雪椿 返り咲き

墨の汚れって落ちにくいんだよね

「先生、その白衣、もう着ないのならもらってもいいですか?」
 私は、実験台に横たえられた先生の抜け殻を指さした。先生色――長年かけて渋い灰色に染め上げられていた白衣の背は、とあるアクシデントに見舞われて、周囲よりもさらに一段濃いグレーに色を変えている。
「これを? もう、汚れて駄目になったものだぞ?」
 いったいどうするんだ、と先生は首を傾げた。驚いたと言うよりは、やや呆れたという感情が乗っかった声。先生には使い道がないものかもしれない。でも、私にとっては彼の過去が詰まったタイムカプセルで、私と出会う前の先生を想うにはもってこいの舞台衣装だ。
「こんな機会、何年かに一度ですから、記念にもらって――そうですね、家でこっそり着ます」
「着る?」
 先生は焦ったようにメガネを直すと、なぜか語尾を濁して何もない斜め上を見つめる。
「まあ、別に構わないが――何というか、君は本当に欲張りだな」

 金曜の放課後。生物実験室の掃除が終わり、今週分の消灯や施錠のチェック表を若柳先生に提出する役に私が名乗りを上げると、クラスメイトの男子は「若に凍死させられるなよ」と笑って帰って行った。
 一人居残って表に記入しながら、私は考える。
 若柳先生の評価というのは、未だに『完璧主義で感情がなく、ときに冷酷』といった感じらしい。女子だったら若干反応も違っていたのかもしれないけれど、いずれにしても『あのクールっぽいところが格好いい』と言うだろうと思うので、基本的には男子と大差ない。
 そう言えば入学当初、若柳先生はその名前にちなんで吹雪だとかブリザードだとか呼ばれていた。あの頃すでに、先生はみんなが考えてるような人じゃないと反論したい気持ちを抑えながら友人達の会話を聞いていたのを思い出す。今となっては、本当の先生のことはみんなにはずっと内緒にしておこうと考えてしまうのだけれど――。
 そんな思考の寄り道をしながらなので進みは遅かったものの、チェックが終わった。
 ちょうどその時、勢いよく実験室のドアが開く音がして、私は反射的に顔を上げる。驚いたことに、件の若柳先生が息を切らせて駆け込んできたところだった。
「あ、先生。今、これを持って行こうと思っ――」
「藤倉、ちょうどいいところに。手伝ってくれないか。一刻を争う」
 さらに驚いたことに、彼は珍しくずいぶんうろたえた様子で私に助けを求めたのだった。どうかしたんですかという私の問いに、先生は抱えていたものを示すと、「墨汁をこぼしたんだ」と苦々しく言った。
 先生が持ち込んできたのは、見事に黒く染まった白衣だった。

 指示を出されるままに試薬とビーカーを揃えつつ、何が起きたのか尋ねてみると、先生は簡潔に説明してくれた。
 来週行われる、生物部の研究発表会の準備をしていたこと。プリンタの調子が悪く、仕方なく筆と墨でイベント用の看板を作っていたこと。そして、作業の邪魔になると脱いで畳んでおいた白衣の上に、墨の入った容器を落としてしまったこと。
 染みがひどい背中を上にして実験台に広げられた白衣に、私は顔をしかめた。まるで若柳先生の標本のようで直視できない。
「もう無理かもしれないが、悪あがきはしておきたい」
 そう言ってタオルを薬品に浸すと、先生はすっかり染み付いた墨汁との戦いに身を投じた。
 先生の大きな身体を包むこのサイズを手に入れるのはなかなか骨が折れるといつか聞いたことがあるから、できるなら復活させたいという気持ちは分からなくもない。でも、それにしたってひどい状況だ。墨の汚れはアルコールで落ちると何かで読んだのだそうだけれど、どう見ても先生に勝ち目がないように思う。もともとグレーに変色していたのだから、これを機会にきっぱり諦めるという選択肢はないのだろうか。
 薬品は手が荒れるからと言われてしまったので、試薬を量る以上のことはさせてもらえない。私を労ってくれているのは嬉しいけれど、役に立てないのは悔しい。手持ちぶさたになった私は、苦闘する先生の姿を盗み見た。
