雪椿

ゴシップの実

「若にチョコ投げ捨てられたっていう先輩の話?」
「そうそう。なんでも、若が先輩の手から叩き落としたって」
「えげつないね、若。見損なったー」
 ――えげつないのはあんたらの方だよ、と心の中で突っ込む。
 練習が終わったとたん、部室の向こう側からやけに大声の内緒話が私の耳に届いた。クールな振りをしていても裏では何を考えているかわからないとか、女生徒を手ひどく振ったとか、いかにも生徒が好みそうで女性週刊誌的な情報の数々が垂れ流されていく。
 まな板に上っているのは『若』こと若柳理雪、生物教師。彼は生徒間での評判はおおむね良く、かくいう私もここ一年ちょっとの間にどちらかといえば『若支持派』に傾いている。しかし、よく思っている生徒だけではないから、アンチ的な噂も飛び交ってくるのは仕方がないとは思う。ましてバレンタイン直後だから、考えたくはないが、思いが通じなかったものは心ない噂を流すかもしれない。もてる人間は周囲の理不尽な悪意に晒されやすいのだ。
 高校で迎えるバレンタインは二度目だが、確か昨年のこの時期も同じような噂が飛び交っていた記憶がある。よく飽きないものだとため息を吐きながら、私は台本を鞄にしまい込んで勢いよくチャックを閉めた。
 今の話は当然、椿にも聞こえたはず。私は、隣で荷物をまとめている親友――私を若ファンに取り込んだ張本人――の様子をちらりと盗み見た。若ほどの背はないが女子としては大きい部類の私と、小柄な椿。頭半分ほどの身長差で、うつむかれると軽く噛んだ唇しか見えない。
 椿が若に寄せる思いを知っているというだけの私でさえこんなに居心地が悪いのだ。彼女の気持ちは察するに余りある。
 案の定、椿はそそくさと後片付けを終えると、羽織ったコートのボタンも留めずに「お先に失礼します!」と部室を出て行ってしまった。私は少しでも周りを威圧しようとわざと足音を立てながら、彼女を追って部屋を出た。


「椿!」
 呼びかけに、椿は足下を見つめたまま、振り向かずに立ち止まって私を待った。横に並び、「あんな無責任な話まさか本気にしてないでしょ?」と尋ねる。
「信じてないよ。聞かされるのはちょっと辛いけど、あれ、嘘だしね」
 椿は感情を抑えた低い声でそう答えた。オトナの対応である。
 むしろ、下唇を突き出した私の方が不機嫌そうだった。以前は正面切って若をかばったりはしなかったことからすれば、何だかんだ言っても私の若びいきはどんどん進行している。ただ、部員たちへのこの怒りは、若の悪口を言ったことよりも、椿の片思い相手を彼女の目の前で悪人にしたことに向けられたものではあるのだが。
「三年生の置きみやげだよ、あのでたらめ。自由登校だからって言ったもん勝ちってのはずるいね。……そんなヤツじゃないよな、若は」
 デマに違いない、と私は鼻息を荒くした。どうせあと一月半も経って、新年度が始まれば忘れられるのだろう。とはいえ、好きな人の悪口を聞かされて平気でいられる人間なんていないはず。そう思って注意深く見つめていると、椿はようやく顔を上げた。
「我慢するしかないよ、みんなああいう話が好きなんだから。クールなふりっていうところ、ちょっと分かるし」
 やっと見えた表情は、意外にも笑顔だった。明るく言った椿に、私は「実は優しい?」と耳打ちした。何を思い出したのかは知らないが、彼女の顔がぱっと赤らむ。
 よくよく若を見ていれば、最近はだいぶ丸くなり、冷たさを感じることは前ほどはなくなってきた。だから、彼と茶飲み友だちである椿ほどの実感はないが、私も若のクールさは見かけのみなんじゃないかと勝手に思っている。
「熱でも出た?」
 紅色がなかなか退かない頬に気づき、私はからかうように彼女の頭に手をやった。そのまま額に手のひらをずらしたところで、椿はなぜか潤んだ瞳で私を見上げた。
「……同じ」
「何が?」
 椿は振り向いて廊下を見渡す。ちょうど、先ほど噂話をしていた集団が部室から出てきたところだった。彼女らはいまだに若の話題を引きずっているようで、チョコがどうとか先輩がどうとか賑やかに言いながら私たち二人の横をすり抜けていく。
 それを見送りながら、椿は鞄から携帯電話を出すとメールを打ち始めた。どうして今メールなんかを、と私が不思議に思いつつも待っていると、彼女はディスプレイをこちらに示した。見ろということだろう。
「何?」
 そこには、実に簡潔な報告が表示されていた。

