その、幽かな声を

そぞろ歩きのその前に【番外5】

 聖はいつもの山の麓にいた。
 山道を覆う夏草の茂みをかき分けて、後ろから澪も顔を出す。二人並んだところで、聖は久々の風景をじっくり眺めようと、辺りを見回してみた。
 夏の日差しは、暴力的とも思える圧力で襲ってくる。しかし、それを和らげるような風が川から渡り、頬を撫でてくれる。
 見渡す限り広がる水田にはすでに水はほとんどなく、出たばかりの稲の穂が風に揺れていた。まるで、萌黄色の波。寄せて返すだけではなく、秋の豊かな実りを約束する波だ。
「どこか、行きたいところはありますか?」
「……お主の行きたいところに」
「ほかに、ご希望は」
「ない。……どこでもよい」
 澪はにっと笑った。共に歩くとは大げさだが、要は散歩という名のデートだ。
 どこか場所を指定してくれれば、嘉章に尋ねるという手が使えたのにな、と聖は頭を掻いた。
 かなでと共に生きるために教師の職を辞した嘉章は、この春から地元の観光に関わる仕事に就いている。やってくる客と接するのが思いのほか楽しいのだと、張り切っていた。面倒見の良さを存分に発揮できる、嘉章らしい仕事だ。
 もっとも、張り切っているのは仕事だけではなく、かなでを守るという新たな目的のせいもあるだろうけれど。
 彼に尋ねれば村の大抵のことは分かるわけなのだが、澪のこの様子では彼の出番はない。本当は嘉章と澪を引き合わせてもいいと思っていたのだが、それはまたの機会にした方がよさそうだ。
「じゃあ、適当に少し歩きましょうか」
 頷く澪。
 蝉のけたたましい声に、澪の草履と、聖のスニーカーの足音が乗っかって、不思議なリズムを奏でる。二年しか居なかった場所――しかも、ここを離れてからほんの数ヶ月しか経っていない。『聞き耳』に苦しみながら人の中で藻掻いていた中学一年までの十数年間に比べたら、この村で過ごした時間は圧倒的に短い。それでも聖は、歩きながらただ一つのことを思った。
「帰ってきたなあ、って感じがします」
 澪が、ふっと鼻で笑う。
「お主、街育ちであろうが。生まれ育ったのは、ここではなかろう?」
「それでも、です」
 聖は生まれ育った街へ戻り、高校へと通っている。今は街で暮らすことに特段の苦しさを感じてはいない。さまざまな『声』に耐えられずに逃げ出した頃が、嘘のようだった。
 それは『聞き耳』を失い、普通の人間として生活しているからだ、と片付けることもできたが、聖自身は、澪と出会ってから育んだ耐えて闘う力のおかげだと信じていた。そうして重ねていく時間が自らの糧になっていると感じる日々だ。
 しかし、ここに来るたび、聖は懐かしさを抑えきれなくなる。
 街には今のような心地のよい風は吹いてはいないし、緑の匂いもしない。そして何より、澪がいない。今すぐにここで澪と暮らせたら、どんなにいいだろうと思う。
 けれど、まだ山に戻るのは早いと、聖は知っている。向こうでの暮らしは、いつか澪と並んで立つために必要な時間だ。帰ってくるのは、もっと大きくなってからでも遅くはない。澪はきっと、いつまででも待っていてくれるはずだから。
「懐かしいけど、しばらくはあっちで頑張ります」
「そうか」
 嬉しそうでも、残念そうでもなく、澪は答えた。この話題に関しては、澪は必要以上に深入りはしない。聖の決意が揺らがぬように、気を遣ってくれているらしい。
