雪椿 返り咲き

意地が悪いなんてもんじゃない

 橙南高校は世間でいうところの進学校で、大学への進学率がわりに高い。三年生は、一月から基本的には大学受験に向けた自主学習の期間に入り、登校が強制されなくなる。要するに、『学校へは来ても来なくてもいいから勉強しろ』という方針なのだ。
 ここ数日でいよいよ冬本番の寒さが訪れ、なじみの防火扉の外は一面雪景色になり、毎年のことながら若柳先生によって立入禁止が言い渡された。思い出すのも恥ずかしい――私は前の冬、そのことで先生に迷惑を掛けてしまったので、今年はおとなしくそれに従っている。
 他人事のようだけれど、センター試験も終わって、いよいよ本格的に受験シーズンに突入。そろそろ、学校で三年生を探すのは困難になってきた――そんな頃。

『……で、この問題の考え方が分からないんですが』
 いつものように引き戸をノックしようとしたところで、私は思わず構えた手を止めた。部屋の中から、若柳先生ではない声が聞こえたのだ。今までだって先客がいたことはたびたびあって、その日は仕方なく会うのを諦めたり、時間を潰してから再訪問したりすることもあった。
 しかし、今日はそのどれとも似つかない事態が展開しそうな予感がひしひしとしている。何せ、中から漏れていた声は私の親友、蔦真結子のものだったから。
 蔦ちゃんは私と先生の間の事情を知っているから、私が入っていっても構わないかなとちょっとだけ考えたけれど、彼女も同じく国公立大受験組だ。蔦ちゃんが一人で若柳先生に質問しにくるなんてことは初めてのように思うし、そこまでしても気になる疑問なら今のうちに解決しておきたいだろう。そう気を回して、私は廊下で彼女の用事が終わるのを待つことにしたのだった。
 私の判断は正しかったのだ――そこまでは。

 そのまま壁にもたれて立っていた私に、蔦ちゃんの声が届く。
『……まだお聞きしたいことがあるんですけど』
 これは立ち聞きをしてしまった言い訳にしかならないのだけれど、彼女は演劇部の看板女優として日々稽古を積んできただけあって、見事に通る声の持ち主だ。地声も他の女子よりは大きく、つまり、廊下にいる私にも彼女の声は聞こえてくる。
『――』
 先生が、何か答えた。先生もよく響くいい声をしているのだけれど、低いだけに廊下では聞き取りづらい。きっと、先生のいつもの受け答えなら『なんだ、言ってみなさい』といったところだろうか。
『先生は、この後もずっと、あの子を幸せにしてくれますか?』
『――?』
『椿のことです。……分かってますよね』
 ――何聞いてるの、蔦ちゃん。
 突然の話題に、私は思わずその場にしゃがみ込んだ。さっきまでは、確かに生物の問題について議論をしていたはずだ。まさか、いきなり自分のことに移るなんて。
『私、来週からは来ないんで。でも椿は先生に会いに、きっとまだ学校に来ると思います。先生はそんな人じゃないって思ってますけど、私のいない間に椿が泣くようなことがあったら我慢できないし』
 私は目を見開いたまま、冷たい廊下に座り込んでいた。しかし乱入するわけにもいかず、とはいえここでそっと去るという選択肢も取れずに、私は結局その場で続きを聞く。もはや、自分が逃げ出したいのか、先生の答えを聞きたいのかよく分からなかった。
 彼女は、私がここに来ることを知っていて、わざとタイミング良くそんな質問を繰り出したのか。それとも、何の作為もなく、私がたまたまちょうどいい時間に来てしまったのか。
 もちろん、二人の会話は私になどお構いなしに流れていく。
『先生があの子を大事に思い続けてくれるなら、椿はきっとずっと幸せでいられると思うんですよ』
『――』
『勝手な言い分だっていうのは分かってますけど、私はあの子が幸せでいて欲しいんです。最近の椿は、卒業の話をすると不安そうになるときがあって』
 蔦ちゃんの声がわずかに震えていることに、私は気付いた。付き合いが深い私にしか分からないことだと思うが、これは彼女が怒りを我慢しているときか、泣かないように耐えているときか――そのどちらかの癖だ。そして今日はおそらく、後者。
 彼女には隠せなかったんだ、と私は唇を噛んだ。
 確かに、卒業するのが怖いという気持ちはあった。そんなことでは揺らがない絆だと思ってはいても、先生と毎日は会えなくなることや、教師と生徒という大きな繋がりが切れてしまうことはすでに分かっている。
 加えて、まだ先が見えない入試、これまでの生活との別れ、新しい生活の始まり、そのすべてに明るさと不透明さの両方が同居していて、白黒付かないまま日々が過ぎていく。ちょうど、高校入試を控え、先生と初めて会ったあの頃のような気分に似ていた。
『……だから――私には答えなくてもいいけど、あの子を安心させてあげてくれませんか』
『――』
 身体はすっかり床の温度に馴染んでしまって、冷え切っていた。私が立ち上がったせいで動いた廊下の空気を暖かく感じて、初めてそれに気付く。
 この先は、聞いてはいけないような気がした。きっと蔦ちゃんも、私には聞かれたくないはずだと思う。それに、私が答えを得たいと願うのならば、私自身が先生に直接尋ねるべきことなのだから。

