雪椿 返り咲き

黒猫のワルツ

 橙南高校の体育祭は、学年やクラスに関係なく学校全体を四つの色に組分けするのが特徴だ。一年生のときにくじ引きで自分の色が決まると、在学中は三年間ずっとその隊で頑張ることになる。縦割りで集められる赤北(せきほく)、白東(はくとう)、黄南(おうなん)、そして紫西(しせい)という四隊が、優勝旗を目指して天下分け目の決戦を繰り広げるのだ。
 運動があまり得意ではない私にとってはなかなか辛い行事なのだけれど、それも三回目、今年で最後と思えば耐えられる――というわけでもなかった。やっぱり周りの足を引っ張ってしまうのは辛いし、一生懸命走っても順位が付けられるとへこんでしまう。

 てるてる坊主を逆さに下げたりしてささやかに雨乞いをしたものの、当日は恨めしいほどの快晴だった。
 教室では、体操着に着替え、四隊それぞれの色のハチマキを締めたクラスメイトたちが歓談していた。楽しそうな中で一人だけ暗い顔をするのも憚られ、私も紫色のハチマキを巻く。あいまいな笑顔を浮かべてみんなと話を合わせていると、若柳先生がホームルームのために教室に入ってきた。
「おはよう。……絶好の体育祭日和になった。みんなの日頃の行いが良いと、証明されたな」
 そう言った先生は、鮮やかな紫Tシャツに、黒に近い紫のジャージを履き、その上から白衣を羽織るという服装だった。シャツの左胸は、白く『西』と染め抜かれている。
 先生たちも四つの隊のどれかに割り当てられて、教科対抗リレーや騎馬戦に駆り出されるのだけれど、若柳先生は間違いなく紫――私と同じ隊だろう。白衣にスーツがユニフォームの先生が、上下紫だなんて体育祭以外ではきっと見られない。そう思うと、貴重な一日になりそうだった。
 周りのみんなも驚き、むしろ面白いと思ったらしく、男子からさっそく質問が飛ぶ。
「せんせ、そのかっこって紫西隊?」
「それ以外の何に見える」
 苦虫を噛みつぶしたような表情の先生に、クラスはどっと湧いた。
「紫西隊の隊長にこれを渡されたので、逆らえずに着てきた。似合わなくて悪いな」
 すかさず、女子からは「似合うよー!」という黄色い声が飛ぶ。さすがの先生も、困り切った様子で微苦笑を浮かべていて何だかほほえましい。ざわつきが収まるのを待つと、先生は出席を取った後、お決まりの諸注意でホームルームを締めた。
「怪我をしないように気を付けること。それから、サボって帰らないこと。注意は以上だ。……最後の体育祭、存分に楽しみなさい」
 みんながグラウンドに移動し、最後まで教室に残っていた私に、先生は「一緒だな」と呟いて目を細めた。それだけで、憂鬱さもかなり飛んでいったのだから、私も現金なものだ。
 しかし、面と向かって紫色の先生を見るとついつい笑いが込み上げてきてしまう。
「……笑わないでくれ」
 口元を押さえた私に、先生は拗ねたようにそう言った。

