その、幽かな声を

年の賜物

 一月一日、朝。
 寝ぼけまなこでカーテンを開けると、窓から見えるアパートの裏手の林は真っ白に染まっていた。もともといくらか積雪はあったものの、年末、しばらくは暖かい陽射しが降り注ぐ日が続いて灰色がかった根雪に変わりつつあった。その上から、粉砂糖を振りかけた、なんて言い回しでは物足りないくらい――例えるなら、二十五メートルプールいっぱいの粉砂糖をぶちまけたような――それでも足りないくらいの量の雪が、新たに降っていた。
 聖は自分の想像に奥歯をきしませながら部屋を出ると、台所を見回す。男二人の住処に豪勢なおせち料理があるわけがない。幸いにも昨日食べ損ねた年越しそばが残っていたので、あまりにひどい組み合わせだとは思いながらも餅を焼いてそばにトッピングし、朝食にした。もはや、メインがそばなのか餅なのか分からない。
 嘉章は年末恒例の格闘技中継を見終わった時点で力尽き、元日は寝過ごすとあらかじめ宣言していた。ご飯のお供にとテレビを付けると、全国の新年の風景が生中継されている。初詣客が波のように神社を訪れる様子に、聖は急いでそばをかき込むと、前々から準備していたディパックを背負って家を出た。

 粉雪の上は予想以上に踏ん張りがきかない。ふわふわの雪を掻き分けながら山道を進むのにも疲れてきたころ、ようやく澪のいる祠が見えた。息を弾ませながら、最後の一頑張りと勢いをつけて坂道を登り切ると、それに合わせたように澪が姿を現す。もしかしたら自分を待っていてくれたのかもしれない。
 澪が雪を寄せたのか、祠と大杉の周りは道が確保されて歩きやすい。聖は澪の元へと駆け寄り、「あけましておめでとうございます!」と一気に言い切った。
「おう、聖」
 澪は頷くと「年始回りとは律儀じゃのう」と言い、からからと笑った。相変わらずの白い着物姿が、今日は雪からの光でさらに白く輝いて見える。眩しさに目を細めつつ、聖は背負ったディパックからビニール袋を取り出して澪に示した。嘉章が買い求めたのだが、購入以来袋に入れっぱなしで放っておかれていたので、無断でこっそり借りてきたのだった。
「少しはお正月っぽく飾るのもいいんじゃないかと思って、鏡餅と小さい門松を持ってきたんです。あとは熱いお茶とおやつ、ミカンをいくつか差し入れに」
「飾りか。儂はこだわらぬが、確かに気分は出るな。……うむ。面白い者に会えるかもしれぬ。ほれ、この辺にでも置いてくれるか」
 澪が指さしたのは、自分の寝床である祠ではなく、その隣に立つ大杉の根本だった。念のため、祠に供えなくていいのか、と聖が尋ねると、澪は手でひさしを作りながら杉の梢を見上げた。
「高いところが好きじゃからのう。きっとここから来る」
 どうも、餅と門松は澪自身ではなく他の誰かへのお供えものらしい。腑に落ちないながらも、聖は言われたとおりの場所に雪山を造り始めた。積もった雪の一番上は降ったばかりの粉雪だが、その下は湿った締まり雪で山をこしらえるにはもってこいの状態だ。小山の中をくり抜いて穴を開けると、澪が少しだけはしゃいだ様子で歩み寄ってきた。
「かまくらじゃな。ずいぶん可愛らしいのう」
「小さいころ、冬になるとよく作っていたんですよ」
 昔は冬休みには祖父の家に行き、やはり正月に合わせて訪れる従兄弟たちと雪遊びをしたものだった。その中にはもちろん嘉章もいて、彼がリーダーとなって作る大きなかまくらは聖の楽しみの一つになっていた。そう言えば最近、祖父母や親戚たちにはあまり会っていない。年始のドタバタが終わったら、嘉章を誘って行ってみようか。
「今は、やらぬのか?」
 心なしか弾んだ声。この神様はこう見えて意外と子供っぽいところがあるから、もしかしたら自分もかまくらを作りたいか、中に入りたいのかもしれない。澪がどうにか自分で雪を除けるとしても、これだけ降るのなら聖も雪かきの道具は持って来ないと登山道を見失うことになりそうだ。それなら、そのついでに人が入れるサイズのものを作ればいいだろう。
「そうですね、じゃああとで大きいのを作りましょうか」
 聖はそんなことを言いながら、かまくらの入り口に門松、中に餅を置く。お供えに関わる礼儀はさっぱり知らないのだが、門松は『家』の外に飾るものだろうと勝手に考えた末、小さな『家』を作ってみたのだった。
「中に火でも灯せば綺麗じゃろうな」
 無邪気なものだ。澪はそう言うと、髪の毛が雪の上に広がるのにも構わずに、地面に頬を擦るようにかまくらをのぞき込む。
 今日は新雪が比較対象なので、いつもは白く見える澪の肌ですら紅く色づいて見える。その着物も、まさに雪のように白い。澪の本来の姿は、白というよりは銀に光る、美しい毛色の鹿だった。ヒトに化けるのがどういうメカニズムで行われているのかは分からないが、澪の白い着物は、鹿の姿のときの毛皮の色からきているのだと思う。彼女自身はおそらく寒さを感じていないのだろうが、真冬に薄手の着物のみという格好は寒々しい。
 そのうち袖が短くなってしまった綿入れでも持ってこようかと聖が思案していると、澪はようやく飽きたのか顔を上げる。
「では、菓子でもいただきながら気長に待つとしよう」
 あまりにぶしつけな催促に、聖は苦笑いする。結局は誰を待つのか分からないままだが、澪とのんびり元日を楽しむのもいいだろう。聖は持ってきた耐水シートを雪の上に敷くと、魔法瓶と差し入れの袋を取り出して腰掛ける。澪は当然のように隣に座り、目を輝かせながら聖の一挙手一投足を見守っていた。