 私は、三十分ほど図書室で時間を潰してから再び先生の元を訪れた。戻ってきたときには蔦ちゃんはすでにおらず、先生はいつもと変わらない様子で机に向かっていた。
「藤倉か」
 先生は片眉をやや上げてそう言うと、私に椅子を勧めてくれた。
 学校では『藤倉』『先生』。そういうルールを作り、私たちは律儀にそれを守っていた。名前を呼ぼうと思えばいつでも呼べる――そういう余裕が生まれたからだろうと思う。そうでなければ、暇さえあれば名前を口にしていたいくらいなのだから。
 何も知らない先生は、「さっきまで蔦が来ていたが」と私を見る。
「一緒ではなかったのか」
「いいえ。……私はさっきまで図書室にいたので。会いませんでしたよ」
「そうか」
 嘘はついていないけれど、少しだけ胸が痛んだ。途中までながら、話は聞いていたのだ。
 眉間の皺を隠すように、先生は中指でメガネのブリッジを押し上げる。顔から手が離れたあとも、その眉は相変わらず寄せられたままだった。
「蔦は、俺に対しては意地が――いや、意地が悪いなんてもんじゃない。あれは」
 先生はどうやらよほど手ひどく蔦ちゃんにやられたらしく、ため息を吐いた。しかし、仕草に反して表情は明るい。
「……度を超した友だち思い、か」
「ほんとにいい友達だと思ってます」
「だろうな。……いろいろお説教されたよ。君の名を出されては、私には勝ち目がない」
 先生は大きく肩をすくめ、なんとか苦笑い――かなり苦み成分は高いけれど――という顔でぼそりと呟いた。そのまま、言葉が途切れる。
 『あの子を安心させてあげてくれませんか』
 尋ねるなら、今かもしれない。
 先生が私を安心させてくれていないわけでは、決してなかった。でも、彼が何と答えてくれたのかは気になっていた。これ以上知らないふりをすることは苦しいし、だからといって聞かずにもやもやし続けるのも切ない。
 私ってこんなにずるい人間だったんだと少しだけ開き直ったら、気が楽になってしまった。白々しくならないよう、自然に切り出してみる。
「私の名前って、どうして出たんですか」
「君を不安にさせるなと怒られた。私は野暮だから聞いてしまうが、受験か、卒業か、それとも私のことか?」
 自分のことを『野暮』と言い切れる潔さと正直さは、先生ならではだろう。先生は私の思惑などには気付かない様子で、逆に尋ね返してきた。私は言葉に詰まったが、黙っていると悪い意味に取られかねないと気づき、慌てて口を開く。
「実は、よく分かりません。でも、先生のこと――先生のせいじゃありません」
「そうか?」
「それだけは、自信を持って」
 大きく頷く私を、先生は柔らかく見つめている。
「受験して、卒業したら、いろいろ変わってしまうのかな、と思うことがあるんです。蔦さんにはそういうところを見られているので、心配させてしまったのかもしれないです」
「私にも見せてくれて構わないんだが。……いや。私には、私にできる役割というものもあるんだろうな」
 先生の声が多少羨ましげに聞こえたような気がした。先生自身もそう思ったのか、それとも違うのかは分からないけれど、笑いを逃がすように大きく息を吐き、首を振る。眉間の皺は消えていた。
「変わらないものもあるんだぞ」
「はい。……うん、そうですよね」
「君は理解が早いが、すぐ納得しなくてもいい。悩むのもいい。……ただ、辛いときは俺に言うこと」
 背中に乗っていたものが、ふっと軽くなる。その一言をもらうのに、先生も蔦ちゃんも巻き込んでずいぶん遠回りしてしまった。
「はい」
 先生は一言「よし」と言い、「では、ここからは『私』で」と前置きするとさらに続けた。
「入試の心構えは、努力すること。努力してきた自分を信じること。以上だ。……だから、ここまでの道のりを信じてあと少し待ってくれ。きっと、君が安心できる毎日を贈ろう。これで、いいだろうか」
 途中から、『私』ではなくなっているような気がしたけれど、それでもいいや、と私は大きく頷いたのだった。
 これまでの勉強にも恋にも、自信はそれなりにある。ならば、明日も、卒業してからも、幸せでないはずがない。
 頬に熱がのぼるのが自分でも分かるくらいだから、多分顔は真っ赤になっているだろうと思う。恥ずかしいやら申し訳ないやらで、まともに先生を見つめ返すことができない。下を向いたまま、私はもごもごと礼を述べた。
「いろいろと、本当にありがとうございます。あの――今後とも、よろしくご指導ください」
「君が安心したなら、今度は蔦をなんとかしてやってくれ。いじめられるのは、もうごめんだぞ」
 はっとして顔を上げると、先生は再び苦い顔で頭を掻いている。案の定、ずいぶん赤いな、と突っ込まれたけれど、そういう先生もほんのり桜色だった。

 家に帰ったら、蔦ちゃんに電話しよう。まず謝って、それからお礼を言って――話したいことが山ほどある。長電話の決意を固めつつ、私は家路を急ぐのだった。