雪椿

残照

 四月最初の土曜日。
 今日は、彼女が高校を卒業してから初めてのデートだ。それは、人目を忍ぶことなく堂々と街を歩けることを意味していたが、椿がせがんだのは少し離れたところ――海だった。
 前にも一度二人で来たことがある、西の海。春の匂いが混じるぬるい海風。夏には海水浴で賑わう砂浜はもちろん海開き前で、俺たち二人しかいない。
 俺が振り返ると、貝殻でも見つけたのだろうか、椿はしゃがみ込んで何かを拾い上げていた。春らしいパステルカラーのコートが、傾き始めた日の光で山吹色に染まっている。気づけば、太陽はすでにかなり水平線に近づいていた。
 ――今日はここまでか。
「……椿」
「はい!」
 打てば響く、といった元気な声。それが、まるで出席を取っているかのような錯覚を起こさせた。
 もう四月だ。ここは教室でも何でもない。彼女は高校生ではない。俺も、彼女の前では教師ではない。ただの椿と理雪なのだ。
 まったく、どうかしている。順を追って確認しなければいけない程度には混乱しているな、と自分のことながら思う。
 帰るぞ、と口を開きかけ、そこで俺は動きを止めた。このまま声を掛けることをやめてしまえばどうだろう。俺が車を出さずにいれば、帰る手段はない。もっともっと長く、二人でここにいられる。
 ――いや、駄目だ。
 俺は、以前ここを訪れたとき、すでに失敗済みだったことを思い出した。妙な気持ちを起こすと、また彼女を傷つけることになる。
 元担任としての矜持が、誠実でありたいと願うからか。それとも、もっと先にある何かを回避しようとしているのか、俺には自分が分からない。しかし、やはり潔く帰るべきだ。
 一向に続きを喋らない俺を待てなかったのか、椿がこちらへと駆けてくる。波が寄せるぎりぎりのところを、砂に足を取られながら、彼女なりの速さで。
「こら。走ると危な――」
「理雪さん! 見て、ください!」
 椿は俺の言葉を遮って、得意げに言った。息を切らしながら、持っていた小さなガラス瓶を誇らしげにかざしてみせる。中には、白、緑、青――色とりどりのかけらが詰まっていた。海に洗われて角が取れ、優しく光るガラスの破片。シーグラスだ。
 にっこりと笑って、椿は俺を見上げる。
「前に来たとき、たくさん落ちてるのに気付いたんです。今日は絶対集めて帰ろうと思って。……よかったら、理雪さんも一緒に――あの、どうかしたんですか」
 椿が不思議そうに俺を見つめている。あどけない顔。駆け引きなど、きっとまだ知らない。
「……そろそろ帰る時間だ。門限に間に合わなくなるぞ」
「でも、今日絶対にしたいことが、まだあるんです」
「椿」
「海に沈む夕日を見たり、それから――」
「椿!」
 くすんだ輝きが砂の上に散らばる。俺の声に驚いた彼女が、瓶を取り落としたのだった。
「理雪さん?」
 こちらを見上げていた椿の丸い目が、みるみるうちに涙で満たされていった。彼女は雫が溢れないように、上を向いた。ずいぶんと昔に交わした、『泣かない』という口約束を未だに守っているのだと気付いた。
 こんなはずではなかったのに。どうして、いつも傷つけてしまうのだろう。なぜ、もっとうまくやれないのだろう。自分のふがいなさに、思わず力が抜けた。
 冷たさに下を向けば、波打ち際の砂の上に座り込んでいる俺の膝が見える。頭の上から、彼女の「ごめんなさい」という声が聞こえた。
「君は何も悪くない。いつも俺が泣かせるんだ」
「泣いてません! ……泣きません」
 椿が俺の手を取った。小さな両手で包まれたかと思うと、きゅ、と力が込められる。散らばったシーグラスの真ん中で、手を握られたままの俺は椿を見上げた。さながら、姫に許しを乞う兵士のようだった。
「立ってください。濡れちゃいますよ」
 おそらく彼女の全力で、俺の体は少しだけ引っ張り上げられる。起こされるのにまかせて立ち上がった俺の足下を、椿が手で払ってくれた。べったりと濡れた砂が、剥がれ落ちていく。