「冷たっ」
 澪に二杯目のお茶を注ごうとしたとき、二人がもたれていた杉の幹が突然揺れ出した。枝に積もった雪がはらはらと落ちてくる。それはすぐに、大きな音を立てながら雪の滝のごとく降り注いできた。
 聖は慌てて魔法瓶にフタをするとその場に置き、とっさに立ち上がった。その目の前に雪の塊とともに何かがひらりと飛び降りてくる。地面からもうもうと巻き上がる雪煙の中で、何か大きいモノが動いていた。
『お! 久しいな、鹿の!』
 姿を確認するよりも早く、威勢のいい男の声が聖の耳に響き渡った。聖が目を丸くしながら声の主を確認すると、大杉から飛び降りてきたのはごく普通の青年だった。いや、いくら見た目が人間でも木の上から登場するなんて明らかに普通ではないし、聖の『聞き耳』が声を捉えたということは人の姿をした『人外の何か』なのだろうが――。
 詳しくは分からないが、旅装という印象。梅鼠(うめねず)の動きやすそうな和装に脚絆(きゃはん)、手甲、それに足袋と草履という出で立ちの青年はぴょんぴょんと軽い足取りで澪の前まで来ると、がははは、と豪快に笑った。
『おうおう、無事だったのかい。どうしてんだか、ちっと心配してたんだぜ』
「しばらくじゃな、八雲どの。……無沙汰をしておったが、こうして元気でおる」
『とんと見ないと思っていたらば、今年は飾りも餅もあるからよ。立ち寄ってみたら、男連れたぁな』
「からかうでない」
 やくもと呼ばれた青年は親しげに澪と言葉を交わし続ける。澪が呼び出そうとしていたのは、彼で間違いないだろう。手持ちぶさたになった聖が居心地の悪さを感じていると、気付いた澪が聖を話の輪に呼んだ。
「聖、紹介するぞ。儂の古い知り合い、八雲どのだ」
 八雲は太い眉毛をぴくりと上げて、人懐っこい笑顔で聖のほうを向いた。まるで墨のように見事な黒さの髪は肩で切りそろえられていて、彼の動きに合わせて揺れる。それが、彼の陽気さによく似合っていた。
『そうそう。……気になってたんだ。この坊主はいったい?』
「人間です」
『人間です、とは面白い』
 何かに気付いたのか、八雲はポンと手を打った。
『ああ! そういや、おいらはうっかり姿を消さずに来ちまったが、白鹿もそうだってこたぁ、あんちゃんも只のヒトじゃあねえってことかい。白鹿とはどういう繋がりだ?』
「名前は聖といいます。……僕は『聞き耳』です。澪さまとは昨年の春からの知り合いになります」
『ほう、聞き耳』
 それを聞いた途端、八雲の目がきらきらし出した。八雲からは、好奇心旺盛な少年のようなしなやかさを感じる。澪をはじめとして、聖が出会ってきた神様というと見た目は若いのに老成している――悪く言えば年寄り臭い印象であることが多かったが、八雲ははつらつとした青年に見えた。
 神にもいろいろあるものだと澪をちらりと見ると、向こうもこちらの様子をうかがっている。澪が『聞き耳』ではなくて良かったと、聖は曖昧に笑ってごまかした。
「この目で見るのは初めてだ! 見たところ、なんの変哲もない可愛い小僧っ子だがなあ。耳がでかいとか、もっと分かり易いもんだと思ってたぜ」
 そんな聞き耳は嫌だ。
「見た目は普通の人間と一緒ですよ。耳がいいだけです。ええっと、八雲さまは、いったいどういう」
 気を取り直して、今度は聖から尋ねてみる。何者かは分からないが、澪と対等以上に口をきいているということは相応の格のあやかしだろう。そう思って敬称を付けると、八雲は照れくさそうに鼻の下を擦った。
「八雲さま、なぁ。……おいらはなあ、どう言ったらわかりやすいかねぇ。まあ、なんだ、新年を告げる使いっ走りと思ってもらって構わんよ。みんなからは『年取りさん』って呼ばれてる」
