飛行少年

トリックスター

 冷たい風が、人混みの歩道を吹き抜けていく。それに誘われてか、新屋は大きく一つくしゃみをした。
「寒っ」
 身震いする彼の仕草は大げさで、ついからかいたくなる。私は「噂されてるんだよ」と笑った。
「そっか。今の時期に俺の話してるなんて、プロ球団のスカウトかな」
「何言ってるの。野球推薦、ほぼ決まりのくせに」
 私と違って、と付け足そうとして何とか踏みとどまった。もちろん新屋は高校を卒業しても野球を続けるつもりで、すでに条件に合った大学に狙いを定めている。
 私の方は、この時期になっても進学先はまだ白紙に近い状態と言っていい。進みたい方向はある程度決まっているが、あとは学力次第。さらに希望を言うなら、できれば新屋と同じ街――これは、あくまで希望だけれど。
「噂されるほどのピッチャーになりたいよ。県大で負けて以来、話にも上らなくなるんだもんな」
 我が校野球部の今期の最終戦績は『県大会準優勝』だった。決勝で敗退して以来、県下一の右投手、新屋への熱視線は、とりあえず一段落といったところらしい。
「仕方ないよ。部活、世代交代しちゃったんだし」
「そりゃあそうだけど」
 新屋は子供っぽく口を尖らせてから、すぐにへらりとした笑顔を浮かべた。
「今さ、秋大で勝ち進んでんだろ。嬉しいんだけど、みんなで野球できるのが羨ましかったりして、見てる方としては複雑」
 二年生中心で臨んだ秋の大会、新屋の後輩たちは順調に準々決勝まで駒を進めている。作り笑いは剥がれ落ちるのも早く、言い終える頃には、新屋は素のままの顔に戻っていた。
 複雑、という言葉でさらりと流しているけれど、考えてみれば、新屋が野球から離れるのは高校受験ぶりのことだろう。部活動という支えを失った今は、彼にとっては辛い時期かもしれない。
「野球しないのって、三年ぶり?」
「うん。始めて八年目だけど、これだけ長く休んでるのは三年ぶり二回目――って言うと、甲子園っぽくない?」
「……あ、うん、それっぽい」
 こんなことまで甲子園、か。学校の成績はそこそこ良く、野球バカとまでは言えない新屋ではあるが、やはり、野球少年がそのまま高校生になったという感じだ。
「最初は、これでしばらくキツい練習から解放されるって思ったりもしてたんだ。でもさ、自分は軽い投球練習とか、ランニングと素振り程度しかやってないのに、テレビで試合とか見ちゃうと、もうね。すぐにでも球場まで飛んで行きたくなるわけ」
 彼は何気なく、タン、と地面を蹴った。
 ――あ、ダメだ。飛んでしまう!
「待って!」
 私は反射的に声を上げ、彼の両腕の袖を思い切り掴んでいた。
「ちょ、土崎さん」
「だって、飛んだら困る――」
「ほら、みんな見てるから」
 はっとして周囲を見回すと、行き交う人々がちらちらとこちらに視線を向けているのが分かった。日曜の午後、人波の真ん中で、カップルの片方が『待って』と叫んでいては、人目が集まるのも当然のことだった。
 私は慌てて彼から手を離し、自分の体の後ろで組む。
「そこまで厳重にしなくても。焚き付けたの、俺の方だし」
 新屋は、頭を掻きつつ苦笑いした。
 似たようなシチュエーションで、彼と接近した覚えがあった。言うまでもなく、あの日、放課後の教室でのことだ。となると、これもまた、彼の企み。
 張本人の表情を伺うと、いたずらっ子のような、少しだけ意地の悪い顔でこちらを見ている。
「……あれ? 私、また騙された?」
「土崎さんって、そういうとこが楽しいよね」
 あははは、と豪快に笑う新屋を見ていたら、鈍い私でもさすがに少し腹が立ってきた。
「私は楽しくないってば」
 せめてもの抗議にと、ふくれっ面をしてみたものの、彼は全く意にも介さない様子だ。
 それなら最終手段。立ち止まったままの新屋を置いてけぼりに、さっさと歩き出そうとした私の背を、殺し文句が追いかけてくる。
「で、俺はそういうとこが好き」
「……ずるい」
 これもまた、彼の掌の上。

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