その、幽かな声を

片葉が淵【後】

「おう、やっぱ来たか」
 雨の中、葦淵を尋ねた嘉章に片手を振り、有月は相変わらずの笑顔で答えた。
「覚悟は、できたかい?」
「はい。力になってもらえるというなら、機会は逃せません」
 はっきりと約束したわけではなかったが、あの日以来の夕立に、嘉章はまっすぐにここを目指してきた。
 いい心がけだ、と有月は嘉章の肩を叩く。ぬるい雨が落ちる蒸し暑い空気の中、有月の手だけがひんやりと冷たくて、嘉章は思わず身を縮めた。一方の有月はそんな嘉章の様子にはお構いなしに、やはり笑っている。
 大事な人を失って、ひとりきりでずっと過ごして、どうしてこの人は笑っていられるのだろう。かなでを亡くした喪失感からいまだ立ち直れてはいなかった嘉章は、思い立って尋ねた。
「……有月さま。一つ訊いてもいいでしょうか」
「ん?」
「有月さまは、お相手を呼び戻そうとは考えなかったんですか。独りになって、寂しくはないんですか」
「寂しいさぁ」
 彼は、きょとんとして嘉章を見つめると、当然、といった口調ですぐに切り返す。その姿に、嘉章はわずかながら苛立ちを覚えた。
「……でも、あなたは平気そうに笑ってる」
 嘉章はついうっかり口に出してしまってから、有月の表情が凍り付いているのに愕然とした。次の瞬間、有月は初めて、波立った声で叫んだ。
「これはな、平気に見せてんだ! おめぇ、自分が同じ思いしてわかってるはずじゃねぇのか? 愛するやつがいない世界なんて、つまんねぇに決まってるだろう。……このあたりもどんどん住みにくくなって、おれぁ今じゃこんな小さな池に一人きりだ。それでもおれは生き延びて、やらなきゃなんねぇことがあったんだ。生きていく以上は、大切な人たちを心配させまいと考えるだろう? おめぇは、『いつでも明るい自分』を演じてたことはねぇのかい?」
 有月を覆っていた殻が割れるのが、嘉章には分かる。それはまるで苦しさのあまり無理やり喉から絞り出したような呻きでもあり、同時に獲物に飛びかかる獣の牙のように鋭い糾弾でもあった。ほんの少しできた亀裂から、まるで泉のように彼の想いが噴き出してくる。
 嘉章はその剣幕に押されながら、自分の浅慮を恥じていた。有月のやるべきことというのが何なのかは想像もつかないが、嘉章自身だってかなでへの祈りのためにここ一年を過ごしてきた。表面上は楽しい先生、元気な従兄弟をひたすら演じ通してきたというのに、有月にはその苦労を汲み取ろうとはしなかった。
「それにな、おれの女は呼び戻すまでもなく側にいたよ。……あいつの宿ってたもんは、もう、とっくに枯れちまったがねぇ」
 落ち着きを取り戻した有月は静かに語りかけ、黙り込む嘉章を意味ありげに見た。その瞳は、再び穏やかに凪いでいて、嘉章はほっとしながらも切り替えの早さに舌を巻く。年の功なのだろうか。
「枯れた?」
 有月の言葉を反芻しながら、嘉章は記憶を辿る。
『ほんとに残念ながらな、片葉の葦はもう大分前に枯れちまったようだよ』
 ごく最近聞いた覚えがあったとは思ったが、ほぼ瞬時に、出会った日の有月のせりふが痛いほど鮮やかに蘇ってきた。浮かんだ単語を、恐る恐る口にする。
「……片葉の、葦」
 有月はにやりと笑ったものの、そんなに嬉しくもなさそうに「ご明察」と答えた。その目は、どこか遠くの一点を見据えている。嘉章が視線を辿ると、それはどうやら葦淵の跡――有月の住処――を指しているようだった。つられて嘉章もそちらを見ていると、有月はやがて一つため息を吐いて、淡々と自分の過去を話し出した。
「相手が淵のヌシのおれだと知って、娘を不憫に思った親たちがなきがらを沈めてくれたのさぁ。そこから生えた葦は片葉でな、葉は常に淵の真ん中の、おれの寝床を指してたよ。おれは長年その葦を守り続けてきたんだが、結局水は涸れ始めて、水辺にあったあいつの葦もなくなっちまった。護るべきもんはもう無いわけだ。……いくら詣でるヒトが多いとはいえ、おれは淵に依存してるもののけだ。じきに淵が干上がれば、おれもいなくなる」
