雪椿

夏影

 終業式の校長あいさつは、県大会ベスト8をかけて試合に臨む野球部への激励と、高校生らしい過ごし方をするようにとの言わば『お約束』で締めくくられた。明日から夏休みという開放感に溢れた空気が朝から校内を満たしていて、ホームルームをしている教室の中もなんとなく弛緩した雰囲気のまま、今日のスケジュールは終了した。
 午前最後の時間帯だ。気付かぬうちに季節は確実に真夏へと進みつつあり、校舎の日陰もずいぶん狭く、短くなっていることに今さらながら驚く。蒸し暑くなる兆しをひしひしと感じながら、俺はなじみの場所でぬるくなり始めた風に当たっていた。
 そこへ蝉の声以外の音が聞こえてきて振り返る。ちょうど防火扉が押し開けられるところで、やがて藤倉の顔がのぞいた。
「先生、お疲れさまです」
 現れた彼女は、非常階段にすとんと腰を落とす。どうも生気が感じられないというか、心ここにあらずといった面持ちに、俺はたまらず「どうした?」と尋ねた。
「何がですか?」
「君の方が『お疲れ』のようだな」
 少し何事かを考えると、藤倉は俺を見上げて「そんなことないですよ」と呟いた。互いが立ったまま世間話をするのが常であることを考えると、今日はいつもよりも少し距離がある。短い言葉にも憂いの色が浮かぶところを見ると、彼女の身に何かがあったのは確からしい。
 しかし、元気がないのなら悲しそうにしていればいいのに藤倉はそうはしない。彼女は誰かが聞いてやらないと胸の中のものを吐き出せない性分だから、心に積み上がったものに潰されるのではと心配になることがある。気付いたときには機会を見て少しずつ崩してやることにしてはいるが、憔悴している藤倉を見るかぎりでは、今日は引き出す言葉が多そうだ。
 俺は階段へと歩み寄り、より近くから話しかける。
「君は自分で思っているより分かり易いんだろうな」
「いえ、大丈夫です」
 眉をハの字にして、藤倉はごまかすように微笑んだ。
「しかしな。そんな顔を見せられるのは、ある意味泣き顔よりも辛いものがあるぞ。……いや、そんなことが言いたいわけではないんだ。心配事を、聞かせてもらうわけにはいかないのか」
「先生に話せることなのか、正直言うとわかりません」
 意外な答えに俺が顔をしかめると、彼女は慌てて「校則に違反してるとか、そういうことではなくて」と付け加えた。
「やっぱり、言います。……最初は、今日はここに来るのやめようと思ったんです。きっと、いい顔はできないだろうなと思ったので。でも結局ここにいるということは、やっぱり聞いて欲しかったのかもしれません。甘え、ですよね」
 本題に入らぬまま、藤倉は乾いた唇を舐めたり両手を何度も組み直したり、落ち着かない様子で沈黙を続ける。いったい何を言おうとしているのか見当もつかないが、切り出すのにはかなりの決意が必要らしい。
 そうこうしている間に昼休み開始を知らせるチャイムが鳴り始める。本来であれば夏休みの開始を告げる鐘の音を合図にしたように、彼女は大きく息を吸った。
「ホームルームが終わって帰ろうとしたら、知らない男の子が待ってて――好きです、と言われました。その人、去年の橙高祭から私のことをいつも見てくれてたのに、私は今日まで全然気付きませんでした。付き合ってくださいって言われましたが、断ることしかできませんでした。……断られた側の方が絶対に辛いのに、私がこんなに落ち込むのも失礼だと思います。でも、私は」
 藤倉はそこで言葉を切り、俺を見た。
 去年の橙高祭、演劇部では彼女と蔦が主役を演じた舞台が行われ、まずまずの評判を得た。男役の蔦には女子のファンが少なからず増えたと、蔦自身が話していたのを思い出す。ヒロイン役の藤倉には男子のファンが付いたのに、と蔦は苦笑していた。
 考えてみれば、彼女の隣に八つも年が離れた俺がいることの方がイレギュラーなのであって、普通の高校生は学生どうしの恋愛を楽しんでいるものだろう。藤倉に思いを告げた生徒だって、俺が絡んでいるなど考えもしないはずだ。
 普段から人を突き放すような言葉は決して言わない彼女だから、知らない男子とはいえ自分への好意をはね除けるのは辛かったのではないか。それでも、思いを貫きたい人が藤倉にはいる。そしてそれは俺自身だと、彼女の目は告げている。
 俺は眼鏡をずり上げると、その手をそのままぐっと伸ばして彼女の頭に乗せた。
「その生徒と同じように、藤倉も正直に心の内をぶつけたんだろう?」
 こんなとき何と言って元気づけたらいいのか俺にはまだよく分からないし、何より下手な励ましでより彼女を傷つけてしまうのではないかという不安もある。しかし、万能の呪文などこの世には存在しないから、彼女に向ける言葉は俺自身が試行錯誤して見つけて行かなくてはならない。それが、彼女の隣を歩む自分のなすべきことだ。
 藤倉は頭の上の手を一瞥した後、溜め込んでいた空気を深く吐き出してうなずく。明らかに緊張がほぐれ、強ばっていた肩が下がった彼女に、俺も心底ほっとして語りかけた。
「それなら、落ち込むのはいいが、後悔はしなくてもいいんじゃないのか。……それから、私の前でだって、迷ったり悲しんだりしたっていい。それをなぐさめるのは私の特権だからな。ただ、そういうことが私は下手なんだ。なにか、君にプラスにはたらくことができればいいんだが」
 しばらくの間、藤倉は俺の手と顔とを見比べていたが、やがてたどたどしくも笑みを浮かべた。
「大丈夫です。充分にプラスです。やっぱり、ここに来て良かった。……あの、手を」
 さっきと同じ『大丈夫』という言葉を使ったものの、表情は先ほどとは革命的に明るく変わっている。指摘されて俺が手をどけると、藤倉は勢いを付けて立ち上がった。淀んでいた非常階段下の空気がふわりと動く。これで、やっと普段通りの距離。いつもの調子を取り戻せたのか、彼女は俺を見上げてきっぱりと言い切った。
「あの人に言ったことには悔いはありません。胸を張れます。……でも、好きだと言われたこともそれを断ったことも、大事に覚えておこうと思います」
「それでいいさ」
 俺が頬を緩めると、彼女は今度こそ柔らかく笑う。数分前まで涼しかった日陰には、すっかり真上に昇った太陽がじりじりと照りつけ始めていた。痛いほどの光を避けるには、海か山に逃げるのがいいだろうか。
「では、励ましを一つ。青と緑、どちらが好きだ?」
「え? ……どちらかというと青のほうが」
「決定だな。夏休みは海を見に行こう。しかし、受験勉強も忘れずに」
「はい!」
 逃げるのも、彼女となら悪くない。憂いなく微笑む藤倉を見守りながら、俺は夏休みの計画を立て始めていた。