『教科対抗リレーに参加する選手は、本部前に集合してください』
 午後の部最初のプログラム、応援合戦が終了したところ。
 同じく紫西隊の蔦ちゃんと待ち時間を過ごしていた私は、アナウンスに顔を上げた。彼女と一緒に過ごすことで、毎年、私の気分も大分晴れている。一年の時、別々の隊になった私たちに、友だちが紫のくじを譲ってくれたのだった。
 それはさておき――蔦ちゃんは、なぜかニヤニヤしながら私に尋ねた。
「リレー、若も出るの?」
「聞いてないけど、選択権は無いんじゃないかな」
「理科は若が一番年下だもんなあ。そういやさっきその辺でちらっと見かけたけど、全身紫じゃなかった?」
 それを聞き、別れ際の先生の表情を思い出した私は吹き出しそうになるのを堪える。蔦ちゃんが、きょろきょろと紫西隊の陣地を見回した。先生を捜しているらしいけれど、さっきのアナウンスからすればすでにリレーの準備で移動済みかもしれない。
 背伸びをしてリレーの待機場所を眺めると、紫色をまとった、わりにがっしりとした体躯が目に入った。そのTシャツの背には、白い『西』の文字。間違いなく先生だろう。指差して、あれじゃないかな、と報告すると、彼女は堪えることなく大笑いした。
「わ、ほんとに紫ジャージ」
 むらジャー、と彼女は繰り返し、「椿的に、あれはあり? なし?」と続けた。見慣れていないせいもあるけれど、紫ジャージが気になってまともに会話もできないのでは無しと言わざるを得なかった。もちろん失礼は百も承知だ。でも、実際耐えられないのだから仕方がない。
「うーん。……なし、かな」
「ダメかあ。でも、私もあれはなしだと思う」
 蔦ちゃんはまだ笑いを引きずったまま、お腹を抱えている。遠くに見える先生は不敬な生徒二人のことなどつゆ知らず、ストレッチを始めていた。
『それでは、教科対抗リレーの選手はそれぞれの待機場所に移動してください』
 再びのアナウンスに促され、本部前から先生たちがグラウンドに散って行く。若柳先生の背中を目で追っていくと、彼は第四走者、すなわち最終走者のスタート位置に留まった。
 理科は、物理・化学・生物・地学の四科目をひとまとめにしたチームでの出場。年配の先生が多いから若いというだけで選手候補だろうとは予想していたが、アンカーにでもさせられたらプレッシャーあるだろうな、と勝手に若柳先生に同情していた私の悪い予感は、当たってしまったらしい。それは、蔦ちゃんも同じのようだった。
「やっぱりアンカーなんだ、かわいそ。……どれどれ、お手並み拝見」
 彼女は「行くよ!」と私に声を掛け、手を引っ張る。
「え、ちょっと、何?」
「ゴール前に移動。そしたら若が見えるでしょ」
 蔦ちゃんにされるがまま、私はトラックの真ん前、紫西隊陣地の最前列へと連れ出されようとしていたのだった。すでに、第一走者の先生たちがバトンを手にスタートの合図を待っているところ。
 私たちが見通しのいい観戦場所を見つけたちょうどそのとき、空砲が甲高く鳴り響いてレースが始まった。後ろの生徒たちの邪魔にならないように、慌ててしゃがむ。
 一人が走る距離は、二百メートル。展開は早い。銃声に驚いている間に、バトンは第二走者へと渡っていく。文句なくトップなのは体育科で、毎年首位はほぼ確定だから面白味に欠ける。ギャラリーが楽しむのは、二位以下の争いなのだ。先生の属する理科は、第三走者まで六チーム中三位でバトンを繋いできた。次は、いよいよ――。
 第三走者にバトンが渡ったところで、私は若柳先生だけを見ることに決めた。
「走る前から見とれてたら大変だよ?」
「……そんなことない」
「むらジャーだもんなあ」
 蔦ちゃんと他愛ないやり取りをしながらも、私は彼から目が離せずにいた。彼女にはああ言ったけれど、本当は見とれているなんてものじゃない。先生の姿以外に、視線の定まるところは無い。目が吸い寄せられる。呼吸すら浅くなるくらいの集中力で、私は凝視と言えるほどに見つめていた。
 足首を回したり、肩を動かしたりしていた先生も、いよいよリレーゾーンにスタンバイする。いつもの白衣姿ではきっと見る機会がない精悍な表情。右手を後ろへと伸ばし、半身になって斜め後ろを睨み付ける姿はしなやかで隙がない。
 やがて、最後のバトンの引き継ぎが行われる。前傾姿勢で助走をしながら、若柳先生は叩き付けられるように渡されたバトンを握りしめ、一気に加速する。そのままカーブに差しかかると、不意に、長い尾がバランスを取るように揺れたのが見えたような気がした。
 ――とてつもなく格好いい。
 飛び抜けて速いというわけではなくて、むしろ手を抜いているかのようなゆったりした走り。身体の軸を斜めに保ち、幅の広いストライドで筋肉が躍動する――それは例えるなら、黒猫が軽快に駆けているような優雅さだった。朝、笑いが止まらなかった濃紫の服も、今となっては先生を引き立てるものでしかなかった。
 いよいよ、ゴールに向けて、先生が最後のストレートに入ってきた。徐々に、すぐ前を走る選手との距離が縮まっている。その差はほんの数メートル。残りの百メートルで、果たして順位を上げられるだろうか。
「先生! 頑張れ! ……抜いちゃえ!」
 私は立ち上がり、目の前のゴールへと走り来る先生に叫ぶように声援を送る。それが聞こえたのかどうかは分からないけれど、スピードがぐっと速まった。回転数が上がるにつれ、猫っぽい余裕や端正さはかき消え、荒い走りで先生の足がグラウンドを蹴る。普段の鋭さとはまた違う獣のような光のある目に、私はぞくりとした。
「若、早いじゃん! 足長いからかな!」
 隣で、蔦ちゃんが大声を出す。我に返ってみれば、若柳先生はちょうど前の走者と横一線に並んだところだった。しかし、追い抜いたか抜いていないのか本当に微妙なまま、二人は肩がぶつかり合うような状態でもつれるようにゴールへとなだれ込む。
『ただ今のレース、僅差ですが理科チームが二位! そして惜しくも三位、数学科!』
 間を置いてアナウンスされた審判員の判定は、若柳先生の勝ち、だった。