 聖に気を使ったのか、八雲の声はいつの間にか頭に直接流れ込んでくるような音から肉声へと切り替わっている。しかし、新年の神様とは、いったいどういうものなのだろう。ピンとこない聖が考え込んでいると、澪が助け船を出してくれた。
「八雲どのは年神(としがみ)じゃよ。毎年正月になると密やかに家々を回っておられる」
「飾りのあるところなら、どこへでもな。家内安全無病息災、五穀豊穣豊作祈願。わりと何でもこなす働き者さ」
 八雲はミニ門松を指して笑った。聖はその安っぽいお飾りをまじまじと見つめた。こんなチープなものでも門松さえあれば来てくれるとはまめな神様だ。
 しかし逆に言えば、この程度の飾り付けすらしないような世の中になると、八雲の仕事は無くなってしまうのだろう。果たして正月を誰も祝わなくなるときが来るのかはさておき、事実、嘉章や聖だって準備したはいいが飾ろうとはしなかった。澪のところに持って行こうと思わなかったら、お飾りが入った袋ごとゴミ箱行きだったに違いない。そう考えれば、いくら小さなものでも八雲にとってはありがたいのかもしれない。
「この頃はすす払いもしなくなってきたし、おいらたちにゃ肩身が狭い世の中になっていくわなぁ」
 八雲も聖に近いことを考えているらしく、大げさに嘆いた。神やあやかしにだって悩み事はあるのだろう。明るく振る舞いながらも、言葉の端には彼には似合わない諦めのような匂いが漂う。たまらず、聖は八雲に声をかけた。
「僕は、八雲さまのことをずっと覚えていますよ。ご縁があってお会いできたんだし、これでさよならなんて寂しいじゃないですか」
「本当かい?」
「ええ。皆さんから聞いたことを忘れないのが『聞き耳』の役目かなと、最近思っているんです」
「……聖は、いいやつだなぁ」
 感無量といった面持ちで、八雲が聖の頭をぐしゃぐしゃとかき回した。それがおかしかったのか、こらえきれずに吹き出した澪は、やがて真顔で八雲に向かうと「肩身が狭い、とは言うが」と静かに切り出した。
「そうかもしれぬが、そうでもないかもしれぬ。……せっかくここまで繋いできた魂。儂は、気付いてくれる者がいる限り足掻いてゆこうと思っておるよ。口では弱気なことを言っておっても、お主もそうであろう?」
 どことなく誇らしげに、澪は決意を表した。
 八雲は聖と澪を見比べて、穏やかに笑った。その顔は、先ほどまでに受けていた感じとは明らかに違う大人のもの。ああ、やはりこの青年は年経た神なのだと、聖は納得することができた。人知れず年輪を刻みながら確かに存在し、しっかりと息づいてきた年神。
 が、大人びた眼差しはそのひとときだけだけだった。八雲はすぐに相好を崩すと、おどけたように澪を覗き込んだ。
「捨てられる神ありゃ、拾われる神もあるって? 確かに、聖みたいなヒトが付いてりゃあいいか。話し相手にゃもってこいだ」
 話に一区切り付いたところで、八雲が「さて、と」と、大きく伸びをした。足を曲げ伸ばししながら二人を見比べ、深呼吸する。
「そんじゃ、おいらはそろそろ次のところに行くわ。まだまだ、おいらを待ってくれてるヒトもいるみてぇだしな」
「それでは、また来年じゃな」
「おうよ。……聖がちょっと面白かったから、特別にお年玉をやろう。その餅、雑煮にして食ってみな。おいらの魂、お裾分けだ。聞き耳も、もちろん白鹿も達者でな。焼け石に水かもしれんが、ちったぁあんたの身になるかもな」
 八雲は、ミニかまくらを親指で指差した。
「ありがたい。恩に着るぞ」
「なんのなんの。次も、お互い元気で会いてぇし、おいらもそれくらいしないとな」
 八雲は、じゃあな、と言い残すと、両足を揃えて飛び跳ねた。背中に羽があるかのように軽々と大杉の枝へと乗っかり、枝から枝へと飛び移りながらてっぺんを目指す。またたく間に、その姿は高く澄んだ空へと溶けていった。

