雪椿

出来ればミルク多めで

「十七歳、おめでとう」
 バレンタインデーから一月あまり。三月のある朝、俺は生物準備室を訪れた藤倉に言った。
 始業まで、まだ一時間ほどある。
 朝一番だからなのか、準備室が薄暗いからなのか、彼女の顔はいつもよりなんとなく白く見えた。生物準備室には西日は差すものの朝の光はほとんど入ってこないし、暗室を擁しているために遮光カーテンが引かれている。その不気味なまでの陰気さが実験棟周辺に人が寄りつかない理由なのだろう。根気よくここまで通ってくるのは、藤倉くらいのものだ。
 それでも、この頃は遮光カーテンの隙間から漏れる日差しに柔らかさが増している。季節が動こうとしているのだろう。
「年の差が八つに戻りました」
「一つ、縮まったな。……授業が始まる前に、指輪は外しておくように」
 もう『ただの生徒』ではないことを確認するかのように指さすと、彼女はこの前から持ち込んでいる小さなカップを両手で持ったまま照れ笑いをした。その指も白い。
 俺の誕生日は十二月。俺にとっては八つも九つも大差ないのだが、藤倉にとっては非常に重要な問題らしい。彼女は俺の顔を見るたびに早く誕生日が来ないかなあ、と言っていたものだ。
「蔦なんかはパーティーでも開きそうなもんだが」
「よくお分かりですね。実は、今日は帰りにファミレス――あ、校則違反ですか」
「いや、今日は見逃して蔦に譲ろう。俺は週末に君を借りるからな。なるほど、それで朝からここまで来たというわけだ」
「ありがとうございます。……帰りだとゴタゴタしちゃうと思ったので、朝一番でお祝いしてもらおうかな、と」
「悪いが、実はプレゼントなんかはまだ準備していなかったんだ。……ないわけではないが、後にしておこう。すまないな」
「いえ、おめでとうって言ってもらえたからいいんです! 図々しくて、ごめんなさい」
 藤倉はあまり悪いとは思っていない様子で朗らかに笑った。つられて頬を緩め、言葉を濁したことを気付かれていないのにこっそり胸をなで下ろす。
「去年は、誕生日の前にここで名前の話をしましたよね。そういえば、先生がマグカップを割っちゃって」
「ああ、俺が最後に君を泣かせたときだな」
 当時は何に対してカップを落とすほどショックを受けたのか理解できず、藤倉の涙のせいだと気付いたのは後からだった。あれ以来、鈍く無神経だった自分自身を戒めるために敢えてビーカーでコーヒーを飲んでいる。思えば、あれから一年も経った。そろそろ、新しいものを買ってもいいかもしれない。
 俺の物思いを吹き飛ばそうとしたのか、藤倉は「でも最近は、簡単には泣きませんよ」と明るく言い、得意げに胸を張った。さらに、ああ、と何か思いついたように口を大きく開ける。
「ん? どうかしたのか」
「カップのお話が出たのではずみがつきました。言っちゃいます。……私、先生に秘密にしていたことがあるんです。一つ近づいたついで――と言ってはなんですが、一年に一度のお願いということで、聞いてもらえますか?」
 齧歯目の小動物は神妙な面持ちで姿勢を正すと、俺を見て首を傾げる。この丸い目には勝てたことがない。俺が促すのを確認し、藤倉は落ち着きなく親指でマグカップをさすりながら口を開いた。
「できれば、ミルクと砂糖を……先生と同じくらい多めにしてください」
 申し訳なさそうにカップを差し出した藤倉に、俺は虚をつかれてしばし呆けた。
 カップの中には、まだほとんど減っていないブラックのコーヒーがなみなみと入ったままだ。彼女には入学式に再び出会ったその日からブラックを出し続けていたが、よく思い返してみると妙に飲み終わるのが遅かった。一月前、あれだけ切羽詰まった様子で俺に思いを訴えた勇気をもってすれば、苦いコーヒーが飲めないことを伝えるくらい造作もないだろうに。これだから藤倉に対する興味は尽きないのだ。
「実は、苦いのはあんまり得意じゃないんです」
 黙っている俺が怒ったとでも思ったのか、藤倉はまるで世界の終わりが来たかのようなどんよりとした顔でそう言った。とりあえず出されるままにマグカップを受け取ると、「今までずっと我慢していたのか?」と尋ねてみる。
「我慢というほど嫌いではなかったので、慣れるかなと思ってブラックで飲んでいたんですが――」
「で、二年間飲み続けたがダメだったわけだな。君も甘党だったとは、仲間が増えて嬉しい限りだ」
 脱力感とおかしさで眉を寄せつつ、藤倉のカップにブラウンシュガーを二杯とポーションのクリームを入れるときれいな琥珀色になった。甘い香りがほんのりと漂う。俺と同じ分量というとこれくらいだが、彼女のお気には召すだろうか。
「あ、これくらいの色なら大丈夫です」
 一転、何の屈託もなく嬉しそうにコーヒーを飲み出した藤倉に俺はついに吹きだした。彼女からのぬるい批難の眼差しを浴びながら、俺は必死に笑いを堪えて尋ねる。
「どうして、好きだと告白するよりもそれが後になるんだ?」
「また笑いすぎです、先生。……コーヒーより何より優先させることがあったのでそれどころじゃなかったんですよ。今だからこそ言えるんです」
 何よりも先んじたこと――つまり、バレンタイン以降胸のつかえが取れたので言う気になったということらしい。近頃は、笑いすぎと言われることにもようやく慣れてきた。もっとも、藤倉以外の人間にこの顔を見せたことはまだないはずだが。
「あの、先生も何かないですか? 私に苦情とか」
「苦情? 苦情はとくにないな」
「お願いとか、希望とか、とにかく何かないですか。このままじゃ不公平です」
 顔を真っ赤にして必死に話を逸らそうとする藤倉を眺めているうちに、いつもの暖かさが胸に溢れてくる。こういうふとした瞬間にも少しずつ雪解けは進んでいるのだ。柔らかくなった心からある考えが生まれ出て、俺は精一杯優しく微笑んで仕掛けた。
「お願いか。……ではお言葉に甘えて、予定は繰り上げだ」
「予定? 繰り上げ?」
 俺がゆっくりとメガネを外すと、彼女は「レンズ越しじゃないほうが優しい感じがしますね」と無邪気に言った。ということは、メガネ装備時の外見はあまりフレンドリーには見えないということだろう。自覚はしているが、相手が彼女だからなのか、正直に面と向かって言われたからなのか腹も立たない。
「君は最近、遠慮がなくなってきたな。……メガネは身体の一部なんだ。無いと生活できない」
 『優しくない目』を細めると、ぼやけていた藤倉の顔が少しだけはっきり見えてくる。近眼はこういうときに不便なのだ。やっと俺の目の焦点が合ったところで、彼女は不思議そうに言う。
「あれ。じゃあ、今はどうして外したんです?」
「どうしてだと思う?」
 どうやら、藤倉には分かってもらえなかったらしい。言いながら彼女の顎に手を当てると途端にぱっと顔を紅潮させ、あさっての方向を見たまま「あの、もしかして――」と弱々しく呟く。その視線の先に顔を寄せ、俺は囁いた。
「もしかして、だ。……お願い」
「それは――その言い方も、ずるいです」
「不良教師を甘く見たな。女性がそんなことを気軽に言うなと言ったろう? 尋ねた時点で、君の負けだ」
「ひどい先生ですね。……でも、負けでいいです」
 やがて真っ赤な顔ではにかみ、藤倉はカップを机の上に置くと目を閉じた。にわかに緊張し始めたのか、かたかたと震える歯と、急速に上がる体温が触れたところから分かる。そんな彼女をまるで包んで隠すように身体を引き寄せ、俺はそっと口づけた。