 不謹慎を承知でいえば、先生の必死な顔を見つめるのは楽しかった。眉間に皺を寄せ、口を尖らせながら広げた白衣をガーゼでこする作業に没頭する先生。その様子も、さっき実験室に飛び込んできたときの慌てた顔も、めったに見ることができないレアな表情だ。そんなものを見せつけられてしまっては、凍死させられるどころか胸が熱くなって仕方がない。
 先生、ほんとうは全然完璧なんかじゃない。さっきの男子との会話を、私はひとり、心の中で否定する。先生だってごく普通の人間で、私たちと、いや私とこんなにも似ているのだと。そしてその部分は、私以外のどの生徒にも見せない素顔だ。
 気配を感じたのか、ふと顔を上げた先生は私の視線に気付くと「何だ? 楽しそうに」と手を止めた。
「先生も、慌てたりするんですね。……あ――ごめんなさい」
 見とれていましたとも言えずにごまかそうと口をついて出たのはあまりに正直すぎる感想で、我ながら失礼だと言ったそばから反省する。
「君は私をいったいなんだと思っているんだ。……私だって失敗することもある」
 彼はげんなりした様子でため息を吐いた。怒っているというよりは拗ねているといった雰囲気に、ちょっと安心する。
「たまにしかしない失敗なら、しっかり見ておきます」
「勝手にしなさい」
 わずかに苦笑いのかけらを見せると、先生は再び墨落としに戻る。白衣の背中は全面的に墨色に染まっていた。持ってきた当初よりはだいぶ薄くなったけれど、それでもこれを着て校内を歩いても大丈夫というところまではいかない。しかし私に、一生懸命な先生を否定することはできるはずもなかった。彼を応援するには、今は気を紛らわすための話し相手になるのが一番のような気がする。
「墨の汚れって、頑固なんですね。……そうそう、私、歯磨き粉とかご飯粒でも落ちるって聞いたことありますよ」
「君は、知恵袋のようだな」
「え?」
 知恵袋、とは。十七歳の女子高生を捕まえて、おばあちゃん扱いなんてひどい。手を動かしつつ相槌を打つ先生がなんだか楽しそうなのは、きっと先生もそう思ったからだろう。でも、それなら先生はおばあちゃんのような私の彼氏だ。そう考えたら、不満で膨らんだ私の頬もややしぼむ。
 先生は微妙な顔の私を敢えて放っておいて、先を続けた。
「しかし、ご飯を調達できるような場所がない」
「学食も閉まっちゃってますもんね。残念です」
「むしろ、閉まっていることに感謝をした方がいいぞ。もし学食が開いていたら、藤倉にライス大盛りを持ち帰りに行かせていた」
「それは嫌です」
「だからこそ頼むんだろう」
 どうも、近ごろの彼は私に意地悪を言って困らせるのが趣味のようだ。先生は手を止めると、口元をゆがめて私を見た。笑いをこらえているらしい。
 学食から実験室まで、どんぶりいっぱいのご飯を手に走る自分の姿を想像すると確かにおかしくて、脱力した私の方が先生より先に頬を緩めてしまう。なんだか負けたような気になって隣の先生を見ると、彼はおもむろにメガネのブリッジを指でずり上げた。笑いは辛うじて押し込められている。
「人選を間違えた」
「どういうことですか?」
「君と話していると、こんなことなんてどうでもよくなってしまう」
 肩をすくめた先生の口から出たのは、なんと敗北宣言だった。
 結局、お喋りが楽しいということだろう。知恵袋やらライス大盛りやら言われっぱなしではちょっとだけ悔しかったけれど、これで二人とも負け、おあいこになったような気がする。ニヤニヤしていただろう私の緩みきった顔を眺め、先生はついに吹き出した。
「何か、言いたそうだな」
 私は慌てて首を振った。先生はまだ不審そうに「そうか?」と尋ねていたが、私が白状しないと分かると、やがて単調な作業で疲れた手をストレッチしつつ天井を仰いだ。