「都会のことなんかここ二年ですっかり忘れてましたから、日々勉強ですね。普通の耳にも、ずいぶん慣れました」
「聞き耳がなくて、どう過ごしておる?」
「普通に――多分普通はこういうものなんだろうなって思いながら、学校に行ってます」
「当たり前だったことがそうではなくなって、不安ではないか」
 草履の足音は消えていた。
 振り返ると、澪は眉を寄せて聖を見つめていた。何だかよそよそしい表情は、まるで拗ねているようにも取れる。聖の力を『食った』澪からしたら、その後の状況が気にならないわけがないのだが、彼女はこれまでその話に触れたことはなかった。
「不安がないって言うと、嘘になります」
 澪の眉間の皺はますますくっきりと、深くなる。
「……儂は」
「待って。最後まで聞いてください」
「……しかし――」
 聖は、澪の唇に自分の人差し指を当てた。触れたことのある指先や額のように、この真夏の暑さの中、澪の唇もまた、ひんやりと心地よい温度だった。
 ごく当たり前のように動いた自分の手に、聖自身も、そして澪も驚いていた。これではまるで、普通の恋人同士のようだ。それから、はたと思い至った。今、自分が澪に伝えたいのは、つまりそういうことなのだと。
 名残惜しいけれど、聖はそっと指を離す。熱を奪われて、人差し指だけが少し冷たい。
 澪は律儀に口を引き結んで、次の言葉を待っている。無言ながら、丸く見開かれた目がその驚きを語っていた。
 その姿に、聖は微笑みながら口を開いた。
「どう過ごしているか、というと、この頃はよく耳を澄ますようになりました。今までは聞かないようにしてたのに、おかしいんですけど。そうしてるうちに、分かったことがあって。……異能があっても無くても、毎日は不安との戦いなんですよ。僕のように、ちょっと前まで力を持っていたから不安っていうわけじゃなくて、周りのみんなもきっと同じ。僕は『普通』がよく分かりませんけど、僕が今抱えているものは、どこにでもいる高校生たちと同じものじゃないかなと、思うんです」
 普通の学生たちの中で普通に過ごす。もう、いくら頑張ったって聞こえない心の声を想像しながら、浅く深く、人と付き合う。それは聖にとって初めての経験だったが、聖以外の人間は皆そうして生きてきたのだ。
「それから、僕は力を無くしたんじゃなくて、あなたと分け合ったんです。共有してるんです。だから、悲しそうな顔はやめてください」
 澪が聖の力を食った――それは単に力のやりとりだけではなくて、もっと深いつながり――心と心が触れ合うような経験だったと、聖は思い出していた。
「儂とお主は――ひとつ、か?」
 澪なら分かってくれるはず、と聖は頷いて続ける。
「そう。僕は全然悲しくないし、むしろ嬉しいです。……遠い街でもちゃんとやってるから、心配しないで――とは言いません。今の僕じゃそんなことは言えないから。でも、そのたびに『大丈夫』って笑えるようになることがとりあえずの目標です。そういう、かっこいい男になれるまで、頑張りますから」
「……心得た」
「それと――」
 つい勢い余って、とんでもないことが口から転がり出そうになり、聖は慌てて自らの口を押さえた。
「その、ええと――やっぱり、いいです」
 ほぐれかかっていた澪の顔が、とたんに強ばる。栗色の睫が数度、揺れた。