「いなくなるって」
「事実、もう消えかけてるのさ。……なら、最期に同じ境遇のやつを一人くらい助けたっていいんじゃねえかと思ったわけよ」
 葦に姿を変えても有月を求めていた娘と、その傍らに居続け、黄泉へと見送った有月。『やらなきゃなんねぇこと』が、嘉章にはやっと見えてきていた。娘の葦を見守るために彼は生き延びなくてはいけなかった。壮絶な悲しみがあっただろうに、それを押し隠して、笑顔で彼女の隣にいたのだろう。葦が枯れた今ではその必要もなくなってしまったが、笑顔の仮面だけは今もなお残っている。
「俺、ずいぶん失礼なことを言いました。申し訳ない」
 何を言っていいのか分からずに、嘉章は有月に向かい深々と頭を下げた。別れを二度も経験している有月だから、嘉章にいろいろ助言をし、世話を焼いてくれようとしていたのだ。自分の最期の力を使おうとしてまでも。
 有月は空気を切り替えるように「気にしちゃいねぇよ」と明るく言って頭を掻くと、そのまま腕を組み、地べたに胡座をかいて座り込む。
「おれは水の怪(け)だ。弱ってる今じゃ、雨の落ちてるときしか自由に動けねぇから、時間はそんなにねぇぞ。……ちょっと醜い姿になるが、怖がらねぇでくれよ。近ごろ、淵が小さくなったんでめっきり力がなくなっちまった。人になるのも結構疲れるのさ」
 人の態(なり)は保ってはいたものの、目の前の有月には、みるみるうちにくすんだ光を放つ鱗が逆立ちはじめていた。ひょろりとした姿はたちまちに手足を失い、太い綱のように変化してゆく。呆気にとられている嘉章が気付けば、人語を操る大蛇――本性を現した有月がそこにいた。優に嘉章の背丈を超えるサイズの蛇が、蛇らしくもなくぼやくのがなんだか可笑しい。
「さて。……おれの力をおめぇの女にくれてやる。葦淵のヌシとしてじゃぁなくて、この社の神として呼び戻すことになるから、淵が涸れても問題はねぇ。ただし、詣でるヒトがいなくなったら消えるぞ。まぁ、おめぇはきっと死ぬまでここに通うだろうから、そこは心配しちゃいないがね」
「はい」
「それともう一つ。今回はおれがついてるから呼んでやれるがな、一旦ここに収まっちまえば、よほどの力を得ない限りは未来永劫ここからは出られねぇ。社の神は自分の縄張りの中だけが行動範囲だ。それでも構わねぇな」
 嘉章に、もう迷いはなかった。例え制限の付いた命であっても、一緒に暮らせなくても、そんなことは何の障害にもなりはしない。かなでが、どんな形でも自分を求め続けてくれていると信じる。そして自分自身も、かなでを守っていく決心ができている。
 有月は、表情の読めない瞳を光らせながら嘉章を覗き込んでいる。今は見えないものの、大蛇の無機質な目の奥には優しげな青年の笑顔があるはずだ。それを思いながら、嘉章が力強く頷くと、蛇の有月も満足そうに頭を上下に振った。
「おめぇみたいなのに想われる女は、幸せだろうなぁ。……今はちょうど盆だ。彼岸と此岸が近いからやりやすいかもしれねぇ。おれも力を貸してやるから、ありったけの心で呼び寄せろよ」
「分かりました」
 やり方など分からない。ただ一心に念じるしか嘉章にはできないが、今求められているのは正にその力なのだろう。
 嘉章は社の前で手を合わせ、頭を垂れた。雨は止む気配もなく、むしろ降りは強くなってきていて、祈り始めた嘉章の身体を容赦なく濡らす。
 背に固い鱗の感触がしたかと思うと、有月の冷たい身体が触れた。ひやりとした温度はあっという間にぐんと上がり、嘉章の背中は焼かれているように熱くなる。有月が自分に力を分けてくれているのだろう。
 そんなことにはまるで構わず、嘉章は胸の中でひたすら呟き続けていた。