 じつはバレンタインの日、先生に告白したんだ

「ええええっ」
 確かに、それは校内じゃ口には出せない。
 予想外の文面に私が上げた声は、すでに無人になっていた長い廊下に響き渡った。こんなときに発声練習の成果が出てもうるさいだけだ。私は慌てて口を押さえると、驚きを目で訴えながら聞き返す。
「なに、どういうことなの!」
「ごめん。いつ言ったらいいのかわからなくって、時間ばかり経って」
「で! 結果は!」
 噛みつかんばかりの勢いで尋ねた私に、椿は恥ずかしそうに「付き合うことになったよ」と言って目尻をぬぐった。『付き合う』ってことは、椿だけじゃなくて、若も彼女のことが好きってことで――。
「そのとき、今みたいに頭を撫で――」
「良かった!」
 私は鞄を取り落とし、彼女を抱きしめていた。
 思えば、若の刺すような鋭い眼差しが温かさを帯びたのは椿のおかげだったのだろう。穏やかな表情を見る機会が多かったのは、私の隣に彼女がいたからだ。考えてみればすぐ分かりそうなものだが、私には若の感情の機微を読み取れるほどの観察眼はなかった。
 私はそっと彼女から離れると、「すごいね、愛ってのは」と呟いた。椿は、私にはどうにも似合わない台詞にぷっと吹き出す。その目にはもう光るものはない。
「ありがとう。……でも、『愛』って」
「愛だよ」
 似合わないのは百も承知だったが、実際それが正直な感想だった。椿から若への思いを告げられたのは一昨年の秋で、私は当時もさっきのように彼女を抱擁していたはずだ。消え入りそうな声で『先生の彼女になりたい』と言っていた椿を放っておけなくて、支えたいと思ったら体が勝手に動いたのだ。それが、今はどうだろう。彼女は一人でしっかりと立ち、勇気を奮い、そして愛しい人の心を掴んだ。片思い――しかも、教師と生徒という茨の道――が椿を強くしたのだろうか。
「うまくいかないと思ってたわけじゃないんだ。ただ、あんたがいろいろと苦しんでたの見てたから、びっくりしてさ。……ほんと、嬉しいって絶叫したいくらい嬉しい」
「私も言えて嬉しい。内緒にするの嫌だったから。……あ、もちろん私、蔦ちゃんのことも大好きなんだよ」
 思わず、私も吹きだしていた。椿のどこが好きかって、気を使っているわけではなく本心からこういう言葉が出るところが好きなのだ。私は困り顔の椿を放ったままでかなりの時間笑い続けていたが、やがて彼女の肩を掴んでぐらぐらと揺さぶった。
「ありがと。あんたってほんと可愛いね。あたしも椿のこと好きだわ。……今日はこれから時間ある? みっちり聞かせて欲しいな」
「ちょっとやそっとじゃ話しきれないほどいろいろあったんだよ?」
 笑われた仕返しか、椿は珍しく意地悪そうに口を尖らせる。
「大丈夫、徹夜してでも全部聞く」
 そうと決まれば早く行こう、と彼女を促した。
 うなずいた椿は携帯を元通り鞄に入れると、今度はちゃんとコートのボタンを留めて一歩踏み出し、歩き出す。その足取りの、なんと軽やかなことか。
 若が一番、私はその次で充分だ。こんなに幸せそうな椿をずっと見ていられるのなら。