 どこまで近づいていいのか。
 触れていいのか。
 撫でてもいいのか。
 抱き締めてもいいのか。
 名を呼び捨てにしても、怒られないだろうか。
 大きな声で呼んでもいいだろうか。
 耳元で低く囁いても、許してくれるだろうか?

 言いかけたのは、自分の欲ばかり。澪と離れて暮らすようになってからずっと、そんなことばかりを思っている。彼女に本音をどこまで打ち明けていいものか、聖はぐるぐると考えていた。我ながらどうにもやましくて、正直に告げるのがはばかられる。
 それに澪は、『自分はそういうことは不得手』なのだと言っていた。聖が思っていることなど、澪は望んでいないかもしれない。ただ聖と二人、こうして静かにいられたら満足なのかもしれない。
 澪がそうか、と小さく呟いた。背を丸くして、白い着物の袖口をぎゅっと握りしめている。
「ならば、よい」
 その声があまりに寂しげで、聖は思わず耳を澄ました。もちろん、聖にはもう澪の心は聞こえない。でも、耳はある。さっきの澪の声は、強がった言葉とは裏腹に震えていた。息の方が多いような、かすれた音だった。
 ――澪さまも、不安なのだ。きっと、僕よりも。
 心は、さらけ出さないと伝わらないのだ。言わないことで悲しませ、不安にさせるよりも、ぶっちゃけて呆れられた方がましだ。
 聖は澪の顔をのぞき込んで、「怒らないで聞いてくださいね」と前置きした。絶対に一度は怒るに違いない。問題はその後だな、と聖は笑う。
「僕は、澪さまが神様だっていうのを気にせずに、『どこにでもいる恋人同士』のように、したいです。……澪さまにこれまで以上に近づいたり、触れたりしてもいいですか?」
 澪の頬が、たちまち薄桃に色づいた。
「野暮な。……この阿呆。見目が多少よくなっても、男はやはりいつまでも餓鬼じゃの」
 聞こえよがしに、澪が呟いている。呆れているように聞こえるが、言っている本人の顔が赤いのだから説得力はない。いつもの澪らしい様子に、やはり怒られた、と聖は嬉しくなった。
「それは、『エンレン』というのであろう」
「はい?」
「恋人が離れて住んでおって、なかなか逢えぬ――こと」
 もじもじと揺れながら、澪は眉を寄せて聖を見つめた。
 三秒ほどの後に聖は思いきり噴き出し、同時に肩がふっと軽くなったのを感じた。聖にとって澪の一言は、それほどに明快だった。
 こうしてたまに会うと嬉しい。別れ際は切ない。いつもの暮らしには誰かが足りない、どこか寂しい。そうか、自分と澪とは遠距離恋愛をしているのだと、妙に納得もした。
「笑うな」
 今度はふて腐れている。
「つまり、そういういことじゃ。何を遠慮しているかは知らぬが、儂のことも『普通』に扱えば良かろう。それとも、人間は想い合うものどうしでも許しは必要なのか? ならば、儂が許す。……好きにしろ」
「いいんですか」
「二度は言わん。……儂も、そうする。どうすればよいのかは、多少勉強した」
 勉強って、と聖が聞き返す間もなく、澪は目を伏せて一歩、二歩と前に進み出た。白い着物からむき出しの腕が伸び、聖の首に回る。聖の頬に、澪の頬が触れた。今日の澪は大人の姿に化けていて、聖の顔には彼女の柔らかい髪がかかり、何ともくすぐったい。いつもは冷たいくらいに体温が低い澪なのに、その手や頬――触れ合った部分は熱かった。その温度の意味するところは、鈍い聖にでも分かる。
 いくら華奢だとはいえ、聖と同じ程度の背がある澪。受け止めるにも、それなりの力――体力と、精神力――がいる。
 聖は意を決して腕を広げ、澪をその中に収めた。うまく加減ができなくて力が入る腕を、澪を潰さぬようにそっと緩める。すると、すぐに優しく抱き返す感触があった。
 ――名前を呼んでもいいですか。
 そう尋ねようとして、やめた。
「み、澪、さん」
「阿呆」
「澪」
 今度は詰まらずに呼べた。怒られなかったぞ、と聖は胸をなで下ろす。
 ただ彼女の名を呼んだだけなのに、胸の奥がじんわりと熱くなる。みお、というたった二文字が、どうしてこんなにも心を躍らせるのか、分からない。
 澪は薄目でこちらを睨んでいる。睨まれて嬉しいとは、不思議なものだ。不思議で、分からないことだらけだけれど、ちょうど冬のあの日のように幸せで満たされる。
 澪が口を尖らせた。
「呼んでみただけか?」
「……好きですよ」
「馬鹿」
「阿呆とか馬鹿とかばかりですね」
 それが照れ隠しとは知っていたが、言わずにはいられなかった。ほかの言葉が出てこずに困ったのか、澪は聖の肩に額を押しつけて黙す。初々しさが今日の澪の妖艶な見かけとは対照的で、聖は妙に心を惹かれた。
 そして、澪は一言。
「嬉しい」

 ――ああ、かわいい。もう散歩なんかどうでもいいから、今日はずっとこうしていたい。

「駄目じゃ、駄目じゃ!」
 澪は突如大声で叫ぶと、聖から一歩引いた。
「散歩はもういいや、と思ったであろう!」
 ご明察。
 見事に言い当てられて、聖は慌てる。
「違いますよ!」
「今、何か、やましいことを考えたな?」
「思ってないよ!」
「嘘じゃ」
「嘘じゃない!」
 ――嘘だけど。
 澪はそこでにやりと笑った。直前まで取り乱していたとは思えない余裕のある笑みだった。
「そうやって普通に喋ってくれると、嬉しい。……儂らに、敬語は必要なかろう?」
 謀られたか、と聖は苦笑する。確かに、どたばたとしたやりとりのうち、いつの間にか年の近い人間と話すような雰囲気になっていた。言い出せないことがあったのは澪も同じだったのだ、と気付く。
「やましいことも結構じゃが。……今日はお主とこうして『デート』に行くのを、楽しみにしておった」
 澪は無邪気に顔をほころばせていた。聖は、その冷たい手をふわりと握る。
「……行こうか、澪」
 山の神との遠恋は、まだまだ先が長い。

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