 体育祭が無事終わり、制服に着替えた私が教室に戻ると先生がいた。蔦ちゃん曰く『むらジャー』姿のままだ。今は、その紫も『西』の文字も、おかしいとは微塵も思わない。ただ、ドキリとはする。リレーの準備中に、先生は着やせするタイプなのだと気付いたこともその動揺に拍車をかけている。
 先生と目が合う。極力顔色を変えないように気をつけながら、私は話しかけた。
「どうしたんですか。何か、お仕事中ですか?」
「消灯と施錠の確認だ。今日はたぶん誰もやらないだろうと思ったからな。案の定、だったが」
 無愛想に言うと、先生は付けていた消灯チェック表を教卓の中へと戻した。本来なら生徒の仕事なのだけれど、お祭りの日だということを見越してフォローに来たのだろう。先生は面倒くさがりにも見えるが、こういうところは非常にまめなのだ。
「リレー、お疲れさまでした」
「ほんとうに疲れた。まあ、あの順位なら誇っていいだろう」
「先生、本気で走ってましたよね」
「どこかの誰かさんが、抜けと叫んでいたからな」
「え、聞こえてたんですか?」
 わりと耳に入るものなんだ、と下を向いた先生。その表情は少しだけ得意げだ。
「素敵でした、猫みたいで。……例え紫色でも」
 途中から猛獣みたいで、それもかっこよくて、などとは恥ずかしくて言えない。『むらジャー』が、照れ隠しで口をついて出た。
 先生は、あんな男っぽい――いつもだって充分男らしいから、いくぶん語弊があるけれど――男臭い顔もする。今年の体育祭はそれが分かっただけで、私が徒競走でビリになったことを差し引いてもなお、お釣りがくるほど得をした気分だった。思い出すと無言になってしまいそうで、焦りつつ言葉を続けようとすると、先生の逆襲を受けた。
「そういえば、君も頑張っていたな」
「……ビリでした」
 痛いところを突かれて、私は頬を膨らましながらそれに答える。確かに、全力で走った。全力でビリだったのだから恥じるところはないはずだ。でも、足が遅いからって先生に嫌われるとは思わないけれど、やっぱり格好のいいものではない。あの様子はできれば見られたくはなかった。
 落ち込む私の肩に、大きな手が乗った。はっとして見上げると、平素の涼しげな眼差しが待っている。
「でも、諦めてはいなかっただろう。それは分かった」
 ぽんぽんぽん、と三度肩を叩き、先生は言った。
「お疲れさま。……体育祭、三年分だ」
 その言葉をもらえただけで、何か報われたような気分になった。ありがとうございます、と言いかけた私に向かって、先生は更に付け加えた。
「それから、私が猫だというのなら藤倉は犬だな。今、尻尾を振っていたのが見えたぞ」
 そう言うと、先生は口元にほんのわずかに笑みを浮かべて、教室を立ち去った。きっと私にしか読み取れない、先生の感情の発露だ。
 リレーのときの先生はみんなが見たかもしれない。あのワイルドさが素敵だと憧れた人も私だけではないかもしれない。でも、さっきの表情はきっと私だけのもの。私が独り占めした笑顔だ。
 後に残された私はぼうっとしながら、そんなことを考えていた。