 自分の手に付いた砂を落とした椿は、俯いた。ガラスの欠片に目をやりながら「すみません」と、また謝る。
「隠していたことが、あるんです。……実は、この春から門限が延びました。大学生になりましたし、相談して、少し遅くしてもらったんです」
「え?」
 高校までの藤倉家の門限は、高校生なりの時間だった。俺は今日もその時刻までに戻ろうと、彼女をせかしていた訳なのだが――。
「理雪さんと一緒にいられる時間が増えたって思ったら、ほんとに嬉しくて! だから、理雪さんが一番驚きそうな瞬間に教えようと思って、タイミングをはかっていたんです。……大失敗ですけど。変なことしないで、最初にちゃんと言えばよかった」
 彼女の気持ちは痛いほど分かる。椿は高校時代から、過剰なほどと言っていいくらい、門限のことを気にしていた。裏を返せば、二人で会うたびに自分が子供であると思い知っていたわけだ。
 ポーカーフェイスのできない椿のことだ。嬉しいニュースを隠すのに、朝からいったいどれくらいの努力をしていたのだろう。俺は、そんな彼女を天辺からどん底へと突き落としてしまった。
「怒ってますか?」
「怒っては、いないんだが。……驚いたよ」
 そうは言っても、俺はそもそもが無表情なのだから怒っていると思われても仕方がない。俺は、いつも一つか二つ、足りないのだ。
 結局、頭を掻き、そして笑うことにした。俺を見て、彼女もやっと微笑む。
「今は――そうだな、嬉しい。恐らく、君と同じくらい嬉しいと思う。……俺はむしろ、君に怒られる方だ。逆にこっちが聞きたい。どうしたら埋め合わせができる?」
「じゃあ、私が今日したかったことを三つ、叶えてください」
 椿は考えることもなく、すらすらと答えた。
「一つ目は、一緒にガラスを集めてくれること。二つ目は、夕日が沈むまでここで見ること」
「お安い御用だが。……三つ目は」
 いったい何だ、と聞き返そうとした俺の目に飛び込んできたのは、精一杯背伸びをしている椿の姿だった。小さな手が俺の顔をかすめるが、何も起こらない。
「危ないな。何をする気だ?」
「め――眼鏡を預かろうと思って」
「どうして」
「じゃ、邪魔になるからです。……じゃなくて、その、前に来たときは――私から――だったので」
 必死な声が、誰もいない浜辺に響く。椿は何故か途中をぼかしながら、やっとのことでそこまで言った。
「今日はリベンジなんです。あのときの理雪さん、いえ、先生の顔、絶対忘れない」
「俺の?」
 不意を突かれた俺が言葉に迷っていると、彼女が教えてくれた。
「前に、ここに来たときのことです」
「ああ」
「先生は、今にも泣きそうな、寂しそうな目をしてました。……大人になってまた来る機会があったら、絶対思い出を塗り換えてやろう、塗り替えてもらおうって、ずっと思ってたんです。この前より、壁は低くなりましたよね?」
 椿は、「まだ大人じゃないですが、もう生徒じゃありません」と歯を見せて笑う。
 それでようやく、俺も彼女の意図を理解した。前回は、取り乱した俺を椿が落ち着かせてくれた――多少、強引な方法で。彼女は俺に、眼鏡が邪魔になる――少なくとも彼女がそう思い込んでいる『何か』をやり直すチャンスをくれたのだ。
「そうか。……リベンジしてもいいんだな」
「いいですよ」
「では、後ほど存分にさせてもらおう」
「ぞ、んぶん?」
 椿は真っ赤な顔で再び復唱した。桃色の頬を夕陽でさらに染めて、今さら照れている。いつの間にか光の位置がずいぶんと低くなっていることに、それで気付いた。
「日が沈む。……沈み切るまで見るんだろう?」
「はい。……本当。見て、すごく綺麗ですよ!」
 彼女ははしゃいだ声で海を指さした。春の空気に少しだけ霞む水平線。夕日はその向こう、すでに半分ほど隠れていたが、投げかける蜜柑色の光はなおも水面に残っている。
 俺の毎日が彼女のおかげで十分すぎるほど満たされているのを、彼女は知らないだろう。上手く伝える言葉が、俺にはまだ見つけられない。口が下手だから、伝えるとなるとどうしても触れてしまう。