 見上げたままその場に立ち尽くしていた聖は、澪の「そうじゃ、聖」という呼びかけで地上に戻ってきた。思い詰めたように、何かを迷っているように、眉を寄せた澪が神妙な顔つきでこちらを見つめている。何か、言いたいことがあるのだろうか。
「どうか、しましたか?」
「いや。……その――今年もよろしくな」
 聖が首を傾げて尋ね返すと、照れ笑いを浮かべ、澪はぺこりと頭を下げた。考えてみれば、さっき八雲に言ったことの方が恥ずかしいような気もするけれど、それも澪らしいと思う。聖も心ばかりの挨拶でそれに答える。
「はい、もちろん。よろしくお願いします、こちらこそ。……あ、あけましておめでとうは、ハッピーニューイヤーっていうんですよ」
 去年はいろいろなことがあったが、澪との出会いはおそらくいちばん大きな出来事だったと、聖は振り返る。今年も彼女に助けられることがあるだろう。彼女を支えることも、もしかしたらあるのかもしれない。
 澪は難しい顔で、唱えるように何度もカタカナ言葉に挑戦している。お茶会の続きをするべく、聖は再び魔法瓶を手に取った。

 澪と共にお年玉を食べた聖が、今年の冬は風邪をこじらせなかったことに気付いたのは、春を迎えてからのことだった。

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