 お願いします。
 かなでに会わせてください。彼女の本当の声を、俺に聞かせてください。そしてどうか一言、あのとき言えなかったことを伝えさせてください。
 そのためになら、何でもするから。

 もはや誰に何を頼んでいるのかすら分からなくなったころ、後ろの有月がかすれた声で「見てみな」と嘉章の背中を押した。そこにはすでに先ほどまでの熱はない。
 嘉章がそっと頭を上げると、小さな社のちょうど雨が当たらない軒下に、目一杯の笑みを浮かべて、女性が腰掛けていた。
 目に焼き付いている最期の表情と同じ、幸せそうな笑顔。透けるほど白い肌に、漆黒の髪が豊かに広がり、滑る。間違いなく、嘉章が一年間追い求めていた姿――。
「かなで!」
 それは、確かにかなでだった。
 嘉章は足をもつれさせながらも駆け寄り、ほとんど飛びつくようにしてかなでをかき抱く。瞳を閉じ、彼女の頬を擦り寄せるようにしっかりと自分の頬へと押し当てると、息づかいが皮膚越しに聞こえてきた。そしてさらに伝わってくる、別の震え。
「……よ、し、あ、き、さま」
 その声に、嘉章は思わずかなでの身体を自分から引き離し、彼女の口元を凝視した。
 そう。それは声だった。嘉章の想像の範疇をはるかに超えた可憐な音が、声を持たないはずの彼女から――。
「そりゃ、ほんのおまけだよ」
 有月の、どこかとぼけたような声がする。礼を言う心の余裕もない嘉章に、かなでが畳み掛ける。
「嘉章さま。……お慕い申し上げております、嘉章さま!」
 幻聴でも何でもなく、その声はかなでの喉から発せられたものだった。
 驚愕のあまり動きを止めた嘉章の胸に、目を潤ませたかなでが飛び込んできた。その勢いの良さに、嘉章がたまらず夕立で濡れた地面に倒れ込むと、彼女も一緒に転げる。身体の下で、水しぶきが跳ねる音が聞こえた。
「私、声が出ます!」
「ああ」
「嘉章さま。聞いてくださっていますか、私の――」
「ああ!」
 かなでが――愛するひとが確かに目の前にいて、自分の名を呼んでいる。これは何だ。この幸せが奇跡じゃなくて何だというのだ。
 嘉章はうまく気持ちを表せずに、とにかく呆れるほど何度も頷いて彼女に答えた。一度開いた口を閉じ、返事の代わりにかなでをきつく抱きしめる。何か言うと泣けてしまいそうで、なかなか思うように言葉を紡ぐことができないのだ。
「……俺を好きになってくれて、ありがとう」
 やっと押し出されたのは、去年の夏に伝えられなかった告白だった。かなでは嘉章の耳元で「こちらこそ」と囁くと、力を抜いて身を嘉章にゆだねる。すると、予想以上の重さと柔らかさが、しっかりとした存在感となって嘉章の腕に返ってきた。
 ずっとこのままでいたい。喜びで痺れる頭の片隅でぼんやりとそんなことを考えていると、有月が二人に声を掛けてきた。
「おれみてぇな独りもんにゃあ、目の毒だねぇ」
 有月はそう言いながらも特に目を逸らすでもなく、嘉章とかなでとを見守っている。相変わらずの蛇体だから表情は分からないが、からかうような声は至極機嫌が良さそうだ。
 二人は有月の言葉にさっと赤面し、慌てて距離を取った。
「おや、もう終わりかい?」
 いくら感謝してもしきれないほどの喜びを、有月からはもらった。嘉章が慌てて頭を下げ、礼を言うと、かなでもそれに従う。
「本当に――本当に、ありがとうございます、有月さま」
「まさか、声まで。いただいたお力は、必ずこの社のために使います」
 有月は長い尾を振るうと、「なぁに、『さぁびす』だ」といつもの調子で答えた。
「もっと見ていたいのはやまやまだけどな、もう時間がねぇのよ。おれも、あいつのとこに行ってやらねぇとな。……雨が上がる前に、空に昇る。辛気くさいのは嫌いでね。気を遣うのはやめてくれな」
 雨の音すら聞こえないほどに浮ついていたことを、嘉章はそれで初めて気付いた。見上げると、雲の色は白っぽく変わり、蝉の声が戻りつつある。夕立のピークはとうに過ぎ、雨粒は小さく軽くなっていた。
 昇るというのは、あちらの世界に旅立つという意味だろう。思い出してみれば、夕立の日に出会った時から有月の身体はすでに力を無くしかけ、透けていた。嘉章とかなでの縁を結んだら、この世を去る。有月ははじめからその覚悟で自分に声を掛けたのだと、嘉章はもう分かっていた。
「有月さま」
「おう。……最期のお役目がおめぇらで良かったよ。ありがとうな、ヨシアキにカナデ」
 有月はそう言うと、天を指して鎌首をもたげた。尾で地面を蹴り、まるで龍のように空へと泳ぎ出す。その姿は空中を這うようにして進みながらぐんぐん小さくなり、やがて灰色の空の彼方へと消えていった。
 有月がいなくなったというのに、見送った嘉章は不思議と寂しさや悲しさは感じなかった。なぜだか、確信があったからだ。彼岸と此岸が近い時期というなら、きっと彼も想う相手、葦の娘に会えることだろう、と。

「ヨシ兄、何なの? ニヤニヤして。休み中、何かいいことでもあった?」
 お盆の帰省から帰ってきた聖に何から告げようか、嘉章は逸る心を必死になだめながら切り出す。
「おう、聞いて驚けよ。実はさ――」

-Powered by HTML DWARF-