 椿の体を引き寄せると、彼女は妙な声で叫んだ。
「わあっ」
「わあとは何だ。ひどい言われようだな」
「……あの、つい。恥ずかしくて、何て言ったらいいか分からなくて」
「それなら、何も言わなければいい」
 椿は黙った。
 海に向かい、重なって立つ。砂浜に伸びる影が一つになった。
 背中から被さるように腕を回してみると、彼女の頭が、俺の顎の下辺りにちょうどよく収まっている。そういえば、彼女が俺を見上げる角度も、誰かによって計算され尽くした結果なのではないかと思うときがある。はじめから、そうなるように造られたのではないだろうかと疑いたくなるほどに、魅力的だ。
「……やっぱり、無言なのも恥ずかしいので、喋りますね」
 海に食われていく光に照らされながら、椿はたどたどしく話し始めた。
「私、男の人とお付き合いするのって初めてで、よく分からないことだらけで、自分でもどうしてもうまくできないんです。でも、理雪さんが一緒に歩いてくれるから心強くて。……いろんな段取りも任せきりで、リードしてもらうばかりで――きっと、理雪さんにばかりすごく回り道をさせてしまってるんだろうなって、いつも思っているんです」
 彼女の肩に乗せた俺の腕に、何か柔らかいものが触れる。見下ろすと、椿が頬を寄せていた。
「私の歩幅はかなり狭いですけど、追いつくまで待っててもらえたらな、って。あまりに足が遅くて待ちくたびれたら、たまには道を教えてくれたり、背中を押してくれたりすると嬉しいです。その時は、優しく押してくださいね。……追いついたときには、今度は理雪さんのペースに合わせて全速力で走りますから」
 言いたいことを無事言い終えて、安心したのだろうか。力の抜けた椿の体が、柔らかくもたれかかる。
 俺と椿はまだ始まったばかりで、これから先、いくらでも時間はあるのだ。焦る理由など、どこにもない。
 彼女が大人になるテンポに合わせて、俺も歩く。ゆっくりと開いていく花を一番近くで愛でる幸せは、俺だけのものなのだから。その後には、薫る花を見る喜びも待っている。
「君を大人にするのは惜しい気がしてきた」
「そんなこと言わないでください」
「俺はこう見えて、足は遅くない。悪いが、椿の全速力は――」
「知ってます。でも、頑張りますから!」
 あまりに張り切りすぎる声が返ってきて、俺は吹き出してしまった。いったい何を頑張るのかも分かっていないだろうに。
「思い切り背中を押したくなるから、普段以上に頑張るのはやめてくれ。椿の自然体に、俺が合わせるから。もしも俺が遠ざかっていきそうなときは、きっと君は教えてくれるだろう?」
 彼女は、こくりと小さく頷く。頭のてっぺんしか見えないが、椿がどんな顔をしているのかは想像がついた。恐らく、俺と同様に満ち足りた顔で微笑んでいるはずだ。
 すっかり黄昏れて、初めての夜の海が目の前に広がっている。もう、尋ねてみてもいいだろうか。
「では、そろそろ新しい門限を発表してもらうとするか」
「変にハードル上げないでください。……ええと、日付が変わるまでに、家に着けば」
 帰りの道のりから逆算すると、時間はかなりある。
 すでに、椿が挙げた今日のノルマのうち一つはクリアしていた。これなら、彼女の――そして俺のリベンジは達成できるだろう。
「まだ光は残っているから、足下は見えるな。ガラスを拾って――これで二つか」
「はい。……あの、あとの一つ、は」
 期待の中に少しの不安が入り交じる表情で、椿は俺を見上げていた。訊いてしまってから恥ずかしくなって、後悔しているらしい。
 なるほど、『うまくできない』というのはこういうことか、と俺は理解した。素直な気持ち、それに好奇心、慎ましさ。いろいろなものが、彼女の中から同時に顔を出す。何と初々しいことだろう。
 ならば導いてやればいい。隣を一緒に歩いて、一つずつ。
「まず、君にひとつ、教えておく。眼鏡は、かけたままでも構わないんだ」
「え?」
 俺は片手で彼女の頬を支え、顔をこちらに向けた。