「しかし、大学からのいろいろが詰まったものだったんだが、いいかげん潮時か。諦めて、新しいのを買うかな」
 先生は白衣の両肩のあたりを掴んで蛍光灯の光に透かすと、まるで旅立つ友人を見送るような目をしながら呟く。おそらく、先生との付き合いは私の倍以上にもなる白衣だ。思い入れもひとしおなのだろう。
 学生時代のことはあまり聞いたことがない――というか、私は今の先生を追いかけてばかりで、これまでは昔のことを尋ねる機会なんてなかった。今なら聞くのにはちょうどいいかもしれないけれど、もしかしたら知られたくない過去だってあるかもしれない。それに、この柔らかな先生の表情を知っている人たちは他にもたくさんいるだろう。先生がそういう人だとは決して思わないが、昔の彼女の話なんかがちらりとでも出てきたとして、私は果たしてそれに耐えられるだろうか。
 さんざん迷ったあげく、それでも好奇心と探求心が勝って、私はこわごわ質問してみた。
「……あの、先生の学生時代ってどんな思い出があるのか、聞いてもいいですか?」
「何で、そんなに遠慮しているんだ」
 やや目を見張り、先生は逆に尋ね返す。私は、思ったままを答えた。
「いえ。聞かれたくないこととか、私の方が聞くのが怖いこともあるかもしれないって思いまして」
「そんなに期待されるほど面白いものではないがな。君に聞かれたくないことは、私には一つもないぞ。……例え私の過去に何かあったとしても、それもすべて私の一部だ。君には私の全部を受け入れてもらえると信じているし、受け入れてもらいたいんだが、どうだ?」
 先生は、何の気負いもなしにさらりとそう言ってのけた。そんなに自信たっぷりにどうだと問われれば、頷かずにはいられない。一方の先生だって、私が首を横に振るなどとはひとかけらも思っていないはずだ。だから、私を見下ろして微笑みを浮かべるような余裕さえある。
 私がぐるぐると考え込んでいたことが、彼の一言で粉砕されて崩れ落ちてしまう。先生の言葉は、いつもそうだ。先生が信じてくれている、信頼されている。それなら私もすべてを聞いて、すべてを包み込む努力をしよう。
 諦めて白衣を実験台に安置した先生に、腹をくくった私はちょっとだけ胸を張った。
「聞きたいです。先生のことは何でも、例え面白くなくても」
「言うじゃないか」
 私の返事を引き出そうとするかのような彼の口調につられてつい出てしまった言葉に、すかさずつっこみが入る。そういう意味じゃなくて、としどろもどろに言い訳する私の額を、先生はドアをノックするような手つきで、コン、と軽く叩いた。
「……落ち着いてからもう一度、言ってみなさい」
 そして、相変わらずの涼しげな瞳で私の顔を覗き込んで待つ。
 私は、目の前の若柳理雪という人間の全部を知りたい。先生の今も過去も私の心にしまいたいと、切実にそう思う。私と出会う前の二十数年も、そして、できることならこれからの先生もずっと。それが途方もない夢のように思える私は、どうしようもなく子供だ。けれど、それでもいつか、そんな日が来ると漠然と確信している自分もいる。
 ようやく覚悟を決めて私が見上げると、先生はやや首をかしげた。
「なんだか百面相でも見ているようだったな。……追試の準備はできたのか」
 私が考え込んでいた間、ずっと観察されていたようだった。頬がかっと熱くなって少しひるんだけれど、負けずに言い返す。
「はい。先生の全部、受け入れます」
「貪欲なんだな」
「自分で思ってたより、欲張りだったみたいです」
 驚いたように少し目を見開いて、先生は頷いた。
「……明日、新しい白衣を探しに行く。付き合ってくれるなら、その道すがら話そう」
「はい、ぜひ!」
 思いがけず、明日の土曜日はドライブだ。掃除当番で、ほんとうに良かった。
 彼の視線の先には、広げて置かれたままの白衣。先生の過去が凝縮されて、そこにあった。今なら言える――勢いにまかせて、私は聞いてみた。
「先生、その白衣、もう着ないのならもらってもいいですか?」