その、幽かな声を

木漏れ日【番外9】

 澪は、しばらくぶりの感触を味わっていた。
 二本だけの足で掴むと、地面はより固く感じられる。土から離れて自由になった両の手は蹄を脱ぎ捨てた。耳は縮み、尾はなくなり、どうにも心許ない。この頼りなさに慣れるまではしばらくかかるだろう。
 両手を二度、三度と結んで、開いて、もう透けてはいないと確認する。紅葉のようなというには大きすぎるが、その昔、ヒトに化けていた頃はもっと大きかったように思う。だいぶ遠い記憶だから、はっきりとは覚えていないけれど。
 澪が再び力を得たのはつい先日。自由に何でもできるというわけではないが、このように化けたり、山の力を借りたりする程度までは回復している。
 ――しかし、このか弱い姿で、儂はこれから何をしようというのか。いつ、また消えるのかも分からないのに? もし、以前のように誰も訪れてくれなくなったら?
 独り静かに消えるのを待っていた日々は、寂しくて恐かった。でも、独りで運命に抗うのはもっと恐い。いや、抗ってもさだめは変えられない、そう気付いてしまう瞬間が来るのが恐ろしかった。
んな重苦しい空気を断ち切るように、澪の耳に瑞々しい声が飛び込んできた。
「澪さま!」
 振り向くと、見覚えのある少年がそこにいた。
 首に巻いた手拭いで額の汗を押さえながら、こちらへ手を振っている。聖の真っ赤な顔に、今日はそんなに暑かっただろうか、と澪は空を見上げた。
 確かに、木々の隙間から日射しが覗いている。どうも、そういう感覚は昔よりも疎くなっているらしかった。
「人間の姿でいても大丈夫なんですか」
「……うむ」
 そうなんだ、よかったですと聖は笑った。
 澪が舞い戻って来ることができたのは、この少年のおかげだった。こうして見るとただの小僧だが、彼は『聞き耳』――獣である澪にさえ聞こえぬ声なき声、人にあらざるものの叫びを捉える耳を持つ人間だ。そう、例えば幽世に足を浸していた澪のすすり泣きでさえも聞きつけるような――。
 ――うっかりすると、また心が漏れてしまうな。
 澪は気を引き締めて聖を見返す。澪の心中を見透かしたかのように、聖は慌てた様子で言った。
「ああ、あなたの心を盗み聞きする気はないですよ。今は、普通の人間程度にしか聞こえません。ほら、耳に蓋をしていますから」
 聖は自らの耳を指差した。耳には目立たないように詰め物がしてあり、見た目でいえばそれだけが普通のヒトとは違う、と澪は思った。
 できるだけ表情を変えぬよう、澪は尋ねる。
「……今日は、何じゃ?」
「特に用事はないんですが。……じゃあ、お話しませんか」
「何の話を」
「うーん」
 聖は首を傾げると、眉を寄せたまま笑ってみせた。
「じゃあ、今日は僕のことを話します。僕がどんな人間か、分かって貰えればいいなあと思うので。……自分のことを誰かに話したことなんてほとんどないから、考えながらで、お聞き苦しいと思いますけど」
 それから聖は、慣れない口ぶりでぽつりぽつりと語り始めた。

 物心付いたときにはすでにその力を宿していたこと。
 耳のせいで周囲から疎まれ、ひとりになってしまったこと。
 心がぼろぼろになってしまい、療養のために親元を離れ、この村にやってきたこと。

 聞いている澪の胸でさえも苦しくなるようなことを、聖は涙一つ見せずに呟いていった。おそらくその辛い過去のすべてを伝えきれてはいないだろうけれど、聖が語る断片的な思い出だけでも充分に哀しかった。
 一区切り付いたところで、聖はすでに汗が引いていた顔を手拭いで覆った。その肩は震えていたが、澪は見て見ぬふりをした。
「こんなふうに、あやかしの皆さんと一緒にいる方が安心するんです。……実は、人間と向き合うのは、まだ恐くて」
 再び顔を見せたときには、聖は笑っていた。何かをごまかすような笑顔は本心からのものではないように見え、聖の心には未だに深い傷が残っているのだと澪は気付いた。
 澪が聖に頼らねば生きていけないように、聖もあやかしを――澪を、心の拠り所にしているのだ。
 ついこの前までは、消えるのには独りが好都合だと思っていたはずだった。ならば今、独りは嫌だと泣くこの心は何だろう。聖となら――と、自分はどこかで願っているのだろうか。
「お主、今はヒト並みなのじゃな」
「あ、はい」
「では逐一伝えねばならぬな」
 聖は耳の栓を確認するように押さえた。どうも、きっちり詰められていたものをさらに入れ直したようだった。
 澪も、自らのことを誰かに話すのは久々だった。いや、先日聖に出会うまでは、誰かに会うことすらとんとなかった。
 やはりたどたどしく、澪は話し出した。
「お主さえよければ、いつでも来い。……儂も、その、それなりに待っておるからの。独りより、二人の方が――悪く、ない」
 聖の表情がぱっと明るくなったかと思うと、澪は、自分の手が温かくなるのを感じた。
 はっとして隣を見れば、聖が身を乗り出し、澪の手に手を重ねていた。鈍くなった身体も火照るくらいの温度だった。びっくりして言葉を切ると、聖も自身がいちばん驚いたというような顔をして手を引っ込めた。
「すみません! つい、嬉しくなってしまって――失礼しました」
「い、いや、別に気にはしておらぬ」
 林を渡る風に木々の葉がさわさわと鳴り、梢から光が漏れた。その中に膝を抱えたちっぽけな影が二つ。それがなぜか、澪にとっては心地よかった。

 沈黙をしばらく楽しんだのち、聖は「また、明日」と言い残して帰っていった。
 澪はといえば、ヒトの形が前ほど嫌ではなくなっていた。
 目線は獣の姿のときよりも低い位置になった。遠くは見えづらくなったが、代わりに見えてくるものもある。柔らかい手は頼りないが、繊細に触れたり、掴んだりするのには向いているのかもしれない。ちょうど、先ほどの聖のように。
「この姿も、なかなか」
 澪は、ほのぼのとひとりごちた。

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