その、幽かな声を

翠嵐 後編【番外8】

 前を行く東風がぴたりと足を止めたのは、澪の祠のある頂上付近からだいぶ下ったあたりだった。
「ここから来たの?」
 聖の問いかけに東風は頷くような仕草を見せた。
 ちょうど、澪の縄張りの山麓、外界との境目。そこまで常に気を張っていられるほど、今の澪は力を持っていない。故に、進入者にも気づかないときがある。その綻びから東風が入り込んだとしても不思議はない。
 逆に考えるならば、迎えが来るとしたらやはりここだろう。
「……自分で言うのもなんじゃが、締め付けが緩んでおるな」
 澪は目を凝らし、藪の中を見つめる。木漏れ日の中にひょろりと伸びる若木、丈の高い草の群生、背の低い草の茂み。東風に似た姿を探して見回すが、怪しいものは特にない。
「聖、どうじゃ?」
 返事はない。隣を見ると、聖はまるで音を集めるかのように耳に手を添え、一心に何かを『聞こう』としていた。いつもの耳栓はなく、彼が力を最大限に高めているのが分かった。
 澪は邪魔にならぬよう、黙って待つ。
 手持ちぶさたにまじまじと眺める横顔が、普段よりもやや大人びて見えた。真剣な表情をすると、いつもの幼さは影を潜めて雄の顔が出る。
 出会ってまだ一年というのに、聖は駆け足で育っているようだった。人と澪とでは流れる時の速さが違うと理解しているつもりでも、側にいれば嫌でも思い知る。今では、背がなかなか伸びぬと愚痴る彼にほっとするほどだ。
 やがて、聖はにっこり笑って東風に呼びかけた。
「東風に似た足音がするよ」
 分かったのかどうか、東風は短く鳴いた。話しかけられていること自体は理解しているようだが、言葉で答えることはできないらしい。
 聖は澪にも笑いかけたが、澪は「そうか」と一言返したのみだった。
 自らが呟いた言葉の素っ気なさに、澪は自分のことながら驚き、そして俯いた。心の内がみるみるうちに曇ってゆく。しかし、どうすればその陰りを止められるのか、澪には分からない。
 東風を手放したくないと、知らず思っていたのかもしれなかった。
 しかし、それでは誰も幸せにはならない。
 そんなことは、考えてはいけない。
 それでは、聖に――嫌われてしまう。
 ――それ以上はやめよ!
 僅かに残っていた、冷静な自分が警告する。
 今の聖は『耳』を封じていないのだ。慌てた澪は、まるで扉の向こうから差す光を恐れるかのように、心を閉ざそうとした。
「澪さま?」
 光の中――いや、すぐ隣から、聖の声がした。気遣うような声色にも、澪は歯切れ悪くしか答えられなかった。
「なんでも、ない」
「でも、顔色が悪いですよ」
「……大丈夫じゃ」
 聖はまだ何か言いたげだったが、小さなため息とともに、再び藪の向こうへと目をやる。
 足音は次第に近づいてきて、聖だけではなく澪にでも聞き取れるほどになっていた。確かに、東風によく似た足運び、四つ足の獣の気配。ただし、歩幅と重さからすると、東風よりもかなり大きい。
 やがて、草を踏む音が間近でしたかと思うと、その主が姿を現した。
 東風に似ているが、長い鼻先、聖の背の高さと同じくらいの長い胴体、そして東風よりも更に鋭い鈎爪――それはまさしく『鎌』と呼ぶにふさわしい――を持った獣だ。後脚で立ち、首をぴんと伸ばしてこちらを注意深く観察している。
 東風も短い後足でなんとか立ち上がると、きゅうきゅうと鼻にかかった声を出し始めた。
「大きいけど、あの方も鎌鼬ですよね」
「うむ」
「東風の家族?」
 きゅう、という東風の声。それを確認して、聖は客人に呼びかけた。
「この子の、ご兄弟ですか?」
『姉でございます』
 中性的なその声は聖より少し低いが、姉と聞けば女性のもののように思えた。東風の唸り声とは違い、澪にもしっかりと言葉として認識できる。
 聖が身振り手振りで自らを指し示し、自己紹介を始めた。住む世界が違う相手にものごとを伝えるには、大きな動きがいちばんよいのだそうだ。聖は、それを身をもって学んできたという。
「僕は、聖といいます。人間です」
『人間?』
「ええ。人ですが、あなた方の声を聞くことができる者。『聞き耳』です。……この山にはご縁があって、よく来るんです。そこで、迷子の東風――いえ、この子に会いまして」
 大きな鎌鼬は、こちらも聖同様に分かりやすく、大きく頷いて見せた。
『聞き耳とは――なるほど。……この子を助けて、世話して下さったのでございますか』
「いえ、僕は。……こちらはこの山の主、澪さま。お世話は澪さまがしてくれていて、僕はただのお手伝いです」
『ありがとうございます、澪殿、聖殿。私は旋風(つむじ)と申す者。ご覧の通り、鎌鼬でございます』
 鎌鼬、東風の姉である旋風は、深々と頭を垂れた。澪が黙ってその頭のてっぺんを眺めていると、彼女はその態度に促されたと思ったか、弟とはぐれて以来、ずっとこのあたりの山を探し回っていたのだと述べた。
『悪いものにでもとって食われたか、あるいは飢えて泣いているか――もしや、どこかで冷たくなっているのではと、不穏なことばかり考えてしまいまして。元気でいてくれて、本当に良かった。……”いなさ”。もう、勝手にいなくなっては駄目よ』
 きゅう、と東風が鳴く。
「”いなさ”っていうんですね」
 隣で聖が呟いている。
 旋風は涙を浮かべて東風を見つめていた。優しい、慈しみに溢れた視線が春の木漏れ日のように東風に注ぐ。東風も、応えて鳴く。

