その、幽かな声を

この、確かな声を【2】

 凍てつく空気に、澪はつい鼻を擦った。
 暑さや寒さは生身のときほどは感じていないはずだが、キンと冷えた日などは、やはり昔を思い出して身が縮む。寝床にしている祠の周りは、昨夜からの雪がまだらに積もっていた。水たまりは凍り付き、日の光を鈍くはね返している。
「冬じゃのう」
 呟いてから辺りを見回す。澪以外に気配はないし、もちろん返答もない。
 近ごろは聖が傍らにいるのが当たり前になってしまっているので、口数が増えた。聞いてくれる誰かがいないと独り言になってしまうのだ、と澪は気付いた。
 昔は、冬は嫌いだった。
 寒さを凌ぐには腹を膨らませねばならなかったが、一面白く覆われた山には食料などない。鹿であった頃は、木の皮を歯でこそげとって口へと運んだものだ。それでも満たされないときには危険を承知で人里へ下り、畑を掘って撃たれそうになったこともある。
「食うものが少ないのは、今も同じか」
 聖に頼って命を繋いでいる自分を思い出し、自嘲を込めてぽつりと漏らした。今度はちゃんと独り言を言った、と澪は苦笑する。
 今や唯一といってもいいほどの澪の力の源――澪を必要としてくれる人間――それが、聖だ。聖一人に支えられている現状を、澪はそのまま受け入れていた。その昔、強大な力を持っていた頃の自分は、確かに今よりも無理ができたし、自由もあった。だが、今の暮らしも悪くない。慎ましく平穏に、聖とともに過ごす日々もなかなかいいものだ。
 ちょうどその時、祠の脇の藪が動き、澪は飛び上がらんばかりに驚いた。
 がさがさという乾いた音がしばらく続いたのち、枯れた下草を掻き分けて、件の聖が顔を出した。足下は丈夫そうな革靴、ブーツとやらを履いていたが、つま先から足首まで泥にまみれている。日陰は氷で滑り、日なたは陽射しでぬかるむ山道だったに違いないが、彼はそんなことはものともせずに詣でてくれたらしい。
 聖は「澪さま」とにっこり笑う。
「お待たせして、すみません」
 聖の何でもない一言に目元が熱くなるのを感じて、澪は自分のことながら驚いた。考え出すときりがなさそうだったので、とりあえず返事はしておく。
「ま、待ってなどおらぬ」
「そんなこと、言わないで下さいよ」
 聖は澪の軽口を受け流すと、持参した敷物の上に膝を抱えて座った。準備のいいことに、鞄からさらに布団のようなものを出して自らを覆う。もこもことして、まるで冬毛に変わったかのようだ。
 澪もその隣に腰を下ろし、鼻の頭を赤くした聖の横顔を見た。いつもは頬も耳も赤いのだが、詰めものが垣間見えるはずの耳は、今日は耳当てで覆われていた。やはり、聖も特別に寒かったとみえる。
 おや、と澪は思わず聖の顔を見返した。何かがいつもと違うな、と感じたのは、獣の本能のようなものだっただろうか。
「何ですか?」
 聖が、目を丸くしている。澪の無遠慮な視線にたじろいでいるようにも見えた。
 その眠そうな瞳の下にはくっきりとくまが浮き出ている。違和感の源はこれだろうかと、もう一度聖の顔を覗き込むが、それ以上は何も見つからない。やはり、目だったのだろう。
「その目はどうした?」
「これは」
「寝ておらぬのか」
「いいえ」
 聖は両手で目を擦ると「大丈夫ですよ」と微笑んだ。強情な聖のこと、ここで澪がいくら心配したところで、帰って寝る、とは言うまい。しかし、彼が大丈夫と言うときは、大抵がから元気だから問題なのだ。しかも、彼自身はそれに気付いていないことが多い。
 またあやかし絡みのいざこざだろうと、澪は読んだ。それは澪が聖の力になれる、数少ない機会でもあった。悩む聖を見て心が躍るのは不謹慎だと自らを戒めながらも、澪は追及の手を緩めない。
「悩み事か? ……また、何か起きたのではないのか?」
「……いいえ」