「サプライズなプレゼント、でした」
 余韻が残るまま、予鈴まであと十五分。先に言葉を発したのは藤倉の方だった。そっと手で自分の唇に触れ、嬉しいのか照れているのか、いずれにしても穏やかな声でぽつりと呟く。
「……でもいいんですか、学校のなかで」
「不良だからな。……しかし、改めて言われると弱る。実は、そんなに余裕はないんだ」
 自分の顔の熱さを意識し、さすがに恥ずかしいので藤倉を制す。なんとも不甲斐ない不良教師だった。何か気の利いた話を振れればよいのだろうが、俺にそんなスキルはない。すると彼女は両手を合わせてパシンと鳴らし、いたずらっぽい瞳で俺を見つめた。
「身長差は座っていれば気にならないです。疑問がひとつ、解決しました」
「なんだ、それは」
「詳しくは、来年の誕生日まで秘密です。だから、そのときも一緒にいてくださいね?」
 藤倉は祈るように、合わせた手をしっかりと組んで尋ねた。
 彼女の次の誕生日は卒業式の後だから、ここではない場所で祝うことになる。藤倉が暗に言っているのはそういうこと――つまり、来年自分が生徒ではなくなってもこうして二人でいたい、ということ。かつて、学校の中でも外でも先生の隣にいたいと彼女は言った。持ちかけられた可愛らしい企みを、俺は自分ができる最高の笑顔で受ける。
「来年と言わず、いつまででもな」
 言い終えて藤倉を見ると、俺と同じ顔をしていた。例えるなら花が咲いたような、晴れやかで温かい笑顔。
 先生と生徒の肩書きがやがて家族に変わっても、いつまでも一緒に歩んで行けたらいい。雪はいつか溶け、椿はやがて散るけれど、どんなに季節が変わってもいつまでも二人で。
 俺は思いを込めて、もう一度言う。
「いつまでも一緒だと誓おう」

【雪椿 おわり〜返り咲きへ続く】