたのか、すぐに規則正しい寝息が聞こえてくる。あとは、うなされないことを祈るばかりだ。彼女の寝顔を見つめながら、俺は待った。
うみが寝入って、一時間程たっただろうか。それまで静かに眠っていたうみは、徐々に落ち着かなくなってきた。声が小さくてどうにも聞き取れないが、うなされて寝言を言っているようだ。
「うみ」
思わず呼び掛ける。俺とうみを繋いでいる手に視線を落とす。手を握ることしかできない自分に、やりきれないものを感じる。
やがて、俺は彼女の頬を伝う涙に気付いた。俺では、駄目だったのか?
(泣いてるのか)
夢でもまた、うみは紗夜を失うのか。そんな夢なら、見なくていい。俺は、うみの顔に手を伸ばし、乱暴に拭いた。起こしてもいいと思った。
そして、うみはうっすらと目を開けた。
「……その、泣いてたみたいだったから、思わず涙拭いちまって」
休ませてやりたかったけど、見ていられなかったから。自分の勝手さに、苦笑いする。俺、何してんだろ。
「起こしたか?」
「ううん。……ずっと握っててくれたの?」
まだ目が覚めきっていない彼女は、眠そうな声で尋ねる。
「ああ。ずっといてやるって、言っただろ?」
「ありがと。迷惑かけて、ごめんね」
笑顔で答える、うみ。屈託の無いその笑いは、本当に久々、実に6日振りのものだった。
「謝んなって。こんな時ぐらい、頼れよな」
迷惑なんて思ってない。うみのそんな顔が見られるなら、俺はいくらでも頑張れる。
「京一の夢、見たよ」
一転、真剣なまなざしでうみは言った。思わぬ言葉に、俺は息を飲んだ。そして、顔の筋肉が弛緩してくる。紗夜じゃなく、俺の夢を見てくれていたという。
(これで、良く眠れたらいいな)
その台詞のかわりに、うみの手を強く握る。
「……そうか。どうだ、イイ夢だっただろ?」
「うん」
「嫌な夢なんか、もう見なきゃいいな」
「……うん」
言った側から、うみの目からは大粒の涙が溢れだしていた。
「おい、何で泣いてんだよ?」
「……嬉し泣き」
「ああ?」
訳が分からない。俺の頭が回転する間もなく、うみは再び眠りに落ちていこうとしていた。
「起きたら、いっぱい話すことあるから。覚悟、しといてよ……」
「幾らでも聞いてやるから、とりあえず好きなだけ寝ろ」
諦めた俺は、ベッドにもたれかかった。ふと気付くと、外はすでに夕日の色が鈍くなっていく時間だった。
いつか、彼女が心から安らかに眠れる日が来ますように。紗夜の死がこれ以上、この小さな手の持ち主を苦しめませんように。願わくば、その時隣にいるのも俺でありますように。
彼女の手を握ったまま、俺も眠りに落ちていく。訪れたまどろみの中で、柄にもなく何かに祈りながら。