 ――ああ、これが、『家族』というものか。

 澪は不意に悟った。愛情を無条件に与え合う関係、求めずとも側にあるあたたかさ。
 澪が東風から得たものは、果たしてそれと同じものだったのだろうか。途端にずきりと痛んだ胸をそっと手で押さえたが、治まるわけもない。
『いい方に巡り会えて、よかった。……さあ、帰りましょう』
「東風――じゃなくて、いなさ、だったんだね。会えて良かった。お姉さんと一緒に、お帰り」
 いなさは聖の言葉に頷くと、聖、そして澪の顔をしばらく眺めていたが、やがて旋風の方へと歩み出した。てくてく、てくてくと、鈍いが確実に遠ざかってゆく。
 ――行ってしまう。
 何か声をかけたかったが言葉にならなかった。ただ東風の名前だけは、辛うじて言えた。
「東風――」
 東風、いやいなさが立ち止まり、振り返る。澪をまっすぐに見て、おずおずと小さな口を開く。
「――、――」
 これまでとは少し違う、澪が初めて聞く鳴き声で、むぐむぐと口元を動かしている。何ごとか言っているようだが、澪には相変わらず分からない。が、頷いた方がよいような気がして、澪は首を縦に深々と振った。
「……さあ、早く行かぬか。家族が、待っておるぞ」
 上手く、言えた。
 東風は姉の方に向き直ると今度は勢いよく駆け去っていった。旋風は東風をそっと背に乗せると、何度も何度も頭を下げながら遠ざかり、見えなくなった。