 聖は眉間に皺を寄せている。澪はその頬に手を伸ばしそうになり、思わず自分の手を押さえた。
 それほどの苦渋の色が、彼に浮かんでいた。
 口を開いては、閉じる。顔を上げては、俯く。そんな仕草を数回繰り返したのち、聖は小さな声を絞り出すように言った。
「……もし僕が今いなくなったら、澪さまはどうなるんですか」
「うん?」
 一瞬、何を尋ねられたのか分からずに、澪は聞き返す。
 聖は抱えた膝を強く引き寄せると、顔だけをこちらに向けた。眠そうだった目にしっかりと光が見える。
「澪さまの力は、戻ってきているんですか。僕がいないと消えてしまう、なんてこと、ないですよね?」
 ――聖がいなくなる、だと?
 今度はしっかりと質問の中身を理解して、澪の顔から血の気が引いた。今、いちばん聞かれたくないことだった。
「……寝不足の原因は、それか」
 聖が無言で頷いた。今日ははじめからこのために来たのだと、聖のきゅっと結んだ口が伝えている。
 彼との別れが来るとして、それは果たしていつなのか。それとも、具体的な予定など無くて、ただ純粋な疑問を口にしただけなのか。それが分からない。
 真っ直ぐ正面からぶつかってきた聖に、澪がやはり正面から答えるとするならば、『消える』だろう。
 現状は、数日おきに顔を見せてくれる聖の想いだけが澪の糧である。それは命を繋ぐには十分でも、力の蓄えをするのには少し足りない。だから、聖がここへ来なくなれば、澪はいずれ飢えていなくなるだろう。
 聖はヒトだから、寿命がある。いつか聖がいなくなる日が来る――それは、澪も分かっていた。
 そもそも澪は、聖が天命を全うするまでこの山に来てくれるとは考えていなかった。もちろん、そうであればどんなに嬉しいか――とは思うが、それは身勝手というものだ。そうまでして生きながらえて、何の意味があるのか。聖に見限られたときが、澪の終わりとなるだろう。
 ――生きるならば、聖の隣で。彼と共にいられるなら、何をも厭わない。
 それだけが、澪の本心だった。
 答えぬまま時間が経ちすぎてしまっては、聖に疑われるだろう。いや、例えすぐに答えたとしても、心に大きな迷いを生じさせてしまえば、心の『声』は聖の『力』に拾われてしまう。
 まずは、この場を切り抜けるのだ。
「消えぬよ」
 澪はそう言って、聖の憂いを一笑に付した。納得したとは言えない顔で、聖は頷く。その目元はほんのりと朱く染まっていた。
「それじゃ、もう一つ。高嶺さまが今度来たら、その――澪さまに、勝ち目はあるんでしょうか」
 高嶺が澪のもとを訪れるのは、澪を手元に置きたいからだ。そうであれば、澪自身に危害を加える可能性は低い――と、澪は思う。
 それよりも、聖の聞き耳を高嶺に勘付かれるわけにはいかない。環の二の舞にならぬよう、気を付けておかねばなるまい。澪が聖と特別に親しいことも、高嶺には知られぬ方がいいだろう。あんな思いは、もうごめんだ。
「正直、高嶺どのに勝てる気はせんな。そもそも、格が――力が違いすぎる。しかし、高嶺どのは儂と戦うためにここを訪れているわけではなかろう。お主が何を心配しておるかは知らんが、取り越し苦労というものじゃ。……ただ、お主の力のことは内密にな。正直言うと、高嶺どのは儂も読み切れぬゆえ」
「そう、ですか。分かりました」
 聖はやはり複雑な表情で頷いた。何か腑に落ちないことがあるのかもしれないが、彼はそれ以上何も語らなかった。
 いくら心配するなといったところで、考えすぎる聖のことだからおそらくは聞かないだろう。今の澪の力でできることは、多くはないかもしれない。それでも、澪はこう言うしかなかった。
「心配するな。いざというときには、儂が何とかしてやる」
 それだけを言って、澪は笑った。

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