「……行っちゃいましたね」
「うむ」
「寂しくなりますね。澪さまは、大丈夫ですか?」
「また、前に戻るだけじゃ。心配無用」
「澪さまは、どうしていつも――」
 聖は、そこで言葉を切った。しばらくの間、何かを堪えるような表情をしていたが、やがて泣きそうな顔で澪を見た。
「寂しいって言って、いいんですよ」
 聖の言葉が、澪の心をえぐる。
「し――しかし、東風は無事に家族の元に帰った。それで、良いではないか。違うか?」
 図星を指された澪は、しどろもどろになりながらもまだ強がってみせる。しかし、聖の追及はやまなかった。
「ほんとにそう思っているんですか」
 聖は「ああ――もう!」とやや苛々した様子で声を上げた。驚く澪に、聖は頭を下げた。
「ごめんなさい。僕はまだ力を開放したままです。分かってしまうんです、あなたの心」
 優しく微笑み、聖は告げた。
「でも、僕はちゃんと澪さまの声で聞きたいんです」
 聖の手が、勇気づけるように澪の手を握る。失ったあたたかさによく似た温度。
 澪は俯き、絞り出すかのように呟いた。
「名など付けねば良かった。誰かと共に迎える朝のあたたかさなど、知らねば良かった。東風と出会わねば――」
 東風ではなく、いなさ。
 そうは言えども、澪にとっては東風は東風。元の名に戻る――東風ではなくなってしまったら、一緒に過ごしたこの数日は無かったものになりはしないか。だから、聖が旋風の足音を捉えたとき、澪は邪な思いを抱いてしまった。迎えなど来なければいいものを、と。
 そして、それを聖に告げるのを恐れた。彼の前では心を乱さず、毅然としていたかった。 心の内をさらけ出して、彼が離れていったら――ほんの一瞬、そんな醜い考えが頭をよぎった。
 そもそも、出会わなければよかった。ならば、別れることもなかった。それだけのことだ。
 ――なのに、こんなに胸が苦しい。
「名前を呼べて良かった。あたたかくて嬉しかった。そうじゃないんですか」
 笑みを浮かべて聞いていたはずの聖は、いつの間にか眉間に深く皺を寄せていた。表情は、当初の泣きそうな顔に戻っていた。
「いつもは言われてばかりですけど、今日は僕から言わせてもらいます。澪さまの、大馬鹿者!」
「な、――」
 澪は、何じゃと、と言おうとしたが、呆気にとられるあまり言葉が出てこない。まさか、聖に馬鹿者と言われるなどとは思いも寄らなかった。呆然とする澪に、聖は早口でまくし立てる。
「僕がそんな小さなことで澪さまを嫌いになるはずないじゃないですか! むしろ、澪さまの弱いところ、もっといっぱい見せてほしいくらいです。僕、いつだって一緒に立ち向かいますから。あたたかさだって、僕がいくらでもあげますから! 会わなきゃよかったとか別れなくて済むとか、悲しいことなんか考える暇ないくらいに。だから――」
 聖は肩を大きく上げて息を吸い込むと、真っ赤になって叫んだ。
「今はとりあえず、あたためます!」
 まるで体当たりのような勢いで、聖は澪を抱き締める。片手は澪の背、もう片方の手は頭の後ろを力強く支え、包み込む。あたためますの言葉通り、体にも、心にも、聖の温もりが伝わってきた。
 耳元で、聖の熱っぽい声。
「澪さまは醜くなんかない。ただ、寂しがり屋で、少し意地っ張りなだけです」
「……そうか」
 聖は小さな声で、囁くように澪に語りかけた。
「僕は両親とか姉弟とは離れてるけど、従兄弟が一緒にいてくれて、今では本当の兄さんだと思ってます。……縁があれば、いつでも誰とでも繋がれる」
 旋風といなさの絆を目の当たりにして、聖だって寂しくないはずがない。それでもそのようなことはおくびにも出さず、澪を慰めることに心を砕いてくれる。澪の心を読んだ上でなお、聖は離れずにいてくれる。
 澪は、許されたのだ、と思った。醜くちっぽけな自分を晒しても、聖ならば受け止めてくれる。
 ――儂に家族がいたら、もし聖が家族になってくれるなら、胸の中がいつも光で満たされるのだろうか。儂と聖も、心で繋がれるのだろうか。
 口には出さなかったのだが、心を『聞いた』のか、聖が答える。
「み――澪さまがいいなら。でも、あの、それって――僕が、澪さまの家族にって――ほんとに、本気で」
 どうも様子がおかしい。儂は何か間違ったことを言った――実際は言っていないのだが――だろうか。
「間違ってないです! けど」
「どうした?」
「いえ。……何というか――僕は、早まった、ような気が」
 聖は澪から離れると、真っ赤な顔のままで俯いた。おもむろに耳を封じ、何かを悔やむように顔をしかめている。
「僕、少し訂正します。……澪さまは、寂しがり屋で、意地っ張りで――天然、なのかも」


 その日、聖は日が沈む寸前まで山にいてくれた。彼は去り際に、思い出したように話しかけた。
「東風、最後に頑張って喋っていましたね」
「いいや。儂には、よく分からなかった」
「そうだったんですか!」
 じゃあ落ち込むのも無理はないですね、と聖はにこにこと笑う。目を丸くしている澪に、聖は耳打ちした。

『みおねえさん。こちはいく。いつか、またあおう』

 ――澪姉さん。また会おう。
 ――儂は東風の支えになれていたのだな。そう思って、いいのだな。
 澪はきつく下唇を噛んだ。そうでもしないと、熱いものが零れてしまいそうだった。
「東風にとって、澪さまはきっと忘れられない存在なんだと思いますよ」
「うむ。……東風と一緒に居られて、儂も嬉しかった」
「やっと素直に――笑ってくれましたね」
 明日も来ます、できるだけ早く、待ってて下さいね、と何度も振り返り、その都度澪に言葉をかけながら、聖は山をあとにした。
 一人になった澪は、ねぐらで丸くなる。隣に誰もいなくても、今日は心がほっこりとあたたかく、良い夢が